'00ANDES
アウサンガテ山域トレッキング報告

                             熊谷トレッキング同人   村越 昇

1、はじめに
 1990年の夏にペルーアンデスの山旅を楽しんだ。ブランカ山群の短いトレッキングとクスコ周辺からチチカカ湖にかけての観光であったが、ヒマラヤとは異なるアンデスの魅力の幾つかに強い関心をもった。なかでもクスコからチチカカ湖へ向かう車窓から眺めた4000mの高原の光景・・・・・・、緩やかな起伏の広大な草原の延長線上の彼方には氷河の高峰が白く光り、草原の所々では放牧のリャマが草を食み、一部には草で屋根を葺いた小屋が見られ、ジャガイモらしき畑も見えた・・・・・・に強く興味を引かれた。
 「あの草原を延々と歩いて、白い峰の氷河の舌端に達したい、途中リャマの放牧やジャガイモを作っている農民と話が出来るかもしれない」・・・・・・そう思って10年、この間アンデス高地で活動を続けている写真家の高野潤氏の写真集などで興味はますます深まっていった。しかしヒマラヤ歩きは毎夏となり、結局実現は定年退職を待つこととなるのだが、足を踏み出すきっかけは、クスコ在住の篠田直子さんから戴いた年賀状だった。「アウサンガテの山を歩いてみませんか!」の一行だけの手紙で“今年のうちに・・・・”を決めることとなった。
 ペルーアンデスの登山行動の好機は乾季の4月から9月までと聞いたが、諸条件が満たされず、結局雨季に入ろうとする10月に実行が決まったのは、夏のヒマラヤトレッキングから帰国してからだった。トレッキングは神の住むアウサンガテ山域での1週間限り、その後は南米旅行を楽しむことにして、とにかく出かけることにした。
 相棒は就職活動に成功した大学院生の宮内浩志君、それに高野忠夫さんと吉田享子さんが車で入れるところまで付き合ってくれることになった。
 結果は雨季入りの雨や雪と相棒の高度障害に悩まされはしたが、イメージしたままの景色が展開し、アウサンガテの山中ではイメージを超えた体験をすることが出来た。もともと「高原の彼方の白い氷河にとにかく行き着こう!」として出かけた偵察的な旅、アウサンガテ山域のトレッキングの魅力を体験し、さらにはアンデス高地の旅を楽しみ、今後の豊かな山旅のための情報を得ることが出来た。


2、行動の概要

@略図 (準備中)
A日程

計画 実際の行動
10/3 東京 → マイアミ経由のAA便   
→ リマ  リマ滞在   
リマ→クスコ(3400m)
高度順化を兼ねた観光
  
マチュピチュ観光   
トレッキング出発
CUSCO ⇒車6h⇒ TINQUI(3600m)
谷間の塩田見学
TINQUI →歩1日→ UPIS(4300m)
            温泉あり
トレッキング出発
CUSC0⇒TINQUI 途中の町お祭り
トレッキング出発
CUSC0⇒TINQUI 途中の町お祭り
晴⇒雨・雪
 TINQUI →7h→ UPIS
10 HATUNQOCH →途中5000mの峠
  → QOMERQOCHA(4300m)
雨・雪
UPIS →8h→ HATUNQOCHA
11 QOMERQOCHA →歩1日→
PACCHHANTA(4800m)小村・温泉あり
晴⇒雪HATUNQOCHA→QOMERQO
CHA→ TRESPICOS峰の下で幕営
12 PACCHHNTA →歩半日→ TINQUI ⇒
 ⇒車6h⇒ CUSCO
雪・雨 幕営地 →PACCHHANTA→
TINQUI ⇒ CUSCO
13 クスコ予備日
  
14 クスコ → リマ   
15 高野・吉田は帰国の途に、村越・宮内はパタゴニアへの旅に
  
B 参加者
高野忠夫 M 1929生   熊谷市  
吉田享子 F 1938生   熊谷市
村越 昇 M 1938生   熊谷市
宮内浩志 M 1974生   上尾市

C 現地手配など
NAO TOUR(篠田直子)
AV,LUIS UZATEGUI 925 CORIPATA CUSUCO PERU
TEL (51) 84-243066/246497  FAX (51)84-244992
E-MAIL naoko@terre.com.pe

