トレッキング記録    熊谷トレッキング同人


朝日新聞埼玉地方版で紹介されました
B隊記録
                                         

場所:インド北部ヒマチャル・プラデシュ州 マナリからチャンドラタール往復
日程:8月9日〜8月18日、〜20日(福田)
メンバー:福田和宏、他1名


【はじめに】
99年夏、まだ大学生だった自分は、熊谷トレッキング同人の「無名峰遠征隊」の一員としてインドヒマラヤを訪れた。「夢を抱け、大志を抱け、ホラをふけ」。そう繰り返していた故・村越昇先生に率いられた旅だった。それから8年。社会人となり、半ばあきらめ掛けていた再訪のチャンスが巡ってきた。
 夢は抱き続けることで叶えられるものになる。思いを持っていれば、チャンスは必ず巡ってくる。そのチャンスをものにすることで、道は開く。ホラをふけ、という言葉の裏には、そんな意味があったのだと思う。
そうした村越先生の教えを受け継ぎ、毎年実践してきた人が福田さんである。福田さんは村越先生が熊谷高校山岳部の顧問になったときの生徒の一人。自分は3年間その教えを受け、かつインドを一緒に旅した最後の世代だ。最初と最後。恩師の七回忌という機会にその2人が再会し、供養に向けて同じ旅をすることになった。偶然か。いや必然ではないだろうかとも思う。長い時の流れは不思議な巡り合わせを用意した。

第1日 【8月9日】
日本を出発し、デリーへ


12:00 成田空港
15:20 JL491便出発(定刻14:40だが、機体整備で若干遅れる)
  〈機内でお供え用の缶ビールを確保〉
(以下現地時間)
19:45 デリー空港に到着/入国審査、両替
20:20 サンジャイ家のラジーブさん、マヘッシュさんが出迎え。(帰宅ラッシュで渋滞するデリー市内を移動〉
21:30 ニューデリーのサンジャイ家に到着
22:00 夕食(各種カレー)
(サンジャイ氏妻ルビーさん、同父サティッシュさん、同友人ボビーさんらの歓待受ける〉

 北九州市の自宅を午前6時半に出発し、バスと国内線を乗り継いで羽田空港に向かう。羽田からは再びバスに揺られること約1時間半で成田空港に着いた。バスは首都高の渋滞を回避するため、アクアラインを通っていた。
 昼過ぎに無事、福田さんと合流し、速やかに荷物をチェックインすることにした。だが、折からの警戒レベル強化に伴い、福田さんがメーンザックに忍ばせていた100円ライター5個が検査に引っかかり、いずれも没収される羽目となった。
 まだお盆前とあって、成田空港は大混雑というほどではない。日本食に名残惜しさを感じながら昼食をすませ、JAL便に乗り込んだ。ただ、機体整備のため、出発は40分遅れだった。機内の乗車率は80%程度。機内食の際にはビール2本を余計にいただき、チャンドラタールのケルンに持って行くべく、ザックに収めた。酔いも手伝い、2人がパーティーの一員だった99年の遠征や村越先生の思い出話に花を咲かせていると、時間は瞬く間に過ぎていった。
 デリー空港に着くと、ずさんな税関審査と信頼感のない両替を通過し、喧噪の空港出口に向かった。すると、すぐにサンジャイ家のスタッフであるマヘッシュさんが福田さんを見つけ、笑顔で近づいてきた。運転手はラジーブさん。再会を喜び合う3人は何十年来の友人のようだった。
 空港を出た午後8時頃は、デリー時間でいう帰宅ラッシュの時間帯。車線を無視して何列にも並ぶ交通事情は相変わらずだ。マヘッシュさんは、さかんに我々を気遣い、「喉は渇いていないか?」などと聞いてくる。気持ちだけいただくつもりでにこにこしていたら、車を止めて危険な車道を渡って冷えたミネラルウオーターを買ってきてくれた。
 サンジャイ家に着くと、主人が日本にいて不在の間の大事な来客とあって、一家とスタッフ総出の出迎えだ。サンジャイさんの幼なじみのボビーさんも訪れ、アルコール度数の高いインドビールで乾杯した。食事も、ベジタリアンながらもボリュームのある家庭的なインド料理が次々と出てくる。サンジャイ氏の奥さんのルビーさんは、わんこそばのごとく「これはどう?」「これも食べてよ」とどんどん薦めてくるので、断るわけにもいかず、初日の晩から暴飲暴食状態となっていた。長旅の疲れも手伝って、食後はすぐに眠りについた。

第2日 【8月10日】 
日中デリー滞在、夕方マナリへ向けて出発


4:00 福田起床(インド時間に慣れていないため)
7:00 朝食(パン、サモサ、クッキー、チャイ、ラスク)
7:30 ボビーさんと公園に出発
7:45 近くのスポーツ公園に到着/園内を見学、散歩
8:30 体育館でバドミントン
10:10 バドミントンを終え、出発
10:30 ボビーさん宅に到着
    朝食兼昼食(オムレツ、ベジタブルホットサンド、ココナッツ、ラザニア風パスタ)〈ボビーさん母、同姉妹らと歓談〉
12:40 サンジャイ家に帰宅/シャワーで汗を流す
14:40 2回目の昼食(ダル・ベジタブルカレー、ごはん、パパド、揚げ春巻マンゴージュース、ビール※多量)
15:40 ラジーブさん、サティシュさんと世界遺産クトゥブ・ミナール見学へ 福田:ハガキ執筆を試みるも、スタッフとビール&歓談タイム
17:15 サンジャイ家を出発/ラジーブ、マヘッシュがバス停まで同行
17:55 バス停到着
18:42 マナリ行き高速バス(ボルボ・セミスリーパー)出発 / 車内は満員、定刻18:30     〈デリー郊外まで大渋滞〉
10:15−10:50 郊外の茶屋で休憩/チャイ インド人がカレーを食べる一方、チャイのみ
<車中泊>

