ジープ隊の記録

航空券のトラブルによる、先発隊の記録とザンスカールに入りトレッキング隊と 別れた後の記録

《レー入り先発隊の記録》

第3日 8/ 6 (火) 行程: デリー空港→カニシカホテル
記録: 山崎 晃 天気: 晴れ→途中雨→曇り
5:006:00 各部屋毎に起床 朝食も各自で。 7:00 先発隊9名 カニシカホテルを出発 Jトレ隊 野口 高野 山崎 森田

トレッキング隊 宮内 丹野 諸貫 前川 武政

7:30 デリー空港 ローカル線ターミナル着。 予定された時刻になっても、搭乗手続きが始まらず、ひたすら待つ。

11:00 デリー空港離陸 サンジャイ氏の尽力で半数が先発できた。 モンデールフト機は途中 ジャンムを経由してレーに行く。離陸が遅れたのも 天候のためらしいが、約1時間20分の飛行でジャンム空港に着陸しようと旋 回を数度、しかし、雨雲が低く垂れ篭め着陸出来ず、アムリトサルへ向う。

14:04 アムリトサル空港 離陸。 14:40 ジャンム空港 着陸。 15:35 ジャンム空港 離陸。

16:10 レー空港 着陸 諸手続き 荷の受け取り。

17:00 サンペルの出迎えをうけ、タクシーでカングラチェーンホテルに到着。

19:00頃 夕食 全員食欲あり、よくたべていた。 21:00頃 以降 各部屋就寝。

毎年、インドの旅ではなにかしらトラブルが起き、予定通りの日程では行動できないのであるが、今年はインドへ到着した早々から事件発生であった。レーへの航空券が全員キャンセル待ちのナンバーであったことだ。サンジャイ氏の大変な努力でモンディルフト航空のゴールド席が確保でき、我々9人が先発として出発できた。空港にきてからもなんの連絡もなしに相当な時間待たされた。しかし、なんとか行けるのだろうと、気をやまずに腰をすえた。予定よりだいぶ遅れて離陸し、ジャンムにむかった。しかし、ジャンム空港は雨雲の下にちらちら見え、何度か旋回し着陸の機を待ったが、結局着陸出来ず、アムリトサル空港まで引き返し、天候の回復を待った。

アムリトサルという地名が記憶の底にあったので、懸命にその糸をたぐってみた。今回の旅に出るまえに、レンタルビデオで「ガンジー」を見たのだが、インド独立運動の歴史のなかで、イギリスがネパールのグルカ兵を使って、民衆の大量虐殺を行なった地であることを思い出した。偶然訪れ、しかも機内から一歩も出られなかったのだが、いつか尋ねてみたい所だと思った。レーへの到着は半日遅れになってしまったが、サンペルの出迎えをうけ、カングラチェーンホテルに向う。一年ぶりのレーの町が妙に懐かしい。ホテルも昨年、何泊もしたので「勝手知ったる我が家」という感じだ。

夕食には全員9名元気な状態で集まり、レーが初めての若者たちも、高所障害の兆候など少しも見せず、食欲旺盛にインド料理をたいらげた。

第4日 8/ 7 (水) 行程: レー近郊のゴンパ巡り
記録: 森 田 雅 夫 天気: 晴れ 気温: 朝 最低 12
5:006:00頃 起床 先発隊9名、各部屋毎に起床 年配者は5時頃起床。 体温・血圧・脈拍の測定

・前川 嘔吐、頭痛、体調不良 ・武政 頭痛 体調やや不良

・野口 少し頭痛

8:008:30 朝食

9:05 ゴンパ巡りに出発(前川は部屋で静養) ガイドは昨年と同じ。アンモ(女)10:3011:20 ヘミスゴンパ見学 昨年の雨で一部が決壊 改修中。

12:1012:45 チクセゴンパ見学 仏像に感激する。

12:5013:35 チクセのレストランで昼食 弁当他 ラーメン・焼きそば 13:5014:40 シェイパレス見学 城内にも仏像があった。

15:0515:35 ストックゴンパ見学 ここは博物館になっている。 16:00 カングラチエンホテル着。

・8名がゴンパ巡りをしている間に、ホテルで静養していた前川君が不調になり レイの病院に入院、サンペル等の援助を受ける。 ・後発隊9名は午後1時頃、無事にレイに到着、前川君の援助にあたる。 17:3017:50 全員でミーティング「今後の日程等について」 18:3019:20 夕食 前川君の付き添いを交替で努める。 21:00 各部屋ごとに就寝。