3、アンデス高地へ
@ 10月4日(水)朝、ペルー入り 
灰色の分厚い雲から抜け出たら、手の届きそうなところに海岸線を見て、あっと言う間にリマ空港に着陸した。朝日を受けた乳白色の雲海の途中に突き出している氷河の峰をシルエットに見て何分も経っていない。美しいペルー入りであった。
   出迎えを受けて、リマ市内の早内さんのペンションCANTUTAに落ち着き、心こもるお世話を受け、快適なペルーの第一歩を踏み出すことが出来た。しかし早くもトラブル、我々の荷物が着かない。4日の深夜に空港に詰めてやっと3人分出てきたが、宮内の荷が来ない。結局翌朝空港で見つかり、クスコ行きには間に合うことで落着した。

 10月5日(木) クスコへ
   早朝のクスコ行き国内便は満席。ペルーの海岸線は曇天が非常に多く、熱帯低地なのに信じられないくらい涼しい。北上する寒流の仕業なのだが、曇天が続いているのに海岸線は砂漠を形成している。寒流が大気を安定させて、対流が起こらないからだそうだが来てみると不思議を感じる。
   そんな訳で飛行機は始め雲の中と上を飛ぶが、アンデス山地の上空になると晴れてくる。赤茶色の高原の向こうに氷河の峰が見えてきた。“しめた、まだ雨季に入っていなそうだ!・・・・・・”しかし近づくと相対的な高所の南側には新雪が付いている、やはり雨季に入っているようだ。そういえば8月に来た時の高原の色はもっと黄色かった、今は湿って赤茶色になっているのに気が付く。
   10年前と同様晴れ晴れとしたクスコ空港に降り立ち思わず深呼吸、胸が膨らむ。標高3400m、今回も空が青く抜けている。古いが格調高いHOTEL ER ANDES に落ち着き、篠田直子さんとの再会を喜び合う。
   高度順化を兼ねてワゴン車に乗り、3750Mの峠を越えピサク(PISAC2950m)の市場を訪ねる。10年前訪れた時の心の昂揚をもう一度・・・・・・とレンズを磨いて参じるが「失望」、観光客相手のみやげ物市場になってしまっていた。
   明日はマチュピチュの遺跡に列車に乗って出かける予定だ。高度を1000M近くも下げ、再び上がるので高度順化に非常に有効となる。

 10月7日(土) アンデスの谷の塩田  
   明日は日曜日なのでアウサンガテの麓に至る途中の町々では日曜市が開かれる、それは楽しいものだからトレッキングの出発は明日が良いだろう。との直子さんやガイドの配慮で、トレッキングの出発を一日延期した。
   空いた一日を利用して珍しい谷間の塩田を見に行くこととなった。
   ワゴン車のドライバーはNAO TOUR専属のセニョールハンス、親切でいつもニコニコしていて好感が持てる人だが、スペイン語なのでなんとも通じない。それでも3日目、最低限のことが通じるようになってきたから不思議だ。
   標高3500m前後の丘陵状の高原を走る。所々に湿原のような湖が見られるこのあたりは、多くの土地が耕地となっており、立派な喬木に囲まれた村が点在し、大きな町もある。雨季に入って耕された四角い農地は、斜面の角度によって掘り返された土の色に濃淡がついてパッチワークのようだ。周りの黄色い草原や、喬木に囲まれた村との対比で非常に美しい。草原にはリャマ、羊などの家畜が放たれており、その番は子供たちの仕事だ。
   美しい耕地が終わり、不毛な草原の真中から分かれた枝道が深く刻まれた谷に降りていくと景観が一変した。谷の一方の側がネパールの水田のような棚田になっており、無数に見える小さな田の多くと畦は、姥捨棚田の雪景色のように白い。SALNERAS(塩の谷)である・・・・・・壮観だ。
   塩田に立ち入って見る。谷の上部から透明度の高い細い流れが棚田に導かれている。この流れが強い塩分を含んでいて、日照量の多い北側斜面の田で水分を蒸発させ上質の塩となっていく。畦の結晶を指先につけて舐めてみるといい味がする。塩が美味しいことをあらためて体験した。
   十代半ばの男女が、まだ白くなりきっていない塩田で作業をしている。一枚の田は畳10枚くらい。かき回し、結晶したものを積み上げ、餞別した一部を谷に捨てに行く作業を繰り返していた。谷の下方に続く太い畦道からは塩の袋を背中につけたロバが登ってきた。しばらくの間足が釘付けになるような興味深い光景であった。
   小さな小屋があり、塩の値段表らしき張り紙がある。単位(多分1kg)につき4〜8ペソの4段階、同じように見える田で出来る塩の値段にこんな開きがあることも興味深かった。
   名残惜しい気分で帰途につこうとしたら、何処からともなく男が出てきて、一人あたり2ペソ(約65円)の入場料をとられた。