日本時間が体から抜けず、4時に目が覚めてしまった。ただ、クーラーのおかげで快適な夜を過ごした。
 昨夜、ボビーさんからは「朝から運動に行く」と言われていた。意味をよく理解できないまま身支度を整えていると、発案者が到着。車に乗せられ、通勤、通学で動き出した街を横目に「SIRI」というスポーツ公園にやってきた。行ってみて、驚きだ。広大な芝生、ゴルフ打ちっ放し、プール、テニスコート、体育館、ジムなど各種スポーツ施設が一通りそろっている。そして、午前8時だというのにジムは人であふれている。聞くと、インドのオフィスアワーは午前10時から、という人も多く、仕事前に一汗かくのだという。経済成長による「余裕」を感じた。
 メーンの目的はバドミントンだったが、コートが空いていなかったので、散歩をして時間を過ごす。時間になり、熱気でもやのかかった体育館でシャトルを追うこととなった。まさか、インドに来てバドミントンで大汗をかくとは思わなかった。途中からルビーさんも現れ、試合に興じた。
 終了後、ボビーさんの自宅に向かう。ボビーさんの母と姉妹がおり、ここでも家族総出のもてなしだ。ボビーさん手製のオムレツなど、サンジャイ家とは違った味を堪能した。
 サンジャイ家に戻り、シャワーを浴びるなどしていると、今度はサンジャイ家での昼食となった。ボビー家でそれなりに食べてはいたが、それにも増して、ボリュームのあるメニューが並ぶ。福田さんは「五つ星レストラン並みの味」と絶賛。たしかにおいしくて、つい箸が伸びるのだが、いかんせん量が多い。なんとか出されたものをすべて食べきった。
 その後の空いた時間をついて、世界遺産のクトゥブ・ミナールを駆け足で見学。中に入る時間はなかったので、外壁越しに写真だけ撮り、急いでサンジャイ家に戻った。
 準備を整え、再びラジーブさん運転、マヘッシュさん付き添いのもと、マナリ行きバスの出るコンノートプレイスのバス停に向かった。ボルボ社製の夜行バスは、シートが所々破れていたが、リクライニングをすれば飛行機のエコノミークラスよりはやや広いと感じる。ラジーブさんらは乗務員にチップを渡し「大事な客の荷物だ。大切に扱え」と念押しをしている。ありがたいことである。
 いよいよバスが出発。だが、郊外に出るまではデリー特有の大渋滞だ。なかなか先に進んでいない。出発から3時間ほどで夕食用の長い休憩となった。だが、夕方の食事が相当重く、二人ともチャイを飲むだけで終わった。休憩後、バスは闇夜の中をマナリへと北上した。

第3日 【8月11日】 
バスでマナリに向けて移動、到着後マナリ滞在


2:00 ガソリン補給
5:45 目を覚ます マナリまで145qの表示
6:00−6:47 山間部の茶屋で休憩/チャイ
9:05 クル空港前通過
10:50 マナリ・バザール到着(出発から16時間20分)〈リクシャで移動〉
11:30 アシュラム到着/森田さん夫妻の歓待を受ける
13:00 昼食(ラーメン、ごはん、カレー)
15:10 バザールに買い物/福田、旧知の土産物屋を訪問
17:45 アシュラムに戻る
19:40 夕食(ごはん、チキンカレー、生野菜サラダ、塩風味パスタ、野菜の煮物、三つ葉入りみそ汁、りんご)
 
 目を覚ますと、カーブの連続する山道を走っていた。未明、給油で停車したときに一瞬目を覚ましたが、意外にも眠れた夜だった。ときおり日本で言うドライブインである茶屋があるが、全く現在地がわからない。しばらく走ると、朝の休憩地に着いた。最初の休憩以来、約8時間ぶりに外気を吸う。その間、トイレも行かず、何も食べなかった。結果的にはサンジャイ家での腹がはちきれんばかりの食事が功を奏したのだろうか。とにかく、驚くほどあっという間に夜が過ぎた。この日程に体が対応できたことはラッキーだった。
 ただ、トイレは相変わらずインド風。用足しの気分を50%ぐらい下げる効果がある。そう思ってしまうのは、まだインドに慣れていないのだろうか。
 運転手は途中交替があり、体格の大きなシーク教徒に代わった。大きなダムを過ぎると、絶壁につけられた道が続いた。ところが、そんな道にもかかわらず、運転手は携帯電話を片手にハンドルを握っている。大丈夫だろうか。わずか数年前に日本でも声高に騒がれ始めた問題が、すでにインドで起きている。そのスピードの速さに驚くばかりだ。
 途中、何人かが下車し、何かものを積むなど、いくつかの街で停車しながらバスが進む。次第に谷は広くなる。クルの空港が見えてきた。8年前の記憶が断片的によみがえってくる。おそらく違っているのは、「Airtel」などの携帯電話会社の看板の多さだろう。日本でも急激に普及した携帯電話。国際ローミングで番号をそのままに持ってきた自分の海外携帯も、電波は3本立っている。
 クルの街を過ぎていくと、見覚えのある景色が広がってきた。そして、16時間と20分をかけて、バスはマナリのバザールに到着した。土産物屋、野菜の出店などの豊かな色彩が映える。メーン道路は今年から歩行者天国が実施されている。欧米人やインド人観光客らでごった返す街の雰囲気は変わっていない。
 バザールからはリクシャをつかまえた。バシスト側へ渡る橋は2本に増えていた。リクシャを降りて、8年ぶりのアシュラムだ。走馬灯のようにいろいろな記憶がオーバーラップしてきた。8年間の空白がなかったかのようだった。森田さん夫妻の出迎えを受け、すぐにビールで乾杯した。
今回の我々の旅が新聞記事で取り上げられたことがすぐに話題となった。仏壇に掲げていた記事コピーは、先発隊が持って行ってしまったという。このため、持ってきた新聞そのものをすぐに供えた。話の盛り上がりにつられ、ビール4本がすぐに空となり、しばしの昼寝タイムとなった。
軽く昼食をすませると、2人でバザールに出掛けた。雲行きが怪しくなり、パラパラと雨も落ちてきた。まず、福田さんが毎年寄っている土産物屋に向かう。目当ての女性は、入れ違いでデリーにいるという。その代わり、店番をしていた弟がレモンティーを振る舞ってくれた。
 街をぶらついてからアシュラムに戻ると、チベットやパキスタンの旅を春から続けていた松島さんという男性を中心とした男女3人のグループが森田さんたちと盛り上がっていた。松島さんと森田さんは労山での旧知の仲という。
 人の出会いとは不思議なものだ。01年8月、この松島さんとペルーのアンデス登山基地の街・ワラスで出会っていた。それ以来の再会だ。当時、一人旅でペルーを巡り、ブランカ山群の登山のためにワラスに滞在していた。松島さんは所属する山岳会の仲間が同様に一人で登山をしていたが、雇ったガイドが登山中に転落死するという事故が起き、その後処理の手伝いに来ていた。小さな街だったので、日本人同士で出会い、情報不足だったことからも松島さんのアドバイスでガイド会社を選んだことをよく覚えている。それを記録した山旅もアシュラムには置いてあった。「ここに松島さんとの出会いを書いていますよ」と彼に6年越しに見せることもできた。
 夕食は我々を含めて5人。インドの奥地でたどりつくこのアシュラムの日本食の味がたまらない。つい、食べ過ぎてしまいそうになるが「腹八分にしなさい」という森田さんの忠告に従った。そして、就寝。ベッドで眠るのは2日ぶりとあって、すぐに眠りについた。
 
