トレッキングの記録
 

第1日

 

 7/27(日)

 

記録:滝沢 健・/font>

  
行程:成田 → デリー   
 

天気:台風一過 晴れ

  

6:10 熊谷駅から電ヤに乗る。前から2両目、深    谷から乗った豊島さんと合流。

7:47 京成上野発成田空港行きに乗る。1000 円。

8:55 成田空港に到着。宅急便で送ってあった荷 物をとって、搭乗手続き。大荷物預けでは、 バルサンは危険物として取り出されて、廃 棄された。その後は、買い物などして休み。

11:00 チェクイン。出国カウンターは意外に空い ていた。インドへの土Yを買う。プレゼン ト用のウィスキー、サンペル君にスコッチ ・タバコなど。11:50 搭乗。

12:50 離陸。

14:00 機内食が出る。チキンカレーかうなぎの蒲 焼き。そのあと休み。

 

 《日本條ヤ20:00=インド條ヤ16:30に変換》

 

16:30 機内食。ハルマキにカレー味のコロッケ。17:00 かなり高度を下げ始めた。下には長い水路 と村の様qが見えた。

17:46 インディラ・ガンジー空港に着陸。外は暑 いインドの大地。

  飛行機を降りたあとは両替え。今回はドル のキャッシュは書類を書かずにすぐに両替 えが出来た。各人200~300ドルを交 換した。税関はノー・チェック。

  空港を出ると、サンジャイ宝石店の番頭が 迎えに来てくれていた。

18:35 空港からデリーに向かう。

19:15 カニシカ・ホテルに到着。サンジャイ≠フ 歓迎を受ける。店の中で冷たいビールをい ただいた。

  明日乗る国内便のチケットをもらい、東京 行きのチケットはリコンファームのため、 サンジャイ≠ノ預けた。

20:00 部屋に入った。1003号コに集まってお 茶を湧かして飲む。ウィスキーをあけて先 ずは到着お祝いで一杯。

20:30 部屋から何回もマナリの森田R荘アシュラ ムを呼び出したが、なかなか出ない。橋本先生がかけたらつながった。アシュラムに いる村越さんの話では、昨日から天気が快 復しているので、明日はクル行きの便は飛 ぶのではないか、空港まで迎えに行く、村 越さんが7撃Q5日に飛んだときには、天 候悪化でクルまで飛ばず、シムラで降りて マナリまでタクシーで行ったとのことであ った。

21:00 下のレストランに行って、簡単な夕食会。 ビール、スープ、サンドウィッチ、ピザ。 満腹となった。895Rs。

22:00 部屋に帰り、シャワーを浴びて就寝。

現在22:20、日本條ヤでは翌日午前2:00。 長い1日 であった。

 

 

第2日

 

 7/28(・

 

記録:橋本 隆志

  
行程:デリー → マナリ   
 

天気:晴れ

  

4:00過ぎ 起床。5:15 ロビーに集合。

5:30 ホテルを出発。

6:00 国内便空港到着。カウンターがなかなか見 つからず、少々迷う。ザックの目方がオー バー、料金3650Rs(10Kg迄)

7:00発のフライトが、8:30になり、9:00に延びる。 その間サンド・ウィッチの朝食が支給され た。

10:20 になっても、フライトの様qなし。今日は フライトできるかどうか全く分からない。

10:40 マナリへの電話は通じず。

10:50 今日のフライト中~。ザックを持ち、とに かくカニシカ・ホテルに戻る。

  サンジャイ≠フサジェスションにより、ゥ 動車でマナリに行くことを決定。

  カニシカ・ホテルの16階で、中華料理を ご馳走になる。

14:40 タクシー2台で、カニシカを出発。

  道路の整備が非常に良くなっていることに 驚く。また、途中水田での稲作を発見。

16:30 マニパット、ドライブインにてチャイ。

22:30 ナルダポルサ、休憩してチャイ。その後も ただひたすら走る。

 

 *「この道はいつか来た道…」とは少し違うのだが、旅の途中でふとふれた風景や光、霧、匂い、日差しやまた気温、人々の顔や雰囲気をどこかで経験をしたことがあるんだがなあと思いながら、ゥ動車の窓より外の景色を眺めていた。

 この旅にもきっと10日には終わりをむかえることが出来ることを。

 

 

第3日

 

 7/29(火)

 

記録:野本 淳

  
行程:マナリ到着、アシュラム滞在   
 

天気:曇り 栫X雨  19=i朝)

  

