トレッキング記録    熊谷トレッキング同人

2004年 A隊
スピティ・チャンドラタール 行動記録

スピティ・チャンドラタールへの旅    大嶋 博

故村越昇先生を偲ぶヒマラヤ行   寄居町  花輪 仙造


<第1日 7/25(日)>
8:32 熊谷発
9:25 上野着 −京成上野10:10発 −成田空港11:07着
13:10 出国手続き完了 タバコ2カートン・ウィスキー(リザーブ)1本購入
14:10 JL471 搭乗
14:30   〃   離陸  高度10890m 時速910km 気温−45
《インド時間》
19:40 インデラガンジー国際空港着 100ドルをルピーに両替する。
20:30  〃    〃 出発  現地ガイド ラビさん
21:00 デリーのル・メリディアンH(Le.Meridien)着

<第2日 7/26(月)>
4:30 起床
5:37 ル・メリディアンH出発
6:25 ハリアナ州(Haryana)に入る。
11:36 ヒマチャルプラディッシュ州(Himachalpradesh)に入る。
13:05 州政府の検問にあう。
13:05 燃料給油
15:20〜16:40 昼食(レストランHill top)
20:00 マンディ(Mandi)の近くで休憩
24:00 マナリ(Manali)アシュラム下到着 ヘッドランプをつけ宿に入る。

<第3日 7/27(火)>
 7:30 起床
 8:30 朝食
10:30 アシュラムをオートリキシャで出発する。マナリ散策
14:00 チョップスティックで昼食をとる。
16:00 アシュラムに帰る。

<第4日 7/28(水)>
5:00 起床
7:30 朝食
8:25 アシュラム出発
8:30 アシュラム下出発 ガイド;ソナム ドライバー;ラメッシュ コック;ラタン   メンバー;山田.大嶋
9:45 写真(青いケシ)を撮る。3195m
9:50〜10:35 マリー(Marrhi)にて休憩し、チャイを飲む。  
13:00〜13:40 チャトル(Chhatru標高3560m)にて昼食をとる。(ダル及びベジタブルカレーとライス及びチャパティ)
14:15 ダダルプー着 テント泊 標高3600m。16時頃森田パーティが着いた。
18:30 夕食(ベジタブルとチキンカレー・ライス・スープ・チャイ)

<第5日 7/29(木)> 
5:30 起床 天気曇り
6:00 チャイ
6:30 朝食(おかゆ・パン・サラダ)
7:30 出発 小雨がぱらつく。
8:11 チョタダラ(Chhotadrara・3810m)通過
9:00 バタル(Batal標高3960m)の茶店にて休憩
10:15〜10:25 クンザンラ(Kunzumpass.4551m)休憩・写真ガスのため景色は見られなかった。
11:16 ロサール(Losar標高4079m)着 ここでパスポートのチェックがあった。近くのレストランで昼食をとった。(ダルカレー・ライス・チャイ)
14:00〜15:00 カザ(Kaza標高3600m)着 スタッフはパンク修理をし、我々は町で写真を撮った。
16:00 シチリン村(shichiring標高3510m)のテント場着
17:30〜18:00 ダンカルゴンパ(Dankargompa標高3890m)見学
19:00 夕食(ライス・チキンカレー・スープ・サラダ)二人とも順調に高度に馴れる。

<第6日 7/30(金)>
5:15 起床 天気曇り
6:00 チャイタイム
8:00 シチリン出発
8:25 マネ村(Mane2)着、標高3600m マネ1とマネ2がある。
11:00〜12:15 マネレイク(Mane Lake) 標高4110m昼食及び化石探し
13:30 マネ2村着 途中雨がぱらつく
14:50 マネ1村出発
15:00 シチリン着
17:00 夕食 マネレイクへのトレッキングは、標高差400mを2時間30分位で登る事が出来た。マネ湖は、この地方の最高峰であるマニラン山(Mt Manirang 6593m)の懐にある湖で半分埋まった状態の氷河湖であった。湖岸は化石が多く、ハンマーを持って1時間位さがしたが、期待のアンモナイトは取れなかった。  

<第7日 7/31(土)>
6:00 起床 天気曇り
8:55 シチリン発
10:00 カザ(Kaja)着ここでジープを乗り換える。
11:00〜11:30 キバル(Kiber)村 標高4205m
    キバル村は、標高4205mにある村でヒマチャールプラディッシュ州で最も高い所にある村とのこと、近くにもっと高いと思われる村(ティッチョム)があった。写真をいっぱいとった。
11:50〜12:30 キーゴンパ(Kigompa)標高3900m
    キーゴンパは、標高3900m位の丘の上にあり、スピティ地方でもっと有名なゴンパであることである。中をいろいろ見せてもらったが、思ったより近代化されていた。尚ガイドのソナム氏は、ブッディストでラマ教のお寺はモナステリーでヒンディ教のお寺はテンプルと呼んでいるとの事であった。
13:00 ラングリック(Rangurik)着 標高3600m
13:30 昼食 チャーハン・サラダ
    午後は、洗濯をしたり、川で身体を拭いたりしてゆっくりと過ごした。
    スピティ地方の雨は、ぱらつく程度で濡れるほど降らないようである。晴れると強烈な日射しであった。森田氏のグループと一緒になる。
17:00 夕食