第4日 【8月12日】 トレッキング1日目
マナリからダダルプーへ


6:20 起床/チャイ、天候雨
7:00 朝食(トースト、おかゆ、クレープ、サラダ、卵焼き)
8:12 アシュラム下の道路から出発、車:TATA3000Lディーゼル〉
9:20− 9:30 3270m地点 ブルーポピー発見 
9:36− 9:58 マリー/チャイ、天候霧
10:30−10:40 3800m地点 ブルーポピー発見
10:47 ロータンパス通過
11:32 グランプー(バララチャ方面との分岐/3440m)通過
12:17−13:07 チャトル(3320m)/昼食(カレー、ごはん、チャパティ)
13:25 ダダルプー(3500m)到着/テント設営
14:40 高度順応を兼ねて高台の滝に散歩へ
    福田:ハガキ執筆
18:00 夕食(ごはん、マトンカレー、生野菜、チリポテト)

 今年から働いているツェワンの「チャーイ」の声で目覚める。快眠だったが、窓の外の暗い空が気になる。小雨というよりは、音を立ててしっかりと雨が降っている。森田さんに「この雨は止みますか?」と聞くと、「止まない雨はない」と笑う。朝から元気のよい声に励まされる。ただ、福田さんも「雨の中の出発という記憶がない」。アシュラムで防水用にビニール袋を多めに調達し、バタバタと旅立った。
スタッフは、ガイド兼コックがRatan(38)。99年インド遠征時のコックで、福田さんの誕生日に合わせてケーキを焼いてくれたことを互いによく覚えていた。ドライバーは、Sali・Ram(42)。夏のかき入れ時でマルコポーロのスタッフが足らず、臨時雇用という。コック補助がBal・Want(23)。笑顔のさわやかな青年で、ラタンのおいだ。
 ロータンパスに向けて山道を進むが、一面濃い霧で、上空は晴れない。ラタンはブルーポピーを見つけると車を止め、写真を撮るよう促してくれた。
 マリーを抜けてさらに高度を上げると、やっと視界が晴れてきた。日本とは桁の違う谷の深さ、山の大きさがようやくわかる。ロータンパスに着いたが、上空は厚い雲だ。谷をはさんでみえてくるはずのCB山群の上側も雲の中だった。氷河もちらっとのぞくだけ。「晴れるといいな」と願いつつ、ジープに揺られた。
 ネパール系の工夫が人海戦術で道路補修をするのを横目に高度を下げ、道はチャンドラ川に沿った未舗装道に変わった。チャトルでは、茶屋が3軒並び、トレッキング隊やトラック、路線バスが列をなして止まっている。我々はダルカレーでの昼食。こうした場所での原始的なカレーの味もまたひと味違って好きな味だ。
 チャトルを出ると、ほどなく広々とした草原のダダルプーに着いた。特に店も家もないが、水が流れ、地面が平らで、テント場としては最適だ。午後1時半でこの日の予定は終了し、ゆっくりと時間を過ごすことにした。日本を出発以来、切れ目なく進めてきた日程を考えると、ちょうどよい休息時間だ。
 ただ、明日の予定を考え、少し高度順化をすることにした。過去の隊の例にならって、テント場北側の斜面を登り、岩壁下部の滝を目指した。富士山と同じ高度とあって、空気の薄さを感じつつ、黙々と歩いた。滝からテントを見下ろすとゴマ粒のようだった。
 福田さんによると、ダダルプーでは他のパーティーに出会ったことがなかったというが、夕方には計3パーティーに増えていた。夕食は、食事用テントを広々と2人で使わせていただいた。村越先生の写真を置き、日本酒も供えた。ラタンのつくる食事はうまい。アシュラムに行って日本人の舌に合う味を勉強したという。カレーをつくる様子も見ていたが、トマトを刻んで入れていた。それがコクを出しているのだろう。
 夕食後、くつろいでいると、隣のテントのイタリア人がやってきた。彼らは自転車でチャンドタールを目指しているのだが、「おたくのツアー会社はよいか?」と聞いてくる。会話にラタンも加わると、ラタンは「うちは何でもこなせる」「食事も充実している」と営業トークをしていた。明日は晴れることを祈って、眠りについた。