ゴンパ巡りも昨年に引き続き二回目ともなると、ガイドにでもなったような錯覚におちいる。チベット仏教については勿論のこと、ゴンパの歴史や、仏像・壁画等の由来などについて、全く無知蒙昧なくせに、そんなことは棚にあげて、何でもしっているような気持ちになるから不思議である。これも3500mの高地の希薄な空気の為せる業かもしれない。 今回は、ヘミス・チィクセ・シエー・ストックという順に、四つのゴンパを巡った。残念ながら、昨年体験したような感動は、今回は感じなかった。 昨年より一ヵ月早かったせいか、インダス川沿いの緑がいくぶん拡がっているようなきがした。 高いゴンパのある岩山から、眼下の楊の緑や、人家や、胡麻粒のような人の動きを見ていると、心の故郷に戻ってきたような安らぎを覚える。 きらびやかな極彩色の仏像の柔和な顔を拝んでいると、極楽浄土をさまよっているような気持ちになる。 強い紫外線に痛め付けられながら、急な坂道や階段の昇降に疲労を感ずるころ、ゴンパ巡りは終った。 桃源郷での、仏たちとの対話にうっとりしながらホテルに帰った。 体調不良で残留・休養をさせていた若者の入院さわぎを聞かされて、私の心はハッと現実に戻った。

《ザンスカール ジープ隊の記録》

往路は本隊の記録にまかせ、パタムからの帰路の記録となる。

第8日 8/11 (日) 行程: パダムのキャンプ場→カルシャゴンパ→テント場
記録: 野 口 一 夫 天気: 晴れ
6:00 起床 昨夜暗やみのなかをさまよい、やっと到着したキャンプ場を改めて見渡 す。パタムの中心からだいぶ東にきている。 7:00 朝食 その後テント撤収、荷造り。

・柿沼先生 追悼の式と散骨をする。

8:30 トレッキング隊を見送り、Jトレ隊の復路の行動開始する。 10:00 ハダムのテント場を出発。

11:00 Doda河畔のキャンプ地に到着 テント設営、昼食。

14:00 カルシャゴンパに向う 見学と往復に約3時間。

昨夜は頭痛でよく眠れず、体温は38.5度、口の中がネバネバで気色わるし。今日一日が思いやられる。テントを出ると、空は紺碧色。トレッキング隊のスタッフは朝の支度で忙しげに動きまわっている。 サンペルの弟のアンドウと初対面、縁なし眼鏡をかけ、なかなかの好青年で、愛想がいい。

もう一度、体温を計り直すと36.5度に下がっていたが、脈拍は96、パルスオキシメーターは74と極めて低い数値である。

7時に朝食、チャパティーにケチャップをぬりつけ、紅茶でむりやり流し込む。あらためてキャンプ設営地を眺めまわす。昨夜は道に迷い、ここについたのは夜の10時35分頃、あたり一面真っ暗やみだったのだ。町からこんなにも離れた山中だとは意外だった。

荷物のパッキングを終え、故柿沼先生の慰霊供養のためにしつらえた祭壇の前に全員が集合した。線香の煙がゆっくりと立ち上る中、村越隊長以下順々に回向を済ませた後デュプラの“いつか或る日”を合唱する。小生は感極まって声にならず、でもシャッターだけは切り続けた。 彼とは4年前キンノール・スピティのトレッキングで初めて知り合った、ほんの短いお付き合いであった。彼が記念にとわざわざスピティ川の砂を混ぜて焼いてくれた猪口や茶碗や徳利等5点の作品か、いまとなっては大事な彼の形見となってしまった。

ものしずかで穏やかな人だが、元気そうだったので、彼がこんなにも早く逝ってしまうなんて、全く信じられない気持ちである。さぞやザンスカールに来たかったろうと思うと目頭が熱くなる。