4、アウサンガテへ
 10月8日(日) 登山口の町TINQUIへ

   いよいよ憧れのトレッキングに入る。6日の短期間であるが期待が高まる。
   今日第1日目は車(ワゴン車)でTINQUIという登山口の町まで入り、あとの5日でアウサンガテ山群の中心部を一回りする、と言う。ガイドブックもなければ地図さえない、クスコからの方角さえ大雑把にしか判らない。
   ガイドはセニョールフェリペ(FELIPE)、数年間日本で働いたこともあって日本語が上手な青年、スペインの文化でなく先住民の文化をみつめ、大切にしていくことを熱っぽく語るインテリでもある。フェリペの他にキッチンのサンチアゴ(SANTIAGO)・助手のマリオ(MARIO)少年・馬方であるマリオの父親の合計4人、それに4頭の馬が我々のスタッフだ。我々二人には贅沢な陣容にいささか気が引けた。
   朝6時、クスコの町を通り抜けていく。この町は早起き、昨日宮内と覗いた大きな市場には人が集まり、街道を通う車も多い。チチカカ湖畔のプーノ(PUNO)に向かう鉄道線路と並行している南西に向かう緩い下り坂の幹線道路を1時間、オロペサ(OROPESA)という町の路上で食料のパンを買う。町外れの路上には何件もの小屋がけのパン屋が並び、ポリ袋に入れた丸いパンを掲げての呼び込みも盛んだ。クスコからチチカカ湖方面に向かう街道はインカ時代からの幹線で、当時の旅人はここでパンを仕入れて長い旅に入ったそうであるが、今ではこのオロペサのパンが名物となり、お土産として多くの人が買うのだという。我々も当時を偲んで旅の食料としてのパンを仕入れたわけであるが、なかなか美味しい。
   さらに1時間、ウルコス(URCOS、3175m)という町でプーノへ向かう幹線道路から分かれて九十九折れの道を上ること50分、高原(プーナ)に出た。緩やかな起伏で果てしなく広がる草原の彼方の雲間には氷河の高峰が見え隠れし、草原の一部のパッチワークの畑では、植付け前の掘り起こしをする農民の姿が望めた。この街道は幅10Mに満たない簡易舗装道路であるが、4600mの峠を越えて、アマゾン川沿いの熱帯低地の都市Pto、MALDONADO(プエルトマルドナード)に下りていくペルーの幹線道路の一つである。時おり大きなトラックがとすれ違うが、アマゾン地方の果物を運んでいるのだと言う。我々はこの道路と途中から分かれて山に入っていく。約4時間この高原を走るのであるが、この間標高は3700m〜4100m、緩やかな谷の下部には村が点在し、商店街と教会の面する広場を持つ町が三つあり、そこでは楽しい日曜市が開かれていた。
   この日曜市、周辺の農民が農作物を地面に広げるだけでなく、衣料品、日用雑貨を売る屋台が並び、立ち食いの店の香りが漂い、原色の民族衣装を纏った人々で晴れやかに賑わっており、まさにお祭りである。なかでもこのあたり最大のオコンガテ(OCONGATE)の町の広場ではフォークダンス大会が開かれており、黒山の人だかりは興奮の渦。村対抗なのだろうか、何やら書かれた何本ものプラカードが観衆の中で揺れている。それぞれ4,5人の男女が向かい合って駆け引きをするような様のダンスを踊っていたが、かっての日本の祭りの踊りや、現在でも雲南地方で踊られているダンスに似て興味深い。
   観衆の肩越しにと、カメラを掲げてうろうろしていたら、数人の男がトラックの荷台に引き上げてくれた。はやる心を抑える余裕もなく夢中でシャッターを切った。
   この地方の人々は、日曜市と称して毎週祭りを楽しんでいるのではないか、と考えたら非常に楽しくなった。
   14時近く、今日の終点ティンキー(TINQUI,3650m)の町の広場に着く。アウサンガテ山に一番近い町、自動車道路もここまでだ。あいにく雨がぱらつく曇天となってアウサンガテは望めない。スタッフの一人、サンチアゴの家の裏手にある空き地にテントを張る。雨が激しくなってサンチアゴの家でお茶となったが、アンデス農家特有のクイが足元を歩き回っていた。
    