第5日 【8月13日】トレッキング2日目
ダダルプーからチャンドラタール往復


6:00 起床/チャイ、天候曇・気温15度
8:07 テントキーパーを残して出発
8:37 チョタダラ通過
8:40−9:03 道路崩壊現場の復旧待ち
9:15 別隊パーティー車を運転中のネギ氏とすれ違う
9:48−10:05 バタル/チャイ
10:13 クンザン・ラへの分岐通過
10:33−10:56 村越氏遺影の地/線香お供え、記念撮影
11:22 チャンドラタール湖畔の丘に到着、徒歩で出発
11:32−12:35 マニ石の置かれた村越ケルン到着/供養を行う
12:45−12:54 丘の頂上の第2ケルン
 〈湖畔の散策路を歩く〉
14:14 湖畔のテント茶屋でチャイ休憩
14:35 チャンドラタール出発
15:03 再び遺影の地で記念撮影
〈途中、羊の大群に出くわす〉
15:50−16:10 バタル/遅い昼食(ダルカレー)
17:03 チョタダラ通過
17:27 ダダルプー到着(行動時間9時間20分)
18:00 軽食(チャイ、タマネギのカレー風味フライ)
19:30 夕食(ごはん、チーズと豆の炒め物、カリフラワーとポテトとエンドウ豆の炒め物、ミニウインナー、スープ)

 1〜2時間おきになんとなく目が開いた。満天の星空を期待したが、それどころか遠くの稲光がぴかぴかと光っていた。福田さんは5時過ぎには起きて、ハガキを書いていた。
 チャイを飲みながら見上げると、天気は高曇りで昨日よりは良さそうだ。時計の気圧計も上昇志向。成田で買った粉末緑茶でお茶をつくってペットボトルに入れ、若者のバルをテントキーパーに残して出発した。
 昨夜のラタンの話では、途中に道の崩壊があり、復旧に時間がかかるため、チャンドラタール方面からくるガイドのネギさん率いるパーティーと連携し、車をそれぞれ置いて人だけ交換する、という案が出ていた。
 だが、問題の場所に着くと、そろそろ復旧、というタイミングだった。それを見越してゆっくりと出たラタンの判断が絶妙だった。昨日の雨で土石流となったようで、反対側では丸一日足止めをしいられた車もあったようだった。
 雲が若干切れ始めた。新雪をかぶった氷河峰らしきものはちらっと見える。美しいと聞かされたwhite sail峰を探したが、まだ見えない。次第にチャンドラ川の川幅は広大に広がり、すそ野を広げた山塊が圧倒的なスケールで広がってきた。未舗装のため、車の中で飛び跳ねながら車窓を眺めていると、バタルの茶屋に着いた。
 地の果てとはこんな場所なのだろう。チベット系の気前のよい夫婦が忙しく働いている。毎年来ている福田さんは、去年の写真を渡していた。チャンドラタールに向かおうとすると、店前にいた恰幅のよいおじさんがなぜか車に同乗してきた。
 タイミングよく、青空が見えてきた。左側が崩れそうな道を進むと、荒涼とした斜面に不思議とオアシスのように草花が生えている場所に着いた。ここが村越先生の遺影の地だった。線香に火をつけ、咲いていたタンポポを摘んで簡易祭壇をつくった。たばこを持ち、同じ立ち位置で、記念撮影した。村越先生がこの地で写真撮影をした当時は今回のようなジープ道はなかった。また、当時は自分はまだ中学生で、熊谷高校の生徒でもない。この地に自分が立っていること、そして時間の流れに感慨を覚えた。
 空が晴れてきた。遠くに目をやると、CBからムルキラに至る連峰にかかっていた雲は消えている。上空は青い。今回の旅を通して、二人で口を合わせてきた言葉がここでも繰り返された。「我々はついている」。
 日本から足かけ5日。ようやくエメラルドグリーンのチャンドラタールを見下ろす丘に着いた。過去、歩いてたどりついたパーティーの苦労に思いをはせた。10分ほどで、立派なマニ石が置かれた村越先生のケルンに着いた。「着いたよ、先生」。二人の口から自然にこぼれた。
 ムルキラの雄姿がきれいに見えてきた。遺影の写真、ビール、日本酒、摘んだタンポポ、遺稿集、お菓子、そして新聞記事を供えた。風が強かったので、持っていた不要な新聞紙を使ってなんとか線香に火をつけた。ラタンとともにビールを開け、ケルンにかけて3人で杯を交わした。
 続いて、少し離れたところに個人的にちいさなケルンを築いた。私事だが、ともに実家で同居していた祖母が06年3月、祖父が07年5月に相次いで亡くなった。この日は祖父の新盆で、2人の供養も行った。
 改めて村越先生のケルンの前に立った。目をつぶる。記憶がよみがえる。自分がここにいる意味をかみしめた。手に新聞記事を持つ。今回の旅を伝えるこの記事は、山を続けた結果として自分自身が磨かれ新聞社に入ったことによる産物だと考えている。出発点は、高校1年生のときに山岳部に入部したことにある。誰に何を教わり、いま自分がこの地に立つことができたのか。その答えは目の前のケルンにあった。涙が流れた。
 儀式を終え、丘の頂上にある第2ケルンに移動した。タルチョが風になびき、あたかも遙か昔からある聖地のような雰囲気だ。標高4300メートルとあって、さすがに体の動きは鈍くなっていた。