祭壇の前に全員並んで記念写真を撮った後、8時35分、若手のトレッキング隊14名を見送った。

ジープ隊は荷物をまとめ、パタムの町外れの川岸にテントを移動する。昼食にラーメンをたべ、その後若干昼寝をしてから、ジープでカルシャゴンパの見学にでかけた。

途中赤いカヌーで悠々川下りを楽しんでいるスゴイ単独野郎を発見、ビックリするやら、羨ましいやら、たまげてしまう。

ゴンパまでは、約1時間の道程で、3時20分に到着した。岩山の中腹にへばりつくようにゴチャゴチャと継ぎ足し継ぎ足し拡げていった感じの巨大な建物に吃驚する。

あまりにも大き過ぎるので、見学するファイトが消え失せてしまった。建物の近くをうろうろしていると、年配のラマ僧が出てきて「お茶をご馳走するからついてこい」というので、薄暗い建物のなかに入らせてもらう。バーナーでお湯をわかし、おいしい紅茶を飲ませてくれた。お礼にお布施を渡そうとしたが固辞され、山崎氏がザックの中からビスケット一箱をだし、無理遣り押しつけるようにして受け取ってもらった。

ゴンパまでの途中の景観が素晴らしく、往復とも4人で写真を撮りまくった。キャンプ地に戻ったのは5時30分。日中は暑いくらいだったが、夕方はだいぶ冷え込んできた。夕食はご飯に卵スープで済ませる。

後で気付いたのだが、2台のカメラのうち、1台にはスライドフィルム(ASA 25)をつめたつもりが、なんとASA400のモノクロフィルムであった。そのため、このコースでのカラーフィルムは全てパーになってしまった。

第9日 8/12 (月) 行程: タンリのテント場→ペンシーラ→ランドムテント場
記録: 高 野 忠 夫 天気: 晴れ 気温: 5℃
6:00 起床 今日も天気はよさそうである。 7:00 朝食

8:15 タンリのテント場 スタッフの車を先にやり、写真を撮りながら行く。

12:00 ペンシーラの手前で、スタッフの車が故障し、10分間停滞。

12:35 ペンシーラの登りにかかって、再び故障。 高度 4135m地点。 12:50 再三の故障。後続のバスも止める。

13:20 バスが無事に通過、その後出発する。 14:0015:00 ペンシーラに到着、湖畔で遅い昼食となる。

16:30 リンドンゴンパ 予定が遅れたので見学中止。

16:40 ランドムのテント場到着。テント設営。

19:30 夕食 その後 各自自由行動 明日の準備・荷物整理等。

20:40 テントごとに就寝。

今日は写真を撮り続けた一日だった。サンペルやキッチンスタッフの車を先に遣り、我々4人は、野口さんが助手席に、山崎さんが後席の左側に陣取って、これはという処へくると、運ちゃんに「ストップ」と声をかける。運ちゃんも腹も立てずによくつきあってくれた。「山越えしていったザンスカール本隊の連中が羨ましがるだろうな」と言いながら写真を撮りまくった。

また、今日は行く先々で可愛らしい動物に迎えられた。マーモットと言って、イタチを少し大きくしたような奴である。はじめはまん丸い眼をして、興味深そうに我々を見つめているが、車が近付くとあわてて巣穴に逃げ込んでいく。

今日もまた、夕方になると野口さんが発熱し、がたがた震えながら「寒い、寒い」を連発して寝てしまった。それでいて、朝になると“ケロッ”と治ってしまうのだから不思議である。

第10日 8/13 (火) 行程: ランドムのテント場→カルギル
記録: 山 崎 晃 天気: 晴れ 気温: 5時 5ßC
6:00 起床 最低気温 5ßC 昼間とまったく違う寒気に驚く。快晴・無風。

7:00 モーニング ティー

7:45 朝食(チャパティー・ナン・卵焼き・コーンフレーク・ミルク)

