ザンスカール 祈りの旅‥‥

 加 藤 俊 夫

 

     茫洋(ぼうよう)たるかな ラダック ザンスカール

     群青(ぐんじょう)のきわみに在りて

     人間(じんかん)の声明(しょうみょう)

     いずくにぞ 生死(しょうじ)を問わん

 あれから僅かに10カ月。僕は再びこの乾いた風の中に戻って来た。  ‥‥‥‥‥‥‥ この3月、妹がガンの告知を受けた。5月には88歳を迎える母が、腹部に異常があると精密検査の要請も受けていた。旅を中止させる条件は全て整っていた。しかし、僕は来た。  そして僕はいつも死を考えていた。

 レーの宿。粗末ながらサイドテーブルに山に帰られる柿沼先生の遺骨を安置し、庭先の小さなはなを飾り、煙草と水を供えた。

 去年もご一緒だった柿沼先生。日本からの線香の香りが、細い煙を引いて揺れた。夜になると「加藤さん、いま何時でしょうかネ」と相部屋の時の先生の口癖が聞こえて来そうな気がした。

 僕はずっと死を思っていた。

 8月11日 キャンプサイトの朝。幅2mくらい、黒い縞もようの石の前に80センチ程のケルンを積んだ。若者らが集めてきてくれた可憐なはながチャイのカップに一杯溢れた。わずか1センチくらいの桜草に似たピンク、あざみのような か弁の新鮮な黄色。

 右に朝の日、正面に川をはさんで薄緑に広がる小さな平地と、ずんぐり隆起する山の幾ひだ。左手には牛5、6頭を近景に、遥かに広がる岩くづの大斜面。その果てに純白のピラミッドが頭を出している。

 豊島さんの追悼の言葉、全員で「いつかある日‥‥‥‥」。大雨のように涙が溢れた。

 僕はずっと死を思っていた。

 一歩踏み外せば確実に死ぬだろう、不安定なガレ場の連続。急激に落ち込む斜面の下には、いつもゆき解けのザンスカール・リバーの波しぶきが狂ったように走っている。

 30センチよろければ、足下のリズムを狂わせれば、簡単に死に至るだろう。特別な決心も度胸も何も必要としないだろう。何ひとつミスのない歩行を続けたとしても、何千何万の落石が常に頭上にある。いつ落ちて来ても何の不思議もない。音もなく本人さえ知らない間に死ぬだろう。

 8月15日 キャンプサイトからの急なモレーンを越えるあたりから雲が低くなってくるのが気になった。せっ渓のトラバースを2度、3度重ねる頃から、小雨となり、みぞれ模様となった。

 視界30から50メートル、念願のシンゴ=ラ(峠)は震えるような風雨の中、夕暮れを思わせる暗い空と、幾重にも入り組み重なり合い崩れあった一面のゆきと氷河のただなかにあった。  風せつに洗われたケルンが4、5個、わづかに峠の存在を知らせ、かたわらでちぎれるようにタルチョがはためき揺れた。石を積み凍えるような手で先生の遺骨を納めた。白く乾いてしまわれた先生を偲ぶ長い黙祷が冷たい風の中、吐く息を一層白くさせた。  

 僕はじっと死を思っていた。

 何かしら満ち足りた思いが心の底だけを熱くしていた。

(係り注:文字化けが起こるため一部ひらがなを用いました)