0:00 マナリへのタクシー内、рヘ助關ネで眠っ ている。

3:00 クル通過。

5:00 マナリ到着。村越隊長が出迎えてくれた。 5:30 バシスト村のアシュラムまで先導してくれ て、15條ヤにわたるタクシーの旅も終わ る。雨も降っていず、もう明るくなってき たので、ライトを出す手間もいらず、アシ ュラムに荷を運び込む。 7:15 朝食(チ ャパティ、パンにジャム、マーマレード、 キャベツとキューリのサラダ、野菜スープ、 またシソ+ニンニク+トウガラシ2・{醤 油で作った香辛料などでいただく)

7:40 1日遅れた日程による今後の予定を隊長よ り説明を受ける。第一日目の幕営地は36 00m位あるとか、高R病が心配だ。

8:00 前夜ほとんど睡眠していないので、午前中 仮眠をとる。

13:00 昼食

15:40 マナリs内見物に出かける。橋本、栗原、 野本淳は残った。

18:00 見物より戻った人たち、購入品を見せびら かせらる。

19:30 今日までの清算(食磨Aタクシー代他)を する。1人あたり300Rs。

20:00 夕食。ヤキソバ、チャーハン、サラダ、ト マトスープ他。

20:30 神奈川県労Rのザンスカール先発隊女性4 人の希望で、滝沢先生の「仏教・密教とチ ベット」の概説を1條ヤにわたり拝聴、ソ 疑応答も行う。

23:00 就寝。

 

*うわさには聞いていたが、まさか私たちもデリー~マナリ間の車による走破を経験させられるとは思わなかった。

 橋本先生の話では、道路も大変きれいに整備されて、以前より格段に良くなっているとはいえ、やはり大変なハプニングであった。1昨年のハムタパス越えをしたヤング隊24條ヤのバスの旅に比べて、タクシーの15條ヤはずっと楽に違いないはずだが、рノは相当の体力消耗であった。仮眠をぐっすり3條ヤほどとってようやく体調が正常に戻ってきたように思う。

 隊長に聞いたところ、天候は昨日と変わらないという。したがって今日もフライトは駄目だったと思われる。結果的にサンジャイ≠ェ勧めてくれた昨日の午後からの車での移動は良い判断であった。

 

 

第4日

 

 7/30(水)

 

記録:野本 良子

  
行程:マナリ→ロータンパス→ラダルプー   
 

天気:曇りのち 晴れ

  

6:30 起床、お茶。

7:30 朝食(パン、コーン入りスープ、トマト・ キューリ・㏍^マネギの野菜サラダ、レタ ス…酢味、ゆで卵)

9:00 アシュラム出発。途中で羊の肉を買う。

10:00 マリーで休憩。チャイ、アルプランツァ (ALE PRANTHA チャパティを油揚げしたも の 6Rs)、卵焼き。大変おいしい。

12:10 ロータンパス通過。

14:40 チャトル着、3400m。チャイ、ビスケ ット、クッキー。とても美味。

15:34 チャトルを出発。

16:00 キャンプ地・ラダルプー到着。ドライバー たちはテントを張り、キッチンボーイは食 魔逞碌瓧

18:00-19:10 テントの中で談笑。ヨガをやったり、 いろいろの話題で楽しく過ごした。

19:30- 夕食。マトンカレー、トマトスープ、マト ンカレーいため、ヤキソバ、野菜サラダ、 インディカ米。マトンカレーいためは大根 と葉のいためもの。大変ご馳走があり、味 付けも日本人向きでとても美味しかった。

20:30 お茶

22:00 就寝。

 いよいよ今日からジープトレッキングとキャンプ生活が始まった。9桙ノアシュラムを4台のジープで出発。前回に比し、しっかりした車で、乗り心地は上々。

 一昨年この旅行に参加し、通った道を再び登ってゆく。日本では想像できないくらいの高地の道、狭い道。しかも度々超大型ダンプカーに出くわすと、すれ違い出来るのかと、ひやりとさせられる。下を見ると断崖絶壁、汨謔ノガスが濃くなってきて、下界の視界不能。

 途中、マリーとチャトルで休憩をとる。マリーまで来ると下の視界は雄大である。

 道路の崩壊で30分~50分位止められる。16桙ノは無事目的地に到着できた。ほっとする。天気良好でうれしい。

 到着後すぐにスタッフ各係の仕魔ェ始まる。ドライバーはテント張り、4名のキッチンボーイは夕食の準備をてきぱきとやる。рスちは荷物の整理と休息休憩、楽しいひとときであった。