8:35 ランドムのテント場出発 スル川の流れに沿って緩やかに降る。

途中 何度もジープを止め、写真撮影。

11:20 パルカチ村を通過。ここからは谷間に入り、山はしばらく見えない。

12:0013:05 転落したロードローラーの引き上げ作業で、道路が閉ざされ待機。

13:35 パニカル村着 昼食 茶店により、食事をつくる。(ラーメン・卵・他) ここの標高 (3345m) パンク修理で出発が遅れる。

14:55 パニカル村発 まもなくチェックポスト。スル川添いの緑豊かな村村を通過。17:45 カルギルのZOJILA HOTELに到着。水道工事中で水が出ない。

19:00 夕食

21:00 各部屋ごとに就寝

早朝テント場のまわりを散歩する。いたるところエーデルワイスの花・花。聞けば、羊も牛も馬も、これは食べないからとのこと、まるで雑草扱いである。

食品を入れてきたパッケージを空け、形のよさそうな花を摘み取って入れる。子供たちが一緒に摘み取って差し出してくれる。数十本も集めたろうか、日本ならば大変な非常識な行為と非難されるところだが、ここでは畑の草むしりの様なものである。 食事迄の間写真を撮る。となりにテントを張っていたフランス人の家族が「写真をとってあげる」とでも言ったのか、村の女性達が何人か正装して出てきた。ペラッグ等もつけていたが、昨年ラダックで見た女性達よりみすぼらしかった。

ポラロイドの写真がだんだんはっきりと見えてくるのを不思議そうに見つめていた。 今日のコースである西方をみると、山々が雲に隠れており少々心配だった。山間の道は少しの雨でも通れなくなるおそれがあるから。

しかし、走りだしてみると、天候は急激に回復し、ずっと青空をバックにしたヒマラヤの峰々が眺められた。スル川はパルカチ村迄は、4000m 近い高地を緩やかに流れている。地図を見て集落や谷を確かめながらジープを走らせる。往路に通った場所なのに全く初めてのような印象だ。スル川に流れこむ支流の奥は高峰と氷河である。

一つの尾根の張り出しを廻り込むと、また違った景観が展開する。次々に現われる白銀の峰々、谷を埋める氷河に感激しながらの撮影行だった。「ドライバー ストップ」の声を何度掛けたことだろう。

圧巻はクン峰 (7077m)の北面だった。聳え立つ岸壁と氷河を間近に見上げるため、その頂は眺められないのだが、ヒマラヤの高峰をこんなに間近に見られる自動車道は他にないのではないかと思う。これが見られただけでも今回の旅は素晴らしかった。

パルカチ村はヌン・クン峰の山麓の村ではあるが張り出した尾根でこの二峰は眺められない。谷間を下りながら、ヒマラヤの峰々ともお別れかと思うと、淋しさとともに残念という感が大きい。再見を期して、ジープに揺られながら山道を急激に降る。

第11日 8/14 (水) 行程: カルギル→レー(カングラチェンホテルに戻る)
記録: 森 田 雅 夫 天気: 晴れ
6:00 各部屋起床 水が出ないので不自由。

6:15 血圧・脈拍・体温等の測定。

7:00 朝食。

7:35 レーへ向って出発、途中ガソリンの補給。

9:30 9:35 モルベックにて小休止。 途中、快適なドライブ。

10:18 ナミカラ(3720mの峠)通過

11:5011:55 フォトラにて小休止(4094mの峠)

12:2013:00 ラマユルにて昼食 ランチボックスにコーラ ゴンパ見学は省略

14:0014:10 カルシーにてパスポートチェック。

14:1514:30 カルシーにてティータイム。

16:50 インダス川とザンスカール川の合流点通過。

17:50 レーのカングラチェンホテルに、全員無事に到着。

18:0518:30 ホテルの前庭でティータイム。

19:3020:00 夕食。

22:00 部屋ごとに自由時間。就寝。

一度通過した道を戻るのは気楽なものである。往路はジープで、かなり激しい振動と埃に悩まされたが、帰路はタクシーだったので、一層快適なドライブを味わう余裕がもてた。写真を撮ることもなく、ひたすらレーを目指して走った。 ラマユルは、カルギルとレーのほぼ中間点である。荒涼として草木が一本もない。ただ褐色の砂礫の狭い平坦地である。 ここは時間的にも、距離的にも、食事をしたり、一服したくなる場所である。道路わきの空き地は、トラック・バス・タクシー等でごったがえしている。 ドライでばさばさしたこんな場所だが、何か心が引き付けられる不思議さがあった。 近くにラマユルゴンパがあるが、時間的な余裕がなく、見学出来なかったのが少しばかり残念であった。 軍隊のトラック軍団に遭遇すると悲劇である。長い隊列が通過するまで、30分位は待たされる。とくに峠道の途中の時は車輌の速度が遅く、物凄い黒煙にいらいらは増幅されていく。

