我らが柿沼先生

豊 島 千 恵 子

−始まりはインドの旅−

 ’83年のインドが、柿沼先生と初めてご一緒した旅行でした。

 8月2日から26日まで前半をマナリ周辺のトレッキング、後半をボンベイ、アジャンタ・エローラなどの観光という日程でした。私と金子さん(当時は津久井さん)は、仕事の都合で、後半の観光だけ参加しました。

 最初のボンベイから、由緒はあるが古いホテルの一部屋に、マットレスを敷き詰め雑魚寝するような旅でしたが、それがまたなんとも楽しいものでした。

 当時も『最長老』(といっても59歳)の柿沼先生は、好奇心いっぱいに歩き回り、写真を撮り、どっさり買い物をする。とにかくエネルギッシュでした。

 この時の参加者は、柿沼先生を筆頭に、二十歳そこそこの石田直子さんまで6人。現在程ではありませんが、この年齢差があって、かえって居心地の良い楽しい旅になっていたような気がします。

 その後も'86年のメキシコ・グァテマラ、'89年のスゥイス・オーストリア、'90年ペルーアンデス、'91年ヒマラヤトレッキング、'92年北欧、'93〜'95年のヒマラヤトレッキングと、この年齢構成はずっと続いてゆきます。

 長老とは言っても、柿沼先生はけっして中心の重しではなく、自然な存在として私達の中に居られたように思います。

 我がトレッキング同人の特徴である「大きな年齢差」は、この様な柿沼先生が加わって居てくださったことで、信頼と尊敬に基づく絶妙のバランスとして定着して来たのだと思います。

−時には山スキーにも−

 時には山スキーにも一緒に出かけました。

 立山や吾妻、八ヶ岳など。けっしてスキーが得意でない先生は、いつも四苦八苦しておられましたが、充分楽しそうでした。先生はボーゲンが苦手で、滑っているうちに、どうしても逆八の字になってしまいます。何とも不思議な格好で降りてくる先生を、みんが笑いながら待っていると「僕はボーゲンが苦手ですから」と、一緒に笑って居られました。

 ある時は(八ヶ岳だったと思いますが)スキーで倒木を渡らなければならない所がありました。何となく危ないなと思ったら、案の定、先生が落ちてしまいました。「あっ」 と思ったのですが、手が出せません。暫くもがいて「アー、マイッタマイッタ」と、雪まみれになって出て来られました。いくら転んでも怪我一つしないのは、さすがと言うほかありません。

 また、先生は年末の野地温泉忘年会の常連でした。「お酒と温泉だけでいいや」と手ぶら参加の若者が結構いるなかで、ちゃんと山スキー一式を持って来られ、写真機を持って裏山の散歩に付き合います。土湯峠や鬼面、箕輪が、先生の写真の中にたくさん残っているはずです。

−お酒を飲みながらも−

 何かに託けては集まり、その後お酒を飲むのが、最初からの決まりのようになっていました。旅の話から写真、政治、教育…と、いつも時間を忘れてしまいます。

 '95年の参院選挙の前だったと思いますが、たまたま先生の隣に座った見ず知らずの若者たちと議論になってしまいました。(先生から始めたのかも知れません)彼らは、「政治なんか誰がやっても同じだ、選挙なんかするもんか」といきまいています。柿沼先生を「おじさん」などと呼ぶ『不届き』な彼らを、私達ははらはらしながら見ていました。しかし先生は、「本当に民衆の側に立っているのは誰か」一歩も引かず、結構楽しそうに話され、とうとう彼らに投票に行くことを約束させてしまいました。

−お葬式の日−

  海外の旅に出かける度に、その土地の土を混ぜて作って下さった、お猪口やお湯飲みなどが貯まってきました。土の色そのままに焼かれた作品は、一つ一つが旅の思い出になっています。しかし、私は、全く失礼なことに、先生の作品はこの色のものだけと、思い込んでいました。