 記念撮影を終えると、3人で湖畔の散策に向かった。こんな高地でも水鳥が悠々と湖面を泳いでいる。足下には青いセンブリの花を見つけた。CB山群が湖面に映え、美しい。

 一周すると、さすがに昼食抜きで動いていたことがこたえてきた。テントでつくられた茶屋に寄ると、バタルから乗ってきたおじさんの店だった。息子と2人で季節営業の出稼ぎに来ているのだろう。ビスケットを買おうとすると、「乗せてくれたお礼で、金はいらない」と言う。好意をありがたく受け入れ、空いた腹に甘いモノはたまらなくおいしかった。
 車に戻り、帰路につく。ここで頭痛が始まった。6年ぶりの高所がこたえてきた。遺影の地では、ちょうどバックのCB13が山頂まで見えていたので、再び記念撮影をした。もう少しでバタルに着くというところで、道を大量の羊にふさがれた。羊飼いも数人いるが、500頭はいるだろうか。トラックや我々の車が囲まれ、滑稽な光景だった。

 午後4時になって、やっとバタルの茶屋で昼食。ダルカレーがおいしかった。聞くと、福田さんも頭痛だという。だんだん痛さが増してきたので、ダダルプーへの車中は、高所登山で覚えた複式呼吸を意識的に試みた。高度を下げていくことも手伝い、痛みは緩和していった。
 一方、空は暗くなり雨も落ちてきた。チャンドラタールで過ごした時間は、絶好のタイミングだったのだろう。9時間半の長い行動を終え、バルが一人待っていたテントに着いた。車での移動だったといはいえ、疲れを覚えた1日だった。だが、2人の心は目的を達した満足と安堵で満たされていた。
    

第6日 【8月14日】 トレッキング3日目
ダダルプーからマナリへ


6:00 起床/チャイ、天候曇・気温14度
7:20 朝食(パン、おかゆ、卵焼き、生野菜)
8:20 ダダルプー出発
8:35−8:40 チャトル/ラタンが余った野菜とドライマトンを交換
9:24 グランプー通過
10:00−10:14 ロータンパス
10:57−11:15 マリー/チャイ
12:40 アシュラム到着/シャワー、洗濯など
14:03 バザールに出発
14:30 チョップスティックスで昼食(ビール、焼餃子、野菜すき焼き)
16:00−16:30 リグジンさん宅訪問/一家と歓談
18:00(福田は一足先に帰宅)
18:45 サンペルさん自宅訪問/奥さんにあいさつ、アンモちゃんと遊ぶ
20:00 夕食(そうめん、五目寿司、コロッケ、春雨サラダ、鶏肉の唐揚げ、ひじきの煮物、リンゴ、たき火で焼いたマス)

 ようやく朝日を見た朝だった。テントを片づけ、パッキングをすませると、マナリに向けて出発した。天気は高曇りだったが、氷河峰は見えている。特にトラブルもなく、順調にロータンパスに着いた。
 ロータンパスからマリーにかけては、おそらくデリー方面から来たであろう観光客であふれていた。カラフルなサリーにサンダルの女性、白いパンツに革靴の男性など、あきらかに標高4000メートルにはふさわしくない人が大勢いる。おそらく上流階級の家族が、休暇を使って来ているのだろう。レンタルの防寒具屋が並ぶ理由がわかる。北アルプス登山を下山した後の上高地で抱く違和感と似ていて、どちらかと言えば日本人の我々の方が場になじんでいるのが不思議だった。マナリへの下山路でもデリーナンバーの普通車と頻繁にすれ違った。
 無事、昼過ぎにはアシュラムに着いた。「こんなに順調な旅は初めてだ」と福田さん。だが、森田さん夫妻は天候をとても心配していた。「ふもとのシムラで、大雨でバスに岩が落ちて3人死んだとニュースでやっていた」と言う。下界の天候の方が悪かったようだ。
 シャワーを浴び、2人でバザールに出掛けた。おなじみのチョップスティックスに行き、ビールでトレッキングの成功に祝杯をあげた。つまみには、ベジタリアン用の野菜だけが入ったすき焼きを頼んだが、意外においしかった。
 食後、ほろ酔い気分で、リグジンさんの自宅を訪問した。アンドゥさんは仕事でラダックに行っており、不在。その代わり、双子のソナムくんとアンモちゃんがいて、元気に走り回っていた。
 バザールを歩いて夕方に戻ると、サンペルさんが我々の到着を待っていた。隣の自宅に行き、淳子さんと愛娘のアンモちゃんにご挨拶。親族で同じ名前をつけてしまうから不思議だ。アンモちゃんはミルクをいっぱい飲んで、元気いっぱい。インド、しかもマナリでの子育ては大変なのだろうと思う。
 アシュラムでの夕食は、磯部さんをリーダーに毎年ハードなトレッキングコースを歩いている神奈川の女性グループ、避暑に来ていたデリー駐在のホンダ系企業の社員も加わり、大人数だ。アシュラムとしては今季のピークの忙しさで、我々の部屋も以前サンペルさんが暮らしていた屋根裏部屋だった。にもかかわらず、豪勢なホームパーティーのような食事が並んだ。聞くと、昼間から奥さんとギャルチェンが仕込みをしていたという。磯部さんたちを連れたプラカッシュ(注:名前確認をお願いします)も同席していて、再会を懐かしんだ。8年前のメーンガイドだったパサンは、今はマルコポーロ・インディアには所属していないという。日本人以外のパーティーの仕事も希望しての移籍だったという。プラカッシュにその話題を向けると、「私にとっては、すべてのお客が大事な客だ」ときっぱりと言う。この紳士さが磯部さんたちに大人気の理由でもあるのだろう。豊富な話題も手伝って、ビールが20本以上あった冷蔵庫は、深夜には空となっていた。