 夕闇が迫る頃、夕食となる。ご馳走の多いこと、またとても私たちの口に合うように味付け献立して作って下さったこと。キッチンボーイに感謝。

 рノとってテント生活は初めての体験であったためか、興奮と不安で眠れぬ夜であった。

 当地は3600mにあり、そのまわりを更に4~5000mと思われる雄大な山々がそびえ立ち、敬虔な気揩ソにさせてくれる。

 空には満天の星空。とてもロマンチックな気揩ソにさせてくれる。素晴らしい夢を見ながら、明日の天気と無事を祈りつつ‥‥‥‥。

 

 

第5日

 

 7/31(木)

 

記録:村越 昇

  
行程:グランプー→クンザン=ラ

→カジャ→シチリン

 

 

 
 

天気:曇り  5:00 12・/font>

  

5:00 起床、隊長テントで緑茶。じきにキッチン からベット・ティが来る。

  晴れている。誰か起きるのを待っていたよ うに、みんな起きてくる。晴々した顔で。 野本良子さん、初めてのテントで全然眠れ なかったというが、顔は晴れやか。高度障 害の影響はほとんどない。全員…ラッキー。

6:00 コーヒーを煎れる。深谷・イトーヨーカ堂 のFazendaの最高級品、ブルーマウンテイ ン。美味しい。

7:00 朝食。パン、チャパティ、サフランライス、 スープ、サラダ…結構食べられる。

  朝食の時から雲が広がってきて、Rが見え なくなった。不安。今日は晴れて欲しい。

9:35 ラダルプーを元気に出発。…曇ってしまう。

  ひどい道だ。バラシグリ氷河の出口を通り、 バタルに向かうが、R々は見えない、c念。

 

10:20-10:50 バタル。曇り、ときどき冷雨。寒い。 Rは見えない。チャイとビスケット。

  登り道でバタル氷河の下3分の2が見える。 迫力はある。

11:15-11:40 クンザン=ラ(峠)4385m。

  高曇り、バタル氷河の上部見えず。3年前 と様qが違うと思ったら、新しいチョルテ ンが出来上がっていた。新しいゴンパの隣 に、l角い白い建物が見える。チョルテン のように上に円形の塔飾りがない。リグジ ンの説明だと、これはクンザン・ラモとい い、女性のものだという。前回のような感 動はないが、この拡がり、ラダック方面の R並み‥‥‥‥ずーんとくるものがある。

12:00 スピティから戻り、チャンドラタールに向 かう森田千里さん一行と逢う。10分ほど 情報交換。全員で写真を撮って別れた。

13:20-14:50 ロサール、4020m。昼食。弁当 のサンドウィッチ、ポテト、リンゴ。ここ の茶屋はプロパンを使っている。橋本先生 不調。

  ここはスピティ川最上流の村。上に向かっ て右側に大きな河原があり、段丘に緑鮮や かな大麦畑。トラクターが引くリヤカーに はプロパンガスのボンベを満載してガス屋 が一軒一軒配っている。

  我々が食魔竡気織船礇げ阿裡毅娃蹐曚評・ に、ちょいときれいなホテルを兼ねた家が あり、その前がバス停になっている。マナ リ方面から来て、スピティに向かう定期バ スが停まっており、乗客が店の前にくつろ いでいる。

  圧倒されょ・曲の壁や、粘土ソのような浸 食のすすんだ黄色い壁に挟まれたスピティ 河を眺めながら下る。‥‥‥‥所々の段丘 は草原が多いが、5km間隔くらいに数戸 から数十戸の白壁の家からなる集翌ェあり、 緑の大麦畑の広さは集翌フ戸数に比例する。

  建築中の家を見ると、日乾しレンガのもの が所々に見られる。

  地形のスケールが非常に大きい。‥‥‥‥ 谷の幅はすぐそこのようだが、ちょっと観 @すると狭いところでも1km、広いとこ ろでは4km位ありそうだ。したがって谷 に迫る崖は標高差1000mはざらにある。

16:25-16:45 ラングリック。高度障害とほこりと 疲労のドライブとなった仲間も多い。麦畑 の美しい村の対岸の茶色の山肌にキー・ゴ ンパが美しい。3700m。

18:05 シチリン到着。

  滝沢不調、蛯ニして頭痛。野本良子、頭痛。 食欲もなく、おかゆを作る。他のメンバー は疲れているが元気。

  キャンプ地は、カジャより更に下り、ピン 谷へ渡る立派な橋をすぎ、10分ほど下る とシチリン村。キャンプ場があり、ヨーロ ッパ人も多い。更に200m程下にキャン プ場を見つけて翌ソつく。3400m。