10月9日(月) 曇り時々晴れ 氷河の舌端へ
   クスコに戻ってからチチカカ湖の観光に向かう高野・吉田さんにしばしの別れを告げ、2本杖でしっかりと歩き始める。小さな町を通り抜けて、谷の対岸の段丘を登りきった高みに出て早くも感動。雲間に現れたアウサンガテが立派な氷爆を真正面に据えて、手の届きそうなところに在るではないか・・・・・・。そこに至るまでは緩やかな起伏のイチュの草原・・・・・・・憧れてきた景色の真中に今私はいる。ジープが通れる程度の道を快適に登っていくが、アドベ(日干し煉瓦)の家が点在し、ジャガイモの植付けのために掘り起こされた大地が黒々と存在感がある。
   道の近くで掘り起こしをしている3人の農民に近寄って作業を見学する。オロペサで買ったパンが挨拶代わりだ。出作りであろうアドベの小屋があり、その前の0,5反ほどの土地は家畜の集め場所だったらしく糞が敷き詰められたよう。ここを耕して糞を肥料にジャガイモを作るらしい。
   作業はアンデス高地独特、道具は太い木の柄がついた鉄製のハック、柄の下部には深く土に刺すため足で踏み込む足置きの枝、その少し上部には刺した土を返すために握りの枝が出ている。作業は3人一組、父親と息子が60度ほどの角度をとってハックを同時に刺し込み、次の動作を使って2人で一塊の土を掘り返す、2人の前に低い姿勢で位置した母親がそれに力を貸し、その土塊をきちんと並べていく。2人の男は大地にハックを刺し込む最初の一撃のために、飛び上がって自分の体重を強くハックにかける。激しい労働であり、3人の呼吸がぴったり会わなくてはならない。ガイドのフェリペがトライしてみたが4,5回の動作で息を切らした。
   2時間歩いたこのあたりは標高4100m、これより上に耕地はない。振り返って見渡すと草原の所々で掘り起こしの作業が行われており、リャマがいたるところで草を食む光景が限りなく続いている。美しくも心休まる光景だ。
   そこから1時間、草原の主役イチュもなくなり、サボテンの仲間や葉がなく黄色の花が咲く短い草の砂礫に覆われた峠状の地に至る。氷河のエンドモレーンらしい。
   景色が一変した。前方は池溏が点在する幅広く浅い谷、その上流は尾瀬沼規模の大湿原。大きな氷蝕谷が堰き止められて出来た氷河湖が、湖底の堆積物が増え高層湿原に変ったのだろう。中央部には激流が、他に細い流れが無数にある。放牧のリャマが多いが、池溏が干上がったような地形が見られ乾燥化が進んでいるようだ。
   右岸のサイドモレーン上を行く。雪が降り出し、放牧小屋に逃げ込んで温かいスープの昼食をとる。
   再び雪が降り出したなか、湿原を横切ってUPIS(ウピス)に向かうが非常に寒い。湿原の真中に小さなダムを造っていた。コンクリートの壁で5Mほどの幅の流れを堰き止めて下の村の灌漑用水を確保するらしい。周辺の護岸には太い針金のジャカゴが造られていた。
   湿原の横断に1時間、ダムのすぐ上の湿原の最上流には温泉が湧き3×4m程度のコンクリートの浴槽まである。周辺の湿地は温かく黒い小さな蛙が何匹もいた。
そして温泉のすぐ上の大岩がゴロゴロした谷底が今日のキャンプ場だ。なんと到着と同時に晴れ上がり、歩いて1時間の距離に大氷爆が現れた。氷爆の左右は切り立った岩壁、それらの上部のアウサンガテ峰はガスの中だ。左右の緩やかな尾根は多分サイドモレーン、枯れているが短い草に覆われ、大岩ゴロゴロ。温泉までついた超豪華キャンプ地に大満足だ。
何処からともなく一人の派手な民族衣装の女性が糸を紡ぎながら現れ、ガイドたちとケチュア語で話し始めた。口調も動作もゆったりしているが態度は人懐こい。尾根の上の放牧小屋にいて一人でリャマの番をしている20歳の主婦だという。夫は下の町の畑で働いているそうだが、久々に人にあったと見えていつまでもキャンプから離れようとしない。犬が二匹彼女のそばにいつも付き添っている。絶好の被写体とばかりにシャッターを切るが、何故か絵にならないのは被写体としての彼女の動作が問題であったのかもしれない。日が落ちる頃、彼女は何度も立ち止まっては振り返りながら丘の上に戻っていった。薄暮にフェリペを含めた3人で温泉に入る。ぬるい湯で、出入りには寒さで悪寒を伴ったが、長湯で暖まりさっぱり、それにしてもアウサンガテを眺めながらの露天風呂だ。