  お葬式の日、始めて先生の陶芸の作業場を見せていただきました。所狭しと並ぶ美しい釉薬の作品に、思わず感嘆の声を上げてしまいました。艶やかな作品を手に取ると、少し別の先生にお会いしたような、不思議な気分でした。

 「陶芸を教えながらも、ついつい旅の話に夢中になってしまわれます。先生のお話に何度も登場する皆さんは、とても初めてお会いするとは思えません。」と、一緒に来られた陶芸のお弟子さんである間庭さんが話して下さいました。 

 「僕は草取りなんかしませんよ。」と言う先生の言葉どうりの庭は、山野草でいっぱいでした。その中で、真っ白などくだみの花が、痛いように咲いていました。

−散骨式−

 レーの町からまる2日の深夜、埃まみれになって、やっとパダムの先のキャンプサイトに辿り着きました。翌朝、キャンプサイトの斜面に、石を積んだ小さな祭壇がつくられ、緑の少ない景色の中から、隊の若者が、小さな花を摘んで供えました。

 隊長の進行で、ささやかでも、皆の心のこもった散骨式が始まりました。お別れのことばを述べる役は、私にとって柿沼先生が本当に亡くなられたことを再認識させられるようで、辛いものでした。「安らかに眠って下さい。」など、およそ先生に似つかわしくない言葉がなかなか言えず、ついつい言葉に詰まってしまいました。

 細かく砕けた遺骨を、皆がそれぞれの思いを込めて、少しづつ祭壇の周りに置いてゆきました。最後に、隊員の加藤さんが、柿沼先生を送る為にと用意した『いつかある日』の合唱で終わりました。

 ジープ隊と別れ、いよいよ5,000mを超すシンゴラを目指すトレッキングが始まりました。そこは、柿沼先生の次の散骨の場と決めた所でした。

 初日から、朝の9時から夕方7時までのハードな行程に、私はへとへとでした。とうとうトレッキングの最後まで回復せずに過ごしてしまいました。

 日数を縮めたことで、こんな事もあろうかと用意された、人を乗せられる馬に、3日めからお世話になってしまいました。刺すように強い日差しと埃の中を行くと、93年のチャンドラタールトレッキングで、バタルまで歩いたことを思い出しました。チャンドラ川の決壊で、バスの予定が、埃っぽい炎天下を歩くことになってしまいました。うんざりして歩いている私に、先生は「いい写真が撮れますよ」と、にこにこしながら話されました。「どうしましたか豊島さん」と、先生の声が聞こえるようでした。

 8月15日 7時12分、今回の最高地点シンゴラに向けて出発しました。キャンプサイトから、いきなり急な登りのモレーンを登り切ると、しばらく高原状のなだらかな道を行きます。途中でまた馬に乗せてもらいました。9時頃からとうとう心配していた雨が落ちて来ました。峠直下の雪渓はさすがに馬では登れず、皆と一緒にシンゴラに立ちました。

 風雨はますます激しく、雪も混じってきましたが、それでも柿沼先生の散骨式は行われました。激しい風に必死で踏ん張って、ケルンを造り、ここまで一緒に歩いて来られた先生の遺骨を一人一人が山にかえしました。この、厳しい自然の中に先生を置き去りにするようで、忍びない思いでいっぱいでしたが。

 しかし、抜けるように青い空の日も、満天の星空の夜もあるはずです。天気の良い日は、土地の人たちや、世界中のトレッカーがこの峠を行き交うでしょう。我々の中で、

 もう一度ここを訪れる人がいるかも知れません。そう考えれば、ここは先生に最もふさわしい所かも知れません。

 残りの遺骨は、我々と一緒にトレッキングを続け、森田先生の山荘・アシュラムに、そして、仲間の若者たちによって、バラナシーで「聖なるガンガ−」に流されました。

 こうして、柿沼先生は、すっかり自然の中に帰って行かれました。

 けれど、いつもお元気で闊達な先生の姿は、私達の中に当然のように位置を占めています。先生は、これからもずっと「最長老の我らが柿沼先生」です。