<第8日 8/1(日)>
4:00 起床
5:15 ラングリック出発 朝食ぬき
7:00〜7:20 ロサールで朝食をとる。
8:07〜8:38 クンザンラ休憩 写真撮影
9:45〜10:30 チャンドラタール(Chandratal)・標高4270m
    念願の村越ケルンのすぐ下までジープを付け、線香を手向ける事が出来た。チャンドラタールは、あくまで空気は透明で水は青く澄んでいた。
11:20〜11:40 バタル着昼食をとる。(ベジタブルカレーとライス)
   森田グループと一緒になる。
13:00 ダダルプ(3545m)通過
13:10〜13:20 チャトル休憩
14:20 大規模な道路崩壊地点(標高3000m?)着
14:25?or14:57?徒歩にて下山開始
17:50 コチ(標高2530m)の近くの道路に出る。
18:50 コチ出発
19:50 アシュラム着

<第9日 8/2(月)>
6:00 起床
8:00 朝食
9:00〜11:00 初めにマヌテンプルを見学し、その後ドングリテンプルを見学した。
11:00〜12:20 マナリにてショッピングをする。 六角アクセサリー 50RS*5 リトルタンカ200RS*3  ハーブティー 70RS*7
13:00 チョップスティックで昼食をとる。
14:00 アシュラム帰着
19:00 夕食

<第10日 8/3(火)>
5:00 マナリ発
8:50 マンディの近くのレストランにて朝食
12:50 hill topにて昼食 スワルガート(swarghat?)と言う所か? 
15:18 パンジャブ州に入る。
17:00 チャンジガールにて渋滞に遭う。
19:00 アンバラ(Ambala)の手前10キロで洪水に遭い、遅れる。
21:40 夕食(場所不明)
2:30 ソーナ(sohna)着

<第11日 8/4日水)>
8:00 起床
9:15 出発
10:42 ウッタルプラディッシュ州に入る。
13:30 アグラ市内に入る。
14:10〜14:50 シェラトンホテルにて昼食をとる。
15:00〜16:00 タージマハール見学
16:10〜17:50 ショッピング
17:20〜18:10 アグラ城見学
22:30 ソーナ着

<第12日 8/5(木)>
8:50 起床
9:30〜10:00 朝食
10:30 シャワーを浴び、その後パッキング
13:00〜14:00 昼食
14:30 宿舎出発
15:30 ニューデリー市内に入る。
15:40〜16:30 セントラルコテッジにてショッピング
17:00〜18:00 夕食(中華)
18:30 インデラガンジー国際空港着
20:00 セキュリティチェック
21:00 搭乗(JL472)
21:06 離陸

<第13日 8/6(金)>
《日本時間》
7:00 日本上空に入る。高度12727m 速度931km
8:10 成田空港着
11:00 京成上野駅着
11:15 JR上野駅
12:10 熊谷着
   







スピティ・チャンドラタールへの旅

    大嶋 博

 ようやく定年になり、2004年7月25日から8月6日までの13日間「スピティー地方とチャンドラタール」へトレッキングに行ってきました。今回は1982年以来6回目、4年振りのトレッキングになります。当初わが熊トレの福田先生たちと一緒に行くつもりでしたが、どうしても日程が合わず5月段階では「一人では」と宙ぶらりんの状態であったが、秩父山の会の飯塚さんのグループが7月25日からマナリへ行く事を聞き、その中に大学以来の友人の山田先生がいる事を良い事に彼を誘ってスピティーへ行く事になった。

 今回スピティーを選んだのは、1994年のトレッキングの時道路崩壊のためこの地方を駆け足で通り過ぎた事と故村越先生ゆかりのチャンドラタールへ墓参に行きたいと思ったわけです。
 7月25日秩父山の会を中心とした飯塚グループ15名の1員として、成田空港を午後出発した。デリーで1泊した後7月26日の早朝5時にマナリに向けて出発した。ガイドは、日本語の出来るラビさんとターバンを巻いた荒い運転をするドライバーで、バスは見てくれはよいがトラック並みのサスペンションの代物であった。途中州の役人に通行料をめぐってストップさせられたりして、マナリのアシュラムに着いたのは19時間もかかって午前0時であった。皆さん精神的にも肉体的にもすっかり疲れてしまったようであった。