第7日 【8月15日】 
日中マナリ滞在、夕方デリーに向けて出発


6:30 起床/チャイ
7:10 朝食(トースト、クレープ、サラダ、おかゆ、りんご)
10:00 散策に出発、バシスト奥の滝を見物、福田:ハガキ執筆
12:00 帰宅
13:05 アシュラム出発/ラタン出迎え
13:30 チョップスティックスで、ラタン・ネギ両氏を招いて昼食(ビール、モモ、ヌードル)
15:00−16:00 バザールでフリータイム
16:38 デリー行きバス出発(定刻16:30)
18:20−18:44 クルで休憩/コーヒー
20:22−21:00 パンドゥで休憩/チャイ
21:27 マンディ通過
〈車中泊〉

 我々の日程ではゆっくり起きることもできたが、早く出発する磯部さんたちに合わせた朝食だった。彼女たちはチャンディガール近郊のお城を利用したホテルに泊まってデリーを目指すという。パワフルな軍団を見送り、パッキングなど帰路に向けた準備を始めた。ただ、午前中は何も予定がないので、せっかくの時間を利用して一人で散策に出た。
 特にあてもなく、森田さんの「バシスト奥に滝がある」という言葉だけを頼りに、「何かあるだろう」と出掛けた。この日は独立記念日とあって、バシストは人であふれている。都会から来たであろうインド人の若者がたくさんいた。温泉は衆人環視のようで入る気にはなれない。さらに奥を目指そうと、狭い路地をなんとなく歩いていくと小学校に出た。見ると、たぶん同じ目的だろう欧米系の一人の女性が、地元の老人に「滝はどこか?」と聞いている。彼女が歩く道をたどっていくと「water fall cafe」という店に出た。店員に滝への道のりを聞くと、「5分ぐらいだ」。その言葉に従って、道を進むと落差の大きな滝はすぐに見つかった。途中、「マジックマッシュルームはどうだ」と勧めてくるふらふらとした男に出会った。日本人のようにも見え、あきらかにおかしな目をしていた。
 森田さんに後から聞くと、3段の神聖な滝だという。特に中段は滝の裏側に回ることのできる道もあるといい、近場ながら自然の力を感じさせる場所だった。戻る途中、雨に降られたが、よい散策となった。

 アシュラムに戻り、いよいよ出発。「必ずまた来ます」。森田夫妻に見送られ、会食に誘ったラタンとともに車で出発した。バザールでネギさんと合流し、この日もチョップスティックスに行く。今回のトレッキングの感謝などを込めて、2人を招待した。誤算だったのは独立記念日で夕方までは禁酒日だったことだ。ただ、福田さんが店員にもなじみの顔だったことが幸いし、「すぐにグラスに注いで瓶を隠せ」という店員の指示のもとに結局は飲むことができた。
 ラタンには10代の子どもが2人いるという。「登山家にさせるのか?」と聞くと、「今は勉強が大事だ」と、親らしい発言だった。
 食後、1時間ほどのフリータイムを設けて、バス停に再集合した。ここでもラタンとネギさんが運転手にチップを握らせて、ザックを荷物室の最奥に入れてくれた。今回のバスもボルボ社のセミスリーパーバス。行きよりも若干新しいようだった。
 2人に見送られ、バスはほぼ定刻通りに出発した。出てすぐ、6歳くらいの女の子が車に酔って吐いてしまい、緊急停止。その後の道中でも、他の客もバスが止まるたびに吐き気をもよおす人が多かった。意外にもインド人はバスに慣れていないようだった。
 夕食時間として止まったドライブインで目を引いたのは、携帯電話の充電コーナーがあったことだ。機種ごとに5社分の差し込みコードがある。日本ですら最近始まったようなサービスが、こんな山奥でも実施されている。車内でも、独特のインド音楽の着メロが鳴ることが多く、中流層以上であればほぼ1人1台のような状態になっているのだろう。
 日が落ちて山道を行くと、道の各所が崩壊している。おそらく2,3日ずれていたらこの復旧待ちでかなりの足止めをくらっただろう。我々が通るときには、すべて開通していて順調に南下していった。

第8日 【8月16日】 
バスでデリーに移動、到着後タージマハル往復

2:30 ガソリン補給
5:30 デリーまで129qと表示
6:40− 7:20 デリー近郊の茶屋で休憩/チャイ、コーラ
8:53 デリー到着(出発から16時間15分)/ ラジーブさん、マヘッシュさん出迎え
9:20 サンジャイ家到着
10:00 朝食(サンドイッチ、野菜入りチャパティ、マンゴー、パパイヤ、洋なし)
11:10 サンジャイ家出発(ラジーブさん運転、ボビーさんガイド)
 〈途中、国道沿いのレストランで休憩、ラジーブさん、ボビーさん昼食〉
15:40 タージマハル到着、タージマハル観光
18:20 タージマハル出発/車内でビールを大量摂取
21:00 国道沿いの茶店で夕食(ダル・ベジタブルカレー)
23:41 サンジャイ家到着