  ほぼ北にダンカル・ゴンパが望め、南西に は氷河をかぶった山々が遠望でき、南と西 は浸食谷の壁だ。‥‥‥‥河原の草原には、 いばらの潅木が生え、近くの住民が薪用に 切りに来る。100m先では緩やかになっ たスピティ川の流れが生コン色をしてゆっ たり流れている。

21:40 食後の団欒を終えて、テントへ。

 

 

 

第6日

 

 8/ 1(金)

 

記録:栗原 幸q

  
行程:シチリン滞在 タンギュ・ゴンパ見学   
 

天気:曇り時々晴   6:20 13.5度

  

6:00 起床。チャイ、コーヒーをおとして飲む。

7:15 朝食。野菜カレー、オムレツ、ポテトフラ イ、ボイルドポテト、大根・タマネギのサ ラダ、リンゴ、コーヒー、ティー。

8:55 出発。ピン川の橋を渡る。

10:00 ヤを止めてアンモナイトを見る。幾つか石 を拾った。

11:30 タンギュ・ゴンパ到着。見学。

12:45 出発。

12:54 ゴンパ下の茶屋(グリング)で休憩。チャ イと持ってきたバナナ、マンゴー、ポテト、 ビスケット。

13:25 出発。

14:40 テント場到着。少し雨が降っている。すぐ にランチ。スープ、ポテトカレー、マカロ ニカレー、ソーセージ、野菜いため、サラ ダ、モモ、モモの揚げたもの、デザート、 チャイ。

15:15 お湯をもらい、コーヒー、お茶。その後フ リー・タイム。

18:30 隊長、橋本、野本、田部井、栗原でシチリ ンの村まで散歩。

19:20 U歩から帰る。

20:20 夕食。

21:10 各テントへ、お休みなさい。

 

 昨日から少し体調の悪い人も、今朝は大変良くなったようだ。今日の予定は軽いハイキングとのこと。のんびり出来そうだ。のんびり朝食をとり、テントに大きいザックを残し、サブザックを持って出発する。

 10:00頃、ヤは止まり、河原におりてみる。大きな岩全体にアンモナイトがいっぱいうまっているので、とても取れない。ハンマーでたたいてみたが、駄目。しばらく岩の上で遊ぶ。対岸の家々のまわりには緑がいっぱい。雨量の少ないところでの緑は、霧がまいているために緑になるのだろうと、隊長の言葉。

 道路の車に戻ったら、リグジンさんがマンゴー・ジュースを出してくれた。のどが渇いていたので美味しかった。

 タンギュ・ゴンパを見学。ゴンパへの寄進は200Rs、隊長が署名をした。宸フ裏に建設中の建物に使うらしい。このゴンパにはチョモラマ(女性)100人、メンラマ(男性)200人で生活しているようだ。すこし上に歩いて3700mくらいでピン河にパラヒヨ川が合流しているあたりを見ると、大麦が風に吹かれて穂がとてもきれいだった。エンドウもたくさんなっていて、日本のものとは大変違っていた。木が小さくて細いのに実が沢山なっていた。

 花の写真を撮り、ゴンパの方に降りてゆくと、日本人の尼にあった。もう1カ撃アこに生活していて、あと1カ撃「たらネパールに帰るという。

 グリング村の茶屋で休憩をとった。ここではタマネギ、トマト、ニンニク、トウガラシ、洋なし、タマゴなどをざるに入れて売っていた。

 テント場に着き、ランチ。もう夕食と同じような食魔セった。その後はコーヒーとお茶。皆さん、話しながら地図を見たり楽しく話した。

 夕食が食べられないから少し散歩しようと出かけた。しかしやはり食べられなかった。食後はいつものようにおしゃべりして、早めにテントに入った。おやすみなさい。

 

 

第7日

 

 8/ 2(土)

 

記録:滝沢 健・/font>

  
行程:シチリン→ダンカル・ゴンパ→

  キバル村→キー・ゴンパ→ラングリック

 

 

 
 

天気:小雨      6:20 16・/font>

  

5:30 隊長より、お茶が入るぞーの呼び声あり。 少し休んでいるうちに、リグジン親父が隊 長のテントに入り、お話を始めた。

6:00 隊長テントに入り、その話に加わった。リ グジンの話は、スピティのトレッキングは 本来スピティのタクシーを使わなければな らないこと、18歳の時にマナリに出てき て、道路工魔竡気燭・能蕕錬影鱒Tパイ・七 であったこと、近い将来ラダックにオフィ スを構えて森田の山荘をレーにも造ろうと していることなど。例の「リグジン英語」 は極めて聞きずらいが、中身は興味深い。