10月10日(火)曇り→雪 相棒が高度にやられた
   1:30、宮内に起された。熱38,4度 バッファリンを飲ませる。
   4:00 38度、下痢が始まる。高度障害だ。
   5:30 39度 酸素飽和度81、脈拍118、ボルタレン2T、ランタンストーブで暖める。
   8:00 ボルタリンが効いて熱7度に下がる。日本米のお粥を食べさせ、宮内は馬に乗っての出発を決める。但し酸素飽和度は76%。
   9:00出発、大氷爆の正面から左に折れて右側の浅い谷を登る。遠くから見ると温泉の硫黄が結晶したような白と黄色の物体はサボテンだった。白いひげに黄色い花、緑の実がなっていて食べると甘酸っぱくてけっこういける。猫のような灰色の動物が横切った。ねずみの仲間だそうだ。4500mで一本、放牧の石小屋があってリャマがいるが人影はない・・・・ここにサングラスと帽子を忘れて後で苦労することになる。
   谷を詰めて広々とした峠に出る。広い谷が下って我々が登ってきたのと反対側の高原に落ちていく。絶景だが曇天で写真にならない。
   アウサンガテ山塊の絶壁の下をトラバースして進むと、山塊の後ろ側に回りこんで前記の広い谷の上流に入り込んでいく。一旦谷に降り、岩壁をよじ登って左岸に出るのだが凄い景色が展開する。カルデラのように見えるこの谷の左岸には段丘が張り出しているが、右岸はアウサンガテの岩壁と氷河がそのままエメラルドグリーンの氷河湖に落ち込んでおり、霧の演出が加わって壮絶な光景を演じていた。神秘な色の湖が幾つあるのだろうか、数Kmもある大きなものから径100m付録のような湖まで、それが階段状に連なって谷の奥の霧に霞むまで続いている。
   谷の左岸に出る頃から雪と霙が交互に降る辛い天気となった。宮内は馬の背で震えているだろうがはるか先を進んで声もかけられない。馬は早い、歩き出して1時間後から遅れて一人で歩いているが、追いつこうとしてもハアハアゼイゼイ、4500m以上の高度が効いている。
   17:00 昼食後から4時間歩き詰でハツンコチャ(HATUNCOCHA 4520m)にバテバテで着いた。なんとここは霧に霞んでいた谷のどん詰まりだった。段丘の上から200mほど急斜面を下った緑の草地には清流が流れ絶好のキャンプ場になっている。
 1時間前に着いた宮内の状態は、熱は37度に下がり一安心。しかし下痢は続き食欲がなく、味噌汁を半カップ飲んだだけだ。ワカマツ下痢止めとボルタレン2Tを飲ます。
  疲れてボケ-としていたら夕日が正面の氷河に射し込み、右側の赤い山肌も燃えた。キッチンのサンチアゴが下の池溏のような池で鱒を獲ってきて焼いてくれた。非常に美味しかった。暗くなって月が出た、傘はない。静かな夜だが、時おり氷河が轟音を立てて崩落した。