 起きたり眠ったりを繰り返しているうちに、バスは平地の直線道路を走っていた。下界に降りてきたことがわかる。けたたましくクラクションを鳴らしながら、バスは高速道路並みに飛ばしている。そんな道脇を自転車がすり抜ける。明かりのない6時前の早朝から動き出している人々の多さに驚く。
 白々と夜が明け、車の量も増えていった。デリー近郊に入ると、なぜか反対車線のドライブインに停まった。走行車線側にも店はあるのだから、バス会社で契約しているのだろう。デリー中心地に入ると車の多さに辟易する。マナリやヒマラヤの中にいたことを思い出すと、果たして同じ国なのだろうか、と思う。
 バス停に着くと、ラジーブさんとマヘッシュさんがきっちり迎えに来てくれていた。感動を覚えるくらいありがたい。疲れ果てた体と頭でタクシーなどをつかまえることを考えたら、安全なインドの旅には欠かせない。
 早くも慣れ親しんだ感のあるサンジャイさん宅に着くと、またも大量の朝食が待っていた。「もう食べられないよ」という顔をしているのに、ルビーさんは真顔で薦めてくる。とにかくもてなすことがインド式なのだろうか。
 食後はタージマハル往復に出掛けた。マナリから到着してすぐに出るという強行軍だ。ボビーさんが仕事を休んでガイド役になり、ラジーブさんの運転で一路アグラに向かった。道中、道ばたの掘っ立て小屋に暮らす人たちを多く見た。おそらく低所得層だろう。ニューデリーの市民やマナリの人々とはまた違うインドがそこにあった。
 アグラ市内は喧噪という言葉がふさわしく、人と車であふれかえっている。タージマハルへの駐車場に着くと、ラジーブさんを残して3人で観光に行った。とにかく蒸し暑い。そんなところに土産物を手に近づく人の群れ。興味深いのはデジカメ用のメディアや電池を売る人が多いことだ。
 驚くのは観光客用の入場チケットの高さだ。世界遺産の維持費とはいえ、750Rは単純に円に換算しても高い。内部はインド一の観光地とあって、世界各国から来た観光客でいっぱいだ。左右対称の独特の雄姿の前に立つと、人の力の神秘さを感じさせる。中に入ると、壁に施された意匠の美しさに目を引かれた。
 ただ、建物自体が大きすぎて、接近してしまうとよいアングルで写真を撮ることが難しい。調子に乗っていると、帽子をうっかり台座に置き忘れ、慌てて取りに帰った。このあたりから、暑さで頭がぼーっとしていたのだろう。隣の礼拝堂でもカメラを構えていたら、「ここがよいアングルだから撮りなさい」と見知らぬインド人男性が言う。警戒して無視していたら、「俺はここの職員だ。何も要求しないから安心しなさい」と言う。ここで油断した。数点の撮影ポイントを聞くうちに、やや物陰に入った。「危ない」。逃げようとすると、予感的中。「何かくれ」。10Rを握らせて追い払ったが、どんな10Rよりも高いと感じた。不覚だった。
 日も落ちてきたので、車に戻って、デリーへの帰路につく。すると、ボビーさんが気を遣い、よく冷えた500ミリリットル缶のビールを1人2本ずつ買ってきた。「ボビーさん最高」と2人で言い合って、まず1本。ラジーブさんに悪いと思いつつ、3人ともすぐに2本ずつを空けてしまった。だが、このビールは、HAWARD5000という名で、アルコール度数は7.2。完全に酔っぱらいだ。途中、屋外型のドライブインで夕食を取り、ここでも薦められるままに食べると、意識レベルは限界だ。車に乗ると、2人とも深い眠りについてしまった。目を覚ますとボビーさんの家の前。福田さんはサンジャイさんの家の前まで起きなかった。長く、濃い一日が終わった。

第9日 【8月17日】 
デリー滞在、夕方帰国のため空港へ

7:00 起床/チャイ
8:00 朝食(カレー風味リゾット、サモサ風揚げ物にカレー風味各種ピクルスを添えて、フルーツ各種、チャイ)
10:30 3階の宝石店立ち寄り
10:45 市内観光に向けてサンジャイ家出発(ラジーブさん、マヘッシュさん同行)
11:00 大統領官邸など見学(外から)
11:20 インド門見学
11:40 セントラルコテージで一時解散、買い物
13:45 再集合
14:00 中心街にあるステッカー露店立ち寄り
14:15−15:20 カケ・ダ・ホテルで昼食(カレー、タンドリーチキン)
15:30−16:20 各州政府土産物店立ち寄り
16:50 サンジャイ家帰宅
17:35 サンジャイ家出発(サティシュさん、ルビーさんらの見送りを受ける)
18:30 デリー空港到着、福田別れる
21:40 JL472便出発
〈機中泊〉
 
 昨夜は部屋の電気をつけたまま2人とも眠りについてしまった。朝食は相変わらず山盛りのベジタリアン料理だ。食後、3階の宝石店に寄り、金会話の弾むようになったラジーブさん、マヘッシュさんとともに土産物の買い物に出た。
 ただ、この日も大統領官邸やインド門などデリーの中心部を車で観光。その後、おなじみのセントラルコテージで買い物となった。だが、あまりめぼしい品がなかったので、「地球の歩き方」を頼りにMittary Storeという紅茶屋に一人で向かった。すぐにわかるだろうと思ったら、ビルの内部にあって探すのに苦労した。だが、土産にはちょうどよい安価かつ小分けになった紅茶を買うことができた。
 セントラルコテージで4人が合流すると、案の定ここでも磯部さんグループと再会。福田さんは彼女たちとは昨年も同じ巡り合わせだったという。続いて、福田さんお待ちかねのKAKE DA HOTELという食堂で昼食だ。てっきり最初は「かけだホテル」という日本系のレストランと思っていたら、地元民でごった返すインド人向け食堂だった。タンドリーチキンとカレーをたらふく食べ、2人とも大満足だった。
 州政府の土産物店にも寄り、マヘッシュさんの「時間、時間」と残された時間を心配する声に従い、サンジャイ家に戻る。この日もサティシュさんが清潔感のある白い服を着て待っていた。彼に「この旅は特別な旅だった。その最初と最後をここで過ごすことができて光栄だ」と感謝の気持ちを伝え、家族やスタッフの見送りを受けながら、空港に向けて出発した。
 空港で福田さんと別れ、出発ロビーに行くとまたも磯部さんグループと出会う。同じ飛行機なのだから、当然だ。機中では「熊谷、最高気温の日本記録を更新」という新聞記事の1面に度肝を抜かれた。冗談ではなく「インドに避暑に行ってきた」と言える旅だった。