タクシーの運ちゃんにもひやひやさせられた。狭い山道をのろのろ走るトラックを追い越すために、巻き上がる埃のなかを、そこのけそこのけとばかり、猛烈にクラクションを鳴らして追い越していった。こんな苦労をして追い越したにもかかわらず、つまらぬ所で停車して、また追い越されていた。 走行時間を短縮するというよりも、追越しのスリルを楽しんでいるようだった。

カルギルを7時半に出発し、午後5時過ぎにレーのホテルに着いた。かくしてザンスカールジートレ隊の山旅のメインは終った。

第12日 8/15 (木) 行程: レー→デリー空港→カニシカホテル
記録: 野 口 一 夫 天気: 晴れ
6:00 各部屋ごとに起床 朝食前にラーメン

カングラチエーンを出るまで自由行動 各自買物等

10:00 タクシー2台でレー空港に向う 以後延々3時間余り待機 13:10 デリーからの飛行機が着陸、どうやら帰ることが出来そうだ。

14:05 レー空港 離陸 16:25 デリー空港 着陸 出迎えのタクシーでカニシカホテルへ 17:20 カニシカホテル着 夕食はコーンプレスのチャイニーズレストラン ZEN22:00 就寝

昨夜は頭痛で目覚めることもなく、ぐっすり眠れた。起床後 健康測定をする。 朝食前に、部屋でラーメンをつくり、少しずつ分けて食べる。山崎氏がラーメンを作っている間、森田氏独特のゆったりとした落語家調の語り口で「昨日、カルギルからレーに帰るタクシーの中に、俺にとっちゃあ思い出のいっぱい詰まった大事なトレッキン

グシューズを置き忘れてしまった 」そのことを自分に言聞かせるように「俺の
不注意だったんだよな 」と未練がましく延々と喋り続けている。「これで俺のイ
ンドの旅は終わりかなーと感じているよ」とポッツリ締め括る。

9時頃、独りでぶらぶら町へ散歩に出かける。何かお土産でも買おうかと入ったお店に、鞣革のチョッキが目にとまる。値段をきくと150ドルだという。この野郎なめやがってと思い「高いじゃーネーカ!もっとまけろ」と日本語でブチカマス。

ここでなめられたら日本の恥だとばかり、あとは英語と手振り、大げさなゼスチャーで値引き交渉すること10分。「40ドルじゃなけりゃ買わねー」。相手の男はいかにも情けなさそうな顔つきで、小さな声で「OK」と商談成立。

別の店でもこの手でおしまくり、20ドルのショールを8ドルに、女物ブラウスを15ドルから5ドルに値切ってきたが、よく考えると相手は「うまくいった」とほくそ笑んでいたのかもしれない。

10時にタクシーでレー空港へ。混雑していた受け付けで、4人分のボーディングカードを受け取ると、なんと1枚だけ、ビジネスクラスのゴールデンチケットがある。

おそらくオーバーブッキングの埋合わせで、おまけつきのシートに早変わりしたのだろう。デリーからレーへ来る時と逆なケースで、追加料金もないわけだから、儲かった計算となる。この棚ぼたの権利は私が利用させて戴くことと相成った。

荷物のチェックを済ませ、待合室に入るとそこは国際色豊かな人種の坩堝、ひといきれでムンムンしている。日本人らしきツアーのグループも見られる。

およそ空港の機能・設備がおそまつで、灰皿一つ置いてなく、離発着を示す電光掲示板も見当らず、何時間待たせてもアナウンス一つ無い。

喉が乾いたのでコーラを飲む。15ルピーなり。

待合室での日本人旅行者の話

「私達のグループはもう二日間もレー空港に通いつめているんですが、まだ乗れないでいます。昨日も飛行機は飛んできたのですが、着陸体制になり、下から乗客が手を振っているのがよくみえたのですが、着陸できずデリーへ戻ってしまいました。本当に頭にきました。なんでも、空港の気温が27℃以上あると、機長の判断で着陸しないんだそうです。レー空港の気圧との関係で、車輪が摩擦熱でパンクする危険性が高くなるためなんだそうです。」