10月11日 曇り→雪 緊急下山を決めるが
   昨夜20:00 宮内熱40度 酸素飽和度58% 
   早朝 4:00 38,8度 酸素58% ⇒ソルシリン(抗生)2カプセル
   最悪に近い状態であり、高度を下げるしかないのでフェリペに緊急下山を要求する。
   眼下に見える谷を下るか、往路を戻ったらどうかと提案するが、スッタフは相談の結果「眼下の谷はTINQUIと全く反対で遠すぎる、往路を戻るならこのまま予定のルートを進んでもあまり変らないだろう、村越も馬に乗れば今日中にTINQUIに着ける。」との回答、納得しがたいがこの地では彼らがベテラン・・・・・・従うことにして急いで出発する。
   私も馬の背に。馬は早い、昨日から心配していた高度差500mの急斜面を90分で登って4900mの峠に達した。途中霧の斜面を疾走するビケーニャ(野生のアルパカ)の群れに出会う。                霧が流れる峠は荒涼としているが、昔からの街道だったのか古いケルンが林立していた。
   馬を降りてガンガン下ると傾斜が緩やかになりリャマが放牧されている草原に出る。薄日が射し気温が上がってきたら人心地がついてきた。宮内は小康を維持している。
   標高4500m、最初の放牧小屋に子供の姿が見えたので立ち寄ってみる。25uほどのリャマをかこむ石垣の一つの角に、2坪ほどのイチュを屋根に載せた石積みの小屋、小屋の前で母親らしい女性が大きなリャマを解体していた。昨夜狐に襲われて死んだリャマだというが、内臓やももはすでに石垣の上に並べられて、背骨を外していた。背骨は犬の餌にするのだそうだ。5歳を頭に3人の年子が母親の背中で見詰め、犬が行儀良く座っていた。父親は下の畑を耕しているそうだ。夢中でシャッターを切る。
   このあたりからの広くて明るい谷ではたくさんのリャマが放牧されている。駱駝科のこの家畜は最も良質の毛を提供するそうだが、可愛いい動物であり、何頭ものリャマにじっと見詰められると恥ずかしい気がする。
   10:00、この谷を下りきると他の谷も合流した大きな湿原に出る。上部の乾いた部分には、50uほどの石垣で囲まれた土地が4ヶ所あり、その中には2,3棟の家屋が立っている。子供が3人我々を珍しそうに見詰めていた他に人影はなく、犬が盛んに吠え立てた。
   ここがコメンコチャ(QOMENCOCHA 4300m)急ぐ我々は休みなく湿原を横切って別の谷の登りにかかる。再び馬に乗るが雪が降り出し、冷たくせつない行進となる。ふと見るとサンチアゴとパパ(マリオ少年の父親)はだしサンダルであり、フェリペとマリオの靴もビショビショだ。次第に雪が厚くなり馬の脚の動きも鈍くなってきた。宮内は震えている。
   16:00 今夜はここで野営するという。谷の中ほどだろう、雪が降りしきりガスも巻き何も見えない。積雪は10cmほど。高度計の針は4700mを指している・・・・「とんでもない、こんな高度では!」と反対するが、「この先急斜面のトラバースがあり、馬が雪に足を取られて非常に危険だ、馬が落ちたことがある場所だ」と云われて黙るしかなかった。
   18:00 宮内 熱7,7度 酸素68下痢の回数は減るが殆ど歩けない。りんご1個とスープ
   冷たいテントをコンロで暖めるが、火を消すとすぐに冷えてしまう。
   20:00頃か、外が明るいので首を出すと、煌煌たる満月が氷河の尖峰を照らしていた。

