インドで出会った人々
宮 内 浩 志

 デリーに戻り、皆と別れてから19日間、インドを歩いた。どんな旅でも、人々との交流は思い出深いものとなる。それがうまくいけばいくほど、旅はよいものになるであろう。今回の一人旅で、改めてそのことを感じた。 ニューデリー発ボンベイ行のラージダニ特急は、発車時刻になってもホームに現われない。近くのインド人に聞くと、豪雨のため13時間遅れて出発は明日の朝になる予定だという(結局17時間遅れた)。

旅の始めで不安だったこともあり、同じホームにいた人に話しかける。日本人だと思って話しかけたのだが、「こんにちは」が通じない。改めて英語で話す。一人で旅行中の韓国人で、チョイ君というそうだ。切符に記された列車の席番もとても近く、たちまち打ち解ける。彼がこれまで泊まっていたという駅近くの安宿に一緒に泊まることになった。自己紹介から始まって、旅の話や、果ては日韓関係に至るまで(たまにはそういう真面目な話もするのだ)、その日はいろいろ話し込んだ。翌日の列車内やボンベイに着いてからもいろいろ手伝ってもらい、まさに「旅は道連れ」を実感した。

 ボンベイの人々は、デリーと比べるとおおらかな気がする。ボンベイ=セントラル駅でバスに乗ろうと思っていると、いつものようにタクシーの運ちゃんが話しかけてきた。あくまでもバスで行くと言い張っていると、なんと彼はバス停を教えてくれた。それでも半信半疑で、近くのチャイ屋の主人に聞くと、また丁寧に教えてくれる。通勤途中の人も、立ち止まって一緒になって教えてくれる。デリーでは、タクシーやリキシャーの運ちゃんがバス停を教えてくれることなど、まず無いだろう。逆に、そこにはバスじゃ行けない、などと言って強引に乗せようとするのではないだろうか。インドは、南に行くほど人が良くなる、という話を後で聞いた。もちろん一概には言えないだろうが、大まかには当たっているような気がした。

 アジャンタからバスで2時間くらい北にいったところに、ジャルガオンという町がある。ここで列車待ちのため、約一日滞在した。ゲストハウスのフロントで、夕食にターリー(インドの定食)を食べたいのだけど、と尋ねると、地元の人しか行かないような店に案内してくれた。いつの間にか、周りに15人くらいの人達が集まっている。変な外人が珍しいところにいると思ってきたのだろう。名前は何という、どこからきた、職業は、インドは好きか、ジャルガオンはどうだ(そんなこと、来たばかりの僕が分かるわけがない。が、好きだと答えておく)、その時計はいくらだなど、また、食事が出てくると、飯はうまいか、なぜ水を飲まないのだなどと質問攻めにあう(どこに行っても同じような質問をされた)。僕も逆に同じようなことを尋ねる。それは別にいいのだが、食事中にもそばからじーっと眺められるのには参った。とても落ち着いて食べるどころではない。食事は適当に切り上げた。

 翌日郵便局に行くと、学校帰りの小学生が一人近寄ってきて、なんとサインをくれという。僕のサインなんか貰ってどうするのだろうと思いつつ、彼のノートに大きく名前を書き、握手をした。

 ジャルガオンからサトナー(カジュラホへの乗換駅)へ行く夜行列車の2等寝台では、昼から何も食べていない僕に親子連れが食事を分けてくれた。途中の駅ではチャイもおごってくれた。見ず知らずの外国人に、見返りも期待せずただでものをくれるインド人がいることに感動した。そんな彼らを少しでも疑ってしまった自分が情けなかった。ただ、ほとんど英語が通じず、あまり話ができなかったのが残念である。

 カジュラホには、日本語の上手な人が数多くいる。前日にそのような一人に嫌な思いをさせられていた僕は、滞在二日目、また日本語で話しかけてきた子供を適当にあしらっていた。ところが、その子はどこまでもついて来て、いつの間にかガイドまで始めてしまった。日本語でガイドもするし、ヒンドゥー語も教えるから、日本語を教えてくれといわれて、彼のほうからお金を絶対に要求しないなら、ということでOKする。彼の名前はラジェス=アヌラジ、14歳である。なかなか勉強熱心で、知らない日本語を聞くとノートにメモしている。日本語もかなりのもので、他にも英語を初め5、6カ国語は話せるというのは驚きである。実際すれちがったスペイン人にもスペイン語で話している。東群、南群と歩いて案内してもらっているうちに、すっかり仲良くなった。途中で彼の友人と出会い、その友人の運転するベスパに三人乗りをして南群の離れた寺院まで連れて行ってもらったりもした。道端に、彼曰く「地酒の木」なるマホバという木があり、もし飲みたいのなら今夜家にきて僕の父と飲みなよ、と誘ってくれる。有難く誘われることにして、ラジェスの家に行く。父親が出てきて、40ルピーでその地酒と、夕食をごちそうしてくれることになった。ラジェスとヒンドゥー寺院の祭りを見た後、彼の家の屋上で星空を眺めながらの夕食会となる。今日はカジュラホの祭りの日だということで、叔父さんが二人、遠くはデリーから来ていた。酒の名はジンというらしいが、本物のジンよりはずっと弱く、もっと飲みやすい。水で割っていたが、なかなかうまい。ハッピーになるために一気に飲め、と勧めてくれる。盛り上がってくると、叔父さんの一人が、ラジェスは日本語がうまいからブッダ・ガヤーの日本語学校に入れたい、と言う。頑張って欲しい。夕食は、カジュラホのアショカホテルのコックであるラジェスの父親が作ってくれたエッグカレーで、これまたおいしかった。帰りには、昨日オープンしたばかりというラジェスの店(!)でお礼を込めて、ささやかではあるが買い物をした。旅行者では、僕が最初の客だったそうである。

 翌朝、バスターミナルにラジェスが見送りにきてくれた時は本当に嬉しかった。

 ブッダ・ガヤーの、ブッダが悟りを開いたと言われる菩提樹の木の下で、チベットから来た二人の若い僧に出会った。二人とも明るく、話もはずむ。ラダックとザンスカールに行ってきたんだよ、チベットっていいね、と言うと、嬉しそう。彼らは、中国政府はパスポートもくれない、中国人にはいい人が多いのだけど、と言う。でも、そんな話をしていても、決して暗くない。彼らと話していると、またチベットに行きたくなった。

 最終日、ニューデリー駅前からインディラ=ガンジー空港に向かうため、駅前のトラフィックオフィスでチケットを買った。オートリキシャーに乗ってしばらくしてから40ルピーボラレたのに気付く。50ルピー札を2枚渡したはずなのだが、一枚10ルピー札だよ、と言って返されたのである。その時は何の疑問も持たず、さらに50ルピー渡してしまったのだが、考えてみると、10ルピー札は渡したとき財布に入っていなかった。ちゃんと確認して渡さなかったのがまずかった。気付いたときには遅かった。ただ、やられた! という悔しさはあるものの、不思議と怒りは湧いてこない。最後だという油断と気の緩みを見逃されなかったのだろう。切符売り場のオヤジの顔が目に浮かんでくる。インド人のしたたかさを改めて感じた。ふいにおかしさがこみ上げてくる。またインドに戻ってくる、そんな気がする。雨上がりのインドの大地に夕日が沈もうとしていた。

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miyauchi@stpp2.geophys.tohoku.ac.jp
宮内 浩志 (みやうち ひろし)
東北大学理学部 宇宙地球物理学科   太陽惑星空間物理学講座 惑星大気物理学分野

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