へー!しらなかったな。天候が悪いというのではなくてネェー。今日も気温が高そうだけどーいったいどうなっちゃうんか心配だ。

12時30分、手荷物とボーディングカードのチェックをうけて、第二待合室へ通されるが、徹底したチェックぶりで、ポケットのライターまで取り上げられる。

1時10分、待合室の客がざわめきだし、ようやくデリーからの飛行機が無事着陸したことが確認される。

飛行機に乗り込む迄に、更に二度のボディチェック。2時05分離陸。15分もすると大ヒマラヤが眼下に広がる。カメラを出してパチパチと大氷河を撮影していると、ス

チューワデスがとんできて、「撮影はだめ 」とのこと。
4時25分無事ニューデリー空港に着陸、出迎えの車でカニシカホテルへ5時20分着、11階の二部屋が我々の部屋となる。

サンジャイ氏の紹介で夕食は“レストラン ゼン”にきめる。タクシーをつかまえ、20ルピーが相場のところを50ルピーと倍以上にふっかけられたあげく、とんでもない所で降ろされてしまった。

第13日 8/16 (金) 行程: デリー滞在 動物園・博物館見学
記録: 高 野 忠 夫 天気: 晴れ
6:30頃 起床 7:00 森田氏 マナリに向けて出発

8:309:00 朝食 昨夜の余りものを暖めて食べる。わかめの味噌汁。

9:20 体温・血圧・脈拍の測定 10:30 サンジャイ氏と打ち合せ、午後クーラー付きのタクシーを予約する。

12:0015:00 動物園・博物館見学

16:30 昼食(ラーメン・ぎょうざ) 17:30 各自 自由行動 休憩。

20:00 夕食(炒飯・スープ・ビール・コーヒー) 22:00 各部屋ごとに就寝

昨夜は快適な眠りだった。ゆっくりした気分で起床した。7時にマナリに行く森田氏を送り出し、その後、昨夜の余りものを朝食としてたべた。今日一日は三食ともチャイニーズだった。昼食も焼きそばとぎょうざ、夜はまた外に出てチャイニーズレストランで炒飯。インドではこれがいちばん我々の口にあっている。

サンジャイの店が開くのを待って、今日の観光を計画した。すでにデリー市内観光は済んでいるので、動物園見学を希望した。動物園とは、いろいろな動物が見られる処だと思ったら、間違いだった。動物の姿はちらほらで、インドでは暑い中、動物を見にきた多くの人々を見に行ったようなものだった。 ※単身 マナリへ戻った森田氏の記録

第13日 8/16 (金) 行程: デリー→マナリ→アシュラム
記録: 森 田 雅 夫 天気: 晴れ 曇り 俄雨
6:00 起床 他の3人と別れて、単身マナリ向う。 7:00 カニシカホテルを出発。タクシーが遅れ 7:20の発となる。

7:50 デリー空港(ドメスティック)着

8:00 搭乗手続きをとる。荷物4sオーバーチャージ(10sまで)追加料金300Rp 8:30 クルーへの出発が1時間遅れるとの連絡あり。

9:40 プロペラ機(18人のり)ようやく出発

11:20 チャンディーガル空港に着陸、クルが悪天候なので回復待ち。

13:00 空港にて天候についての中間報告あり。依然として回復せず。

14:30 クルへの飛行中止。

15:00 タクシーでマナリへ向う。4人家族のインド人と相乗り。

15:30 空港よりチャンディーガル市に入り、軽い昼食をとって出発。途中どしゃぶり 道路が川のようになり、濁流があふれている。交通渋滞。

20:0020:45 スンダナガルにて夕食。店で地図をみると、チャンディーガルとマナリの 中間ぐらい。今日中に到着するかどうか不安。

0:40 午前様になってやっとマナリに到着、タクシー代は大人3人で折半1200Rp支払 1:00 マナリのバスターミナルよりバシスト着(オートリキシャ)

2:00 アシュラムがわからず、バシストの木賃宿に宿泊(60Rp)