10月12日 晴れ⇒雪 やっと下山できた
   深夜2:00 喉の渇きを訴える宮内に起された。テントを暖め、お湯を沸かしてもらい何杯もお茶を飲む。落ち着いてうとうとしていたら明るくなってきた。 
   5:30 外は小雪、そばの池は凍ってしまった。
宮内 熱39、0度 酸素飽和度52% 脈拍122 ⇒ 5回目のソルシリン2T 
ここからパクチャンタ(PAKCHANTA)まで2時間、さらにティンキーまで2時間だという。天候の好転はなく、難所のトラバースも解決していない。でも急ぐしかない。
   6:00 朝食、突然晴れ上がった。凄いところにいる・・・・・昨夜月光に光っていたサンタカタリナ(SANTACATALINA)峰、真正面の鋭いナイフのようなピークを突き出したトレス・ピコス(TRES PICOS)峰などがすぐそばにあり、新雪に朝日を受けてピカピカに光っている。登ってきた谷は源頭が近いと見えて浅く狭く、キャンプのすぐ下には小さな湖があるが、熱帯の朝日を受けて見る見る氷が融けていく。馬が鼻先で雪を跳ね上げてその下の草を食んでいる。
   7:15出発、雪がギンギンに光って、なくしたサングラスが非常に恨めしい。やむなくインドシルクのスカーフで顔中を覆って馬の背に乗る。
1時間で広い峠、5000mと岩にペンキで書いてあるが、手持ちの高度計では4800mしかない。この峠からのトラバースは確かに危険だ。すでに雪はかなり解けているが、宮内を歩かせて通過する。彼方に明るい丘がなだらかに下っているのが見える・・・・・あそこまで行けば、と気分も明るくなるが、赤岳山頂から小淵沢を望むようだ。
   さらに1時間下ると雪もすっかりなくなり、右下に美しい三つの湖が見えてきた、それぞれ水面の色が異なるがコメルコチャ(COMER COCHA 緑の湖の意)と言うそうだ。
この頃から白い山に雲がかかり始めたが、30分ほど経つと一天俄に掻き曇って雹が降ってきた。ネックレスの真珠くらいの大きさだが当たると痛い。見る見る大地が白くなっていく。やがて雪に変り、標高が4500mを切ると雨に変わって、結局最後の最後、ティンキーに着くまで濡れ鼠のせつない行進となった。
   11:00 パクチャンタ(PACCHANTA 4500m)が見え、12:00に到着した。大きな村で2階建ての立派な建物も数戸ある。雨を避けて逃げ込んだ空家の側に温泉があり、大きな浴槽ではマリオ少年が水しぶきを上げている。ここまで5時間かかった。宮内は落ち着いた状態。
「パクチャンタに行けば車がある」とフェリペが云ったのを言及するが埒があかない。「車が無いのなら誰か走らせて、ティンキーから車を呼べ」とも云ったが結局とぼけられてしまった。すぐに判ったが、ティンキーまでの道はとても車が通れる道ではなかった。
冷たい雨の中を再び出発、だだっ広い草原の道をだらだらと下っていく、轍が数本。再び雪になり、リャマも寒そうだ。黒く掘り起こされた畑、アドベの家、何処までも続く黄色い草原・・・・・・晴れてくれば絵になる光景だ。
   15:00 180分かかってやっとティンキーに着いた。とにかく着いた。
急いで車を探す、フェリペはクスコへ行くトラックを・・・・などと言っていたが、尻をはたいて、120ペソでタクシーを見つけさせた。クスコの直子さんとも無線(電話が来ていないので、無線機を持って商売をしている人がいる)で連絡が取れて大安心、宮内の熱も下がり、とりあえずサンチアゴの家で遅い昼食をとる。
ティンキーの広場では到着した時から大きな人垣が出来ていたが、なんと「人民裁判」をやっていた。自転車などを盗んだ女性1人を含む4人組の泥棒が捕まったのだ。覗いた時は円の中央に自転車2台とシートを掛けられた何やらがあり、その側で2人の裸足の男が、両手を前に出しての「うさぎ跳び」、「腕立て伏せ」の「刑」を300人を超える観衆の前で「執行」させられていた。二人の男の顔は生気が無く、何とも情けなくみえた。裁判の結果は、犯人を官憲に引き渡すことが決まったそうだ。地域のコミュニテイの伝統が生きているのだろうか。
   17:00 サンチアゴ・マリオ・パパの別れを告げてクスコに向かう。
途中電話が通じているコットカ(CCOTOCA)の町で直子さんに電話する。なんと酸素を積んだ迎えの車がそちらに向かっているのでそこで待て、ということだ。温かい心遣いに感謝しつつうらぶれたカフェで待つこと少々、ワゴン車がやってきた。
標高も低くなってかなり元気になってきている宮内に、無理に酸素を吸わせて月光のアンデス高原をクスコに向かった。身体は眠くならないくらい疲れていたが、こんな大きな安心感を味わったのは何十年ぶりだったろうか。