第10日【8月18日】
日本到着


(日本時間)9:25 成田空港到着 熊谷の実家へ

〈以下、福田日程〉
第9日 【8月17日】
夕方 空港で見送る
 その後、サンジャイ家へ サンジャイ家宿泊

第10日 【8月18日】
日中 デリー市内滞在 サンジャイ家宿泊

第11日 【8月19日】
日中 デリー滞在
夜 JL472便出発  〈機中泊〉

第12日 【8月20日】
(日本時間)午前 成田空港着 上尾へ







村越昇先生 7回忌トレッキングを終えて

福田 和宏

 熊谷の「メモリアル彩雲」で執り行われた村越先生の告別式。あれから5年以上もの月日が流れた。あのとき、私は「弔辞」を皆さんを代表して担当させていただいた。今年、チャンドラタールのケルンにて、時は移っても変わることがない思いを先生に伝えてきた。


<追悼の辞> 
お世話になった村越先生へ

 「先生」、そう呼びかけると、今こうして御霊前に向かいながらも、「オーッ。」って、先生の聞き慣れた声が聞こえてくるようで・・・。

 私にとって、先生と共に過ごしてきた思い出は、抱えきれないくらいたくさんあります。みんなで山へ出かけ、寝食を共にし、楽しいことも辛いこともずっと一緒だったから・・・。そして、まだまだ、これからも先生とずっと一緒に過ごしたかったから・・・。だから、もう、先生の頼もしいお姿を見ることがかなわない、そう思うと・・・。一人一人をとっても大切にしてくれた魅力いっぱいの先生だったから、ここにいらっしゃる皆様方、そして、ご親族の皆様の深い悲しみは察するにあまりあります。

 ご遺影の先生は、きっと「元気をだせやっ。」そう言って励ましてくれているのでしょうが、今、私たちはどうするすべもありません。

 目を閉じると、もう、とうに過ぎ去ったことなのに、まるであの頃と同じように胸が熱くなり、あの頃の自分が、そして、先生の姿が心に浮かびます。

 先生、覚えていますか。「30万円ためろや、一緒にインドへ、ヒマラヤへ行こう。」この言葉を私たちは代々聞いて育ってきたんです。何か私たち仲間の合い言葉みたいで・・・。実際、幾人ものOBを憧れの地ヒマラヤに導いてくれました。あっちこっち日本全国かけずりまわった山での生活では、よく、真夜中だというのに私たちをたたきおこしては、「ミッドナイトティー。」だとか言ってお茶をいれてくれましたよね。ねぼすけの私たちは、いっつも先生の「起きろ〜。」この言葉で一日が始まります。それでも起きないとなると・・・襲いかかられたり、サインペンで足の裏に落書きされたり・・・。

 みんなの共通の思い出の地である野地温泉では、退職記念の宴が盛大に行われましたよね。いっぱいの教え子たちに囲まれて、お酒の量もかなり過ぎていました。そして、その席で、「夏にはインドヒマラヤの未踏峰への登頂をするんだ。OB諸君とも一緒にねって。」そう、顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに夢を語ってくれましたよね。

 先生は、私たちのことを現役時代はもちろん、卒業してからもずっとかわいがってくれました。先生、先生に出会えて、私たちとっても幸せです。先生と一緒に行動する中で、たくさんのことを教わり、抱えきれないほどの思い出をいただきました。私たちにとって、もっとも貴重な青春時代を先生と共に過ごすことができたことは、いつまでも誇りであります。精一杯の思いを込めて・・・ありがとうございました。先生、先生は私たちにとってまさに恩師という言葉を口にしても恥ずかしくない存在でした。

 これだけいっぱい、いい思いをさせてもらってきたにもかかわらず、何一つ恩返しすることができずにいるうちに、こんなことになってしまって・・・。入院中もさぞ、みんなと山へ出かけたかったことでしょうね。「年老いて、もし足腰が弱くなって歩けなくなってしまったら・・・。」時々先生はそんなことをポツリと言ってましたよね。でもね、先生、OBたちは、先生をかついででも一緒に行って欲しいって、みんなそんな気持ちですよって言ったら、「そうかっ。」って「俺がお荷物になってしまう日を一日でも遅くしなくちゃなっ。」そう笑っていらっしゃいました。にもかかわらず、何一つ力になれなくて、先生、ごめんなさいね。

富良野へ写真を撮りに行く約束。アラスカへオーロラを見に行く約束。もう一度インドへ行く約束。体力が回復したら野地温泉へ行こうって、みんなでビール飲もうねって、みんなで温泉に入ろうねって。あれほど楽しみにしていたのにね。私たち、みんな村越先生が大好きだったから・・・。先生、出かけるときにね、先生の写真をポケットに入れていきます。だから、これからもずっと一緒にいてくださいね。

 「ホラもなっ100回ふくと、本当になるぞっ。」て、いっつも嬉しそうな顔でおっしゃって下さった先生の顔が、今鮮やかによみがえります。

 「自由に生きろ、そのためにうんと力量を身につけろなっ。」先生がその後ろ姿で教え続けてきてくれたこと、私たち決して忘れません。
先生、私たちにいつも夢を与えてくれてありがとうございました。
 心よりご冥福をお祈り致します。

2002年2月21日        熊谷高校山岳部OB一同より

 「いつか、あの世で、またお会いしましょう。」そう、ケルンの前でつぶやくと、「急ぐななっ。」て先生の重低音な声が聞こえてくるようでした。