8月16日の感想 「マナリへの道は遠かった」

ドラマの 第一幕はデリーの国内空港で始まった。チェックインの際、何かごちゃごちゃ言われたがわからない。やがて荷物のオーバーチャージであることがわかった。

20sだと思っていたら、10sで4sオーバーで、4s分の 300Rpを払って解決した。8時半発であるが、出発10分前になってもゲートがわからず、もたもたしていると、女性の係員がきて、1時間遅れるとの連絡、ほんとうにいらいらした。

ジャグスンエアーラインの20人乗小型プロペラ機は9時40分に離陸した。1時間半のフライトの後、とある空港に着陸した。

ドラマの第二幕はここから始まった。私はクルに着いたのかと思った。山間の空港ときいていたが、山が無い。ここはチャンディーガルだった。

地図をみると、クルとデリーのほぼ中間点である。話によるとクルの天候が悪く、回復待ちとのこと。午後1時になって中間報告があり、まだだめとのこと、やがて2時半過ぎに航空会社より、フライトの中止が決定された。さあ、よわった。

幸いにもマナリへ行く4人家族がいて、相乗りを誘われたので同意した。タクシーをチャーターし、市内で軽食をとった後、3時過ぎにチャンディーガルをあとにした。

途中俄雨にみまわれたり、川のようになった道路を進んだり、崖崩れのため渋滞したり、ようやく午後8時スンダナガルに到着した。私はマナリに着いたのかと思ったら、ここはチャンディーガルとマナリのほぼ中間点であった。

ここで軽い夕食をとり、8時40分再び出発、タクシーは暗黒の中を突っ走った。

クルを通過した時は、うとうとして気付かなかった。車にがたがたゆられた長旅のあと、17日の午前1時にマナリのバスターミナルに到着した。へとへとだった。

バシストのアシュラムを知っているというので、オート力車に70Rpの約束で乗る。真夜中の1時半に温泉のあるバシストに着く。つづいてドラマの第三幕が始まった。さっそく運ちゃんにアシュラムへの案内を求めたが、彼等二人は知っていなかった。

二対一で少し不利ではあったが、アシュラムに着かなければ金は払わないと口論になった。真夜中の静寂の中で、口論は20分ほど続いた。さわがしさに、すぐそばの宿からオジサンが顔をだした。我々の口論の仲介にはいり、明朝アシュラムを探すことになり、50Rp支払って和解した。

その後、オジサンの後にしたがって、安宿を探した。四、五軒当たった後、2時過ぎにやっと薄汚い宿に落ち着いた。

朝7時にカニシカホテルを出発し、午後2時頃にはアシュラムに着けると思っていたが、午前2時になっても着くことが出来ないでいる自分があわれであった。インドの凄さをひしひしと実感させられた。

地球上のあらゆるもの、即ち、善悪・清濁・混沌・不潔・騒音・非能率等々、そういうものをすべて飲み込んで、数千年そして昨日も今日も、たぶん明日も、ずっと未来も何事もなかったように、滔々と流れを刻んでいるインド。こんな怪物インドにあらためて脱帽。

第14日 8/17 (土) 行程: デリー自由行動→夕刻デリー空港→成田へ
記録: 山 崎 晃 天気: 晴れ
6:00 起床 インド滞在最後の日である。 血圧・体温等の測定。