10月13日 クスコの休日
   昨夜22:00にクスコにつき、直子さんのお宅で日本でも食べていなかった「マツタケご飯」をご馳走になり、そのまま泊めていただいた。
   浅い眠りのまま目が覚めた。疲労が蓄積している、今まで体験したことの無いめまいがしてなんとも煩わしい。
   宮内は全快。すっかり元気になってもりもり食べている。
   近所の民宿に泊まっていた高野・ 吉田さんがやって来て、積もる話に花が咲いた。
   お昼から午後に掛けて、今の家に隣接して建築している直子さんの家の屋根に置物の犬を上げる儀式を見物した。狛犬のような犬で、屋根に上がると沖縄の民家の屋根を連想する。数人の祈祷師が祈りの歌を吟じ、ケーニャを吹くなか、職人がセメントで犬を固定していく。この祈祷師達が日本にも演奏に来たことのあるケーニャ(アンデス伝統の笛)のグループと聞いて驚いた。
   数年前、オカリナの宗次郎と一緒に青森の三内丸山遺跡などでフォルクローレの公演をしたグループだ。直子さんも同行し、私も誘いを受けたが都合がつかず、同人の青木君たちが館林の演奏会に行ったことを思い出した。
   儀式が終わるとお祝いのご馳走だ、大きな塊の羊肉煮にかぶりつく。食事の次がいい、3人のミュージシャン達の演奏が狭い部屋で延々と続く。ヨーロッパ系の男性と女性、ネイテイブの男性が数種類のケーニャと太鼓を使い歌い演じる。女性は幼児を抱いての演奏だ。
   心地よい時間がアンデスの旅の終りを象徴していた。
   明日はリマに戻り、明後日の夜はパタゴニアを目指して、チリのアリカ行きのバスに宮内と乗る。高野・吉田さんはナスカを観て同じ夜に帰国の途に着く。

5、おわりに
   アウサンガテのトレッキングは雨季入り、相棒の高度障害などの条件によって次回に課題を残すことになったが、次の課題を準備することが旅の目的でもあると私は思っている。それに元はといえば、「憧れの地にとにかく出かけて取り掛かりを創ろう」としたのが今回の山旅でもあったのだから、この点で云えば収穫の多い、充実した旅であった。
   イメージしたとおりの光景に出会え、凄い景観に遭遇し、珍しい情景を何回も体験し、学習の成果は予想を上まわることが出来たアンデス高地の旅であった。
   その後の私の南米旅行は、アンデスの山旅での成果が大きすぎたのだろうか、期待していたパタゴニアもパンパ平原も不完全燃焼に終わり、ブエノスアイレスでさらに旅を続ける宮内と別れて10月31日帰国した。
   ところが旅の終盤からの身体の不調は帰国直後の思いもよらぬ入院となり、手術を挟んで80日にも及ぶ入院生活を強いられることになった。今では山歩きが出来るまでに回復するようになったものの、アウサンガテに再び挑むことは叶わぬ願いとなってしまった。せめて白い峰を望む草原で、したたかに生きる農民たちと交流し、彼らの生き様から学べることが再び出来ることを願うものである。
   このような事情で報告が大変遅れたことをお詫びいたします。
   最後にこのアンデスの旅で大変お世話になった、クスコの篠田直子さん、リマの早内さん、フェリペ氏をはじめとしたスタッフの諸君にお礼申し上げます。       (2001,5,6)