 翌7月27日は、ゆっくり眠った後久しぶりにマナリを散策して過ごした。7月28日私と山田先生は、他の皆さんに先立って4泊5日のスピティートレッキングへ出発した。我々のトレッキングのスタッフは、ガイドがソナム氏、ドライバーがラメッシュ氏、コックがラタン氏の総勢5人、ジープ1台で8時25分にアシュラムの下を出発した。

 スピティー地方はダンカルゴンパ・マネ湖・キバル・キーゴンパをまわった。1日目(7月28日)は、ロータンパスを越えていつものダダルプー(標高3600m)に泊まった。2日目(7月29日)は、標高4551mのクンザンラを越えてスピティ谷に入り、カザの少し先のシチリンという村(標高3510m)にテントを張った。夕方近くに見えるダンカルゴンパ(標高3890m)を見学した。スピティ谷に入ってからは天気が良くなり、強烈な斜光の下の少し古ぼけた寺院はスピティを実感させるものであった。

 3日目(7月30日)は、今回メインのマネ湖へのトレッキングに出かけた。マネ湖はこの地方の最高峰であるマニラン山の懐にある氷河湖で標高4000mの所にあり、上流の半分位は砂に埋まりそこを幾筋もの川が流れ、半分は青い清冽な水をたたえていた。 私たちはここが化石の産地だと聞いていたので、森田さんから借りてきたハンマーを持ってアンモナイトの化石を一生懸命探した。化石はあるにはあったが硬い岩に組み込まれており、取り出す事は出来なかった。それでもソナム氏からもらった2〜3個のアンモナイトの破片と海草らしい化石を持ち帰る事が出来た。所詮1時間位では無理な話であった。 帰りはマネ村の中にに入り、家畜や家のたたずまいや子供たちを写真に収めたり、近くの家に招かれてお茶やツアンパをご馳走になった。
 4日目(7月31日)は、この地方の中心地のカザに行き、ここで理由は良くわからないが「トヨタクオリス」という新しいジープ乗り換えた。ソナム氏によると最近インドのジープは排気ガスの関係で急速にこの車種に変わっているとの事である。まずこの地方で最も高い所にある村と言われているキバル村(4205m)に訪れた。しかしこの村の対岸に見えるチッチョムという村の方が明らかに高かった。村の中を歩いて子供たちや家並みの写真をいっぱい撮った。つぎに標高3900mのキーゴンパを訪れた。このお寺はこの地方ではもっとも有名なゴンパであるとの事であった。愛想の良いお坊さんが案内してくれ、チャイをいただいたり、マンダラや金色に輝く仏像を見せてもらった。特に屋上からの景色がすばらしかった。この日のテント場はラングリック(標高3600m)と言うピティー川の広い河原で、ここで森田さんのガイドするパーティーと一緒になった。
 5日目(8月1日)は、ここからチャンドラタールに立ち寄り、一気にマナリまでという長丁場な日程なので、朝5時に朝食をとらず出発、ドライバーのラメッシュの活躍でクンザンラを越えて9時45分にはチャンドタール湖の畔の丘までジープで行く事が出来た。ようやく宿願の元会長の村越先生のケルン(?)に線香を手向ける事が出来た。チャンドラタールは青く澄んだ水をたたえ、周囲の山々をくっきりと写していた。ここで1時間強滞在して帰途についた。チャトル・ロータンパス・マリーと順調に進んだが、マリーから30分〜40分位下りた所で道路崩壊の場所(標高300m?)に出っくわした。毎回の事なので「またか」と軽く考えたが今回は大規模なものであった。我々は、ジープを乗り捨てて迎えの車まで歩くという事なので山田さんと共に10分か20分位と思って出発した。10分位歩くとソナムとラタンがそれぞれ二人分のザックを背負って追いついてきた。「どれ位歩くのか」聞いたら、ニヤッと笑って20キロと答えた。冗談かと思ったが少しオーバーに言っただけで冗談ではなかった。まさに大崩壊で道路は土石流で寸断されており、私たちは古い山道たどって約3時間かけてロータンパスのコチという集落(標高2530m)まで歩く事になってしまった。森田さんのグループが到着するのを待って迎えのジープに乗り、結局アシュラムに着いたのは午後8時であった。