朝食といっても、まともなものはない。あまりものを適当に調理して食べる。午前中 各自自由行動とはいっても、結局はセントラルコテージで買物。

帰りがけに、通りの店のひやかしのハシゴ。いいものがあったが買わず。

12:30 昼食 カニシカホテル内のレストランでバイキング風ランチ

午後 最後の荷造りとサンジャイ氏の店で買物

17:30頃 タクシーでデリー空港に向う。 18:00 デリー空港内 大変混雑している。特に成田へのカウンター前は日本人で溢れ ていた。

以後4時間ほど、この便で帰れるかどうか不安との闘い。カウンターで粘る。21:50頃 カウンター内で係員の動き。すかさず「スリー」と声をかける。

22:00頃 我々3名、ビジネスクラスのボーディングカードを手にする。

22:20 デリー空港離陸 「やれやれ」

勿体ないようなデリーの休日を二日。インドの交通事情がもっと信頼できて、正確な

らば、ぎりぎり迄ザンスカールに止まって居たかったのだが
そして最後、「やはりインドはインドだ」と思い知らされた。

森田氏がマナリに向かい、3名が今回のザンスカール隊の最初の帰国者となった。言葉の不自由なロートル達だけの行動は不安であった。そしてそれが見事に的中したのだった。

デリーに着いてからの朝食は、トラベルクッカー(電熱器)を使って、ホテルの部屋自炊した。しかし、あらかたの食料や調味料は、レーでサンペルに持たせてしまった。 トラベルクッカーが自由に使えるようになったデリーでは、今度は食材がないというはめに陥った。ZENでの夕食の際、量を確かめず食べきれないほどオーダーし、残り物をずずしくもテイクアウトしたのがよかった。

レストランを出た時、群がる乞食をかきわけて持ち帰ったものだ。はじめはこんなに残っていてどうするの?と思ったものだったが、二日間ですっかり食べてしまった。

午前中は徒歩でセントラルコテージに行き、思い思いに土産物等を買う。帰りも通りに連なっている店を覗きながら帰る。ちょっといいものもあったのだが、大きさや重さでためらい、値切る手間や時間を考えてやめる。

午後はサンジャイの店で散財する。サンジャイ氏は6時過ぎに空港へ向えば十分余裕があると言っていた。

三人は明るいうちにカニシカホテルをでた。もう十数時間で日本に帰れると思うと気持ちに余裕があった。しかし、そのゆとりも空港までだった。

空港内には日本人が大勢おり、特に成田行きのカウンター前は日本人が溢れていた。我々は英語が駄目なので、たまたま野口さんの山岳会の方に会い、事情を聞いた。

AI308便は50人ほどオーバーブッキングであることがわかった。航空会社では食事券を出すから、食事をして9時過ぎに来るようにと言う。食事どころではない。なんとか今日の便に乗らなくてはと、カウンター前を離れなかった。

旅行社の団体は次々に入っていく。残されるのは、個人的な小グループだけである。カウンターには分厚く航空券が積まれ、空席を確かめながら搭乗券が発行されている。 誰かがグループの氏名を連記し、人数を大きく書いてカウンターにおいた。私もさっそくそれに倣い、大きく3と書いた。9時半を過ぎると殆ど動きがとまってしまった。 もう駄目かなと思っていたところ、ビジネスクラスのカウンターの奥で、責任者らしい恰幅の良い人と係員が話し合っていた。そのうち、その一人が私の待つカウンターに近付いて来たので、すかさず「スリー」と言い、挟まれていた我々の航空券を指差したところ、それを抜き取っていった「ラッキー」と心の中で叫んだ。

かくして我々は、AI308便の最後の客となり、離陸直前に機内にはいった。ビジネスクラスのシートはいろいろな意味で最高の乗り心地であった。

第15日 8/18 (日) 行程: 成田空港→各自宅
記録: 山 崎 晃 天気: 晴れ 気温: 暑い、インドと同じ
夜中に時差を調整する。

8:30 機内食

9:40 成田空港着陸

11:20 成田空港発 大宮行きスカイライナー

13:10 大宮駅西口着 ここで解散 それぞれ自宅へ

かけこみ乗車ならぬ「かけこみ搭乗」で、3人はビジネスクラスのシートに深々と身をしずめた。まさに「残り物には福がある」であった。サービスの品々をもらい、機内用のスリッパをもらい、「やはり、いろいろちがうなあー」と思いながら、眠りについた。数時間のフライトで機は日本の上空につく、外はすでに明るくなっているのだが、眠りを妨げないようにブラインドは閉めたままである。

朝食の時間が近付き、一気に朝になる。機内食が食べおわるともう成田である。着陸してはじめて「無事に着いたなあー」と旅の終わりを実感する。

成田空港から大宮へのバスの窓から、日本の風景をしみじみと眺める。見えるのは建物と車ばかりで、街を歩く人が見られない。河川敷のグランドでスポーツをしている人々くらいなものである。インドでは街頭にあふれるような人がいたのにと、あらためてその差を感じ、いろいろと考えていた。その間バスは順調に走り、2時間かからずに大宮へ到着した。ここで解散「ご苦労様でした」。