7:10 朝食。チャパティ、揚げパン、目玉焼き、 羊肉の油揚げ、ソフトチーズとバター、ジ ャム、コーヒーなど。パルスのチェックも 全員がOK。8:30まで談笑。その後片づけ。

9:00 出発

9:10 ダンカル・ゴンパ到着。坂道を登りつめ て、村の手前で車を止めて、あとは大きく 回り込んで歩く。宸フ下の村から子供たち が沢山出てきて、Rの向こう側からは山羊 の群がおりてくる。 僧に案内されて中を 見学した。宸ヘ山の上の岩の上に、土の壁 のお堂が連なっている。その昔はスピティ 王国の王宮のあったところで、建て増しに 建て増しした建物で、中に暗い通路、暗い 仏間がある。案内の僧は少しいやな顔をし たが、屋上にも上らせてもらった。

  宸・て、村の中を通って下の新しいお堂 の前で休憩。

11:40 ヤにもどって帰り。

12:00 もとの道に出て、スピティ川をさかのぼる。 道路の左側は川の水で絶壁、右側は粘土層 の浸食の壁。

13:00 カジャの茶屋で休み。この茶屋はパン屋も 兼ねていて、いい香りがする。隣の穴蔵の ような部屋をのぞくと、2人の青年が半分 裸で、古いかまどでパンを焼いていた。小 さい丸いパンとクッキーとチャイ。ここも トイレはなかった。

13:20 茶屋を出発。

14:00 キー・ゴンパの下を通過して、右にそれて 上流のキバル村に向かう。約3700m。 途中、ものすごく深い谷を見た。

14:30 キバル村に到着。ユウラシアで最も高い村 との由。4200m。

  ヤを止めて、村の中を見学する。村の入り 口には小学校と中学校がある。中学校には 100人の生徒、村の人口は500人、谷 の向こう側には立派な診療所が見える。僧 院が2つ、ゴンパが1つ、僧はキー・ゴン パから派遣されているという。

  村の写真を撮り、ヤに戻る途中、村の「ホ テル」でチャイを飲む。名づけて「ホテル ・レインボー」。我々が入り込んだので、 トランプで遊んでいた村の青年たちは追い 出された。

16:30 村を出た。途中、深い谷にロープでゴンド ラがかけてあった。降りて写真を撮る。

16:00 キー・ゴンパ到着。高い岩山の頂上にゴン パは建っているが、ヤは入り口まで登った。 ゴンパの僧坊はその下に幾層にも連なって いる。

  ゴンパの仏間を見せてもらった。おまいり は靴を脱いで裸足になる。その後厨房でチ ャイを煎れてもらって、找したクッキー とリンゴを食べておやつ。qどものラマ2 人と青年のラマ1人が、チャイを煎れてく れた。

17:00 キー・ゴンパを出て、帰り。完全に雨にな っていた。途中、キバルから歩いて帰るド イツ人のカップルを乗せた。1カ撃フ予定 で旅行中で、カジャに滞在中とのこと。

17:30 テントサイトに到着。新しいテント場は、 カジャの上流、スピティ川の河原の中。テ ントはすでに張ってあって、雨の中をテン トに逃げ込んだ。近くにはヨーロッパ人の グループもバスを乗り入れて、キャンプし ている。

  早速食堂テントに集まって、石油コンロを つけて、お茶を入れて、鰯の干物を焼き、 のりを食べて談笑の時間。

  夕食には栗原さんがトマト、大根に醤油を かけた日本風サラダを作ってくれた。美味 しかった。

またサンマの蒲焼きの缶詰をあけて、元 気が出た。

 食魔フ後は、例によってお話会。橋本先生 のタイ、ヨーロッパ旅行のお話などを聴い て、夜が更けた。まだ雨が降っている。

21:45 テントに引き上げた。明日の天気と道路が 少し心配だ。

 

第8日

 

 8/ 3(日)

 

記録:田部井章子

  
行程:ラングリー→ロサール→

   クンザン=ラ→バタル

 

 

 
 

天気:雨のち晴れ、クンザン=ラから雨

  