 これでメインのトレッキングも終えたので、後は土産を買い込んでインドの娑婆を物見遊山と考えていたが、そうは行かなかった。マナリで1日休んだ後の8月3日午前5時にデリーの近くのソーナに向けて出発した。雨の中を出発してまもなく天井から水滴が落ち始め、その内ますますは激しくなり、車中で傘をさしたり、カッパを着なければならなくなった。どうやらバスの後部の屋根にあるエアコンから雨水が入ってくるらしく、私たちの座っている席が特にひどかった。ようやくヒマラヤ山地を抜けて平野部に出てアンバラという町の手前で、今度は道路上で洪水に遭遇してしまった。地球の温暖化の為か最近インドのモンスーンは、ますます激しくなっているようである。そんなこともあり、帰りはデリーの少し南のソーナに着いたのは、日付が変わり翌日の8月4日の午前2時30分で21時間30分かかってしまった。いつもとは言え、踏んだり蹴ったりという思いであった。この22年間に6回マナリ周辺のインドヒマラヤに通ったわけであるが、初めの頃山ではゴミが全くなかった。羊や馬の糞を燃料にしている状態ではゴミは出ようがなかった。 最近では、あのチャンドラタールでさえジュースのパックが落ちている状態で、生活水準が上がったためか、ヒマラヤ山域は急速にゴミで汚染されている状態であった。市街地は昔以上にゴミだらけで、森田氏が近所の人たちにゴミを捨てないように訴えても、なかなか言う事を聞かないと嘆いていた。
 また インドは、この間急速に経済成長をしており、特にITのソフトの分野では世界でトップクラスと聞いていたが、バスの窓から見る様子は確かに活気があり、自動車はどんどん増え、道路も整備されてきているが、多くの貧しい人々や道を馬車や牛がうろうろしている状態は昔と変わりがなかった。







故村越昇先生を偲ぶヒマラヤ行

    寄居町  花輪 仙造

 村越が逝ってから二年余りが経っていた。私は、この7月25日から8月6日まで村越を偲びつつインドヒマラヤの高地5千mのトレッキングをしてきた。彼が惚れ込んで9回も通いつめたヒマラヤ。雪を抱く峰々、幻の花ブルーポピー咲く4千mのロータンパスを越えた奥地にある氷河湖チャンドラタール(月の湖)。彼の地にある村越ケルンを訪れるためで、熊谷の大嶋さん、秩父労山の飯塚さんたちとの15名の仲間だった。

 表題には先生と書いたけれど高校時代は同学年で、且つ同じクラブで過ごした者としていつも村越、村越と呼んでいた。熊中・熊高百年の時座談会に声を掛けられて「質実剛健の精神」について語り合ったことを昨日のように思い出している。

 彼は山が好きだった。植物学の大学者の祖父からの影響があってか、小さい頃から野山を親しみ、大学生の頃からは暇を見つけては秩父の山や、槍・穂高をはじめとした高山に出かけていた。冬は山スキーで自由な雪原を堪能。登山はヒマラヤへ、アンデスへと行動範囲を広げていき、特にヒマラヤは好きだった。ヒマラヤを「生きたままの大博物館」と活動しているインドヒマラヤの行動拠点マナリの森田さんの「風来坊山荘」を熊谷の仲間達と何度となく訪れていた。退職後の彼は山荘の後継者と目されていたらしい。

 初任の行高時代から信望は厚いものがあり、献身的な看護をしてくれた田添さんは師弟の関係だったと聞く。誰もが大自然を楽しもうとの労山の運営も担っていた。

 1981年からの18年間は、母校で社会科の教師として科学する目で授業を展開し、その薫陶を受けた卒業生は数多く、また、山岳部で多くの人材を指導し内外の山行を共にしていた人も数知れない。80年代からは市内山岳同好者を募り「熊谷トレッキング同人」を結成、高齢者も楽しめるヒマラヤトレッキングを実施していた。このとき参加した高齢者が、彼への弔辞でヒマラヤ体験の感動を涙ながらに語っていた。

 99年8月にはインドヒマラヤ無名峰(6184m)に登頂もしている。自由を求めて山へ世界への極みであった。………が、その直後から体調が思わしくなくなり、翌年2月に胆石を除去する手術をしている。だが、彼の体力は強くすぐに山に入っている。

 2000年10月には2度目のアンデスに出かけている。10年越しの念願の研究を兼ねた旅だったが、その途上で発熱し帰国。精密検査の結果は胆管乳頭部に癌発生が判明、「耐病の記」を書き始めている。11月には大手術。01年1月に退院。一時回復して、秩父の山歩きや八方や妙高へのスキーを楽しむまでになった。6月にイタリア旅行をしているが、気持ちでは残りの日数を数えていたようだ。

 7月1日から12日までヒマラヤの森田さんに頼まれて「風来坊山荘」の手伝いに行っている。体調は良くなかったようだが、義理を果たすことに加えて、最後のロータンパスの山々を目に焼き付けるつもりだったと思われる。帰国した7月24日に3度目の入院。癌が脳や肺に転移して手術はできないで、対症療法だけとなった。「病中メモ」を手書きで始めている。その後は熊谷生協病院を中心とする手厚い治療も効あらず、02年2月15日多くの人たちに惜しまれながら永眠。彼の足跡を記させて貰いました。

 追記:私の義兄弟故河合敏之と彼とは山中間・のみ仲間同志。今頃は天国で酒を酌み交わしているのかも………。