5:15 オーイ‥‥‥‥隊長のモーニングコール。  晴れ間が見えたので、起きて写真を撮る。 西の空に虹も出た。

  温かいテントに集まり、緑茶とアサリの缶 詰をいただく。男の料理で、乾燥ネギとア サリの缶詰とお湯だけ。風味満点でした。

7:30 朝食。スープ、パン、ポテト、サラダ、ハ ム、目玉焼き、魚のオイルづけ、チャパテ ィ。

8:00 パルス・オキシメーター測定。少々疲れ気 味だが、みんな元気と診断。

  以後はティー・タイム。レンズの掃除その 他。

8:30 ランチ・ルーム解散。

9:00 リグジンさんが偵察してきた結果を報告。 道路決壊のため、ランツァへ行くのは中~。 すぐにマナリに帰るために早速出発するこ とにした。出発まで各ゥゥ由行動。のんび り日光浴。

12:00 出発。くじ引きで乗車する車を決定。

14:50 ロサールにて昼食。揩チてきたポテト、チ ャパティ、パン、バナナと茶屋のチャイ。 隊長より紅茶の煎れかたの講義あり。

15:10 ロサール出発。

16:30 クンザン=ラの峠。冷たいみぞれと強風。

16:50 下りにかかったが途中、道路の土砂崩れの ため、除牛・ニ始まる。何回か、除牛・ニ を繰り返す。

18:45 バタルの茶屋に到着。茶屋の中で温かいチ ャイを飲んでほっとした。この間スタッフ はテント設営。

19:05 ヤで迎えに来てもらって、テント場到着。 各ゥのテントに荷物を運び込む。

19:30 ランチルームに集合して、ティタイム。

21:30 夕食。チャパティ、マカロニ、ラム、じゃ がいもの煮物、サラダ、野骨゙uめ。

22:15 就寝、おやすみなさい。

 

 それは朝のドラマから始まる。

 雨音の激しさで目が覚める。今日もはかない無情の雨が降り続いている。そんな思いで起きあがると‥‥‥‥野本先生の「晴れてきた」との一声。心躍る思いで、勘違いでないことを願ってテントから出る‥‥‥‥。

 このそぼ降るくらい雨の中で、かすかに聞こえるリグジンさんの軽やかでリズムカルな歌声ともかけ声とも知れぬ響きが、はるか遠くから聞こえてくる。この冷えた気揩ソを心からなごませてくれる。

 そして奇跡は起きた。まるで夢のような光景。くっきりとした虹が出ているではないか。それも二重である。なんと! なんと! これはきっと始めから旅の筋書きは決まっていたのではないか。それとも神様が恵んでくれた一瞬の贈り物なのか。

 

 

第9日

 

 8/ 4(・

 

記録:豊島千恵q

  
行程:バタル滞在 のんびり休日   
 

天気:晴れ 5:30 4.5・/font>

  

5:30 滝沢テントでお茶わかしが始まる。

6:00 Rの稜線が光っている久々の晴に、チャイ を飲みながら写真B影。

8:00 リグジンさん達が道路の偵察に出かける。 8:15 朝食(スープ、マッシュポテト、大根・ニ ンジンサラダ、ツナフレークフライ、いり 卵、チャパティ)

  その後、ハ真、スケッチ、昼寝など何もな い晴天を楽しむ。

10:50 リグジンさん達が偵察から帰る。それによ れば、チョトダラの2km闡Oで道路が崩 壊している、マナリからのバス2台、ジー プ1台が止まっている、チョトダラの向こ う側は不明、わがチャンドラタール隊のジ ープは来ていない…。

11:15 外に出したシートに車座になり、緑茶。栗 原・野本良子さんがお餅を焼いてくれる。 みんなでリンゴをむいて、ジャムを作る。

12:30 ついに「沢の鶴」が出る。みんなでおそる おそる回し飲み。

12:40 田部井さん、北面のモレーンめざし出発。 双眼鏡でもなかなか追えないほど距離があ る。ヒマラヤの地形の大きさにびっくりし た。隊長、迎えに出る。

  オカリナの音色が聞こえる、のどかな午後。

14:10 田部井・隊長の2人が戻る。

  ランチはキャンセルした。コーヒーをいれ て少しづつ飲む。

15:00頃 風が少し出てきた。みなさん、昼寝。

19:15 夕食(ご飯、お昼のモモを揚げた物、クリ ームスープ、じゃがいも・グリーンピース のクリームマ、ニンジンサラダ、スイート ポテト、真っ赤なゼリー。クリームマはと てもスパイシー。

  みんなで作ったリンゴマはとても美味。

  リグジンさんに明日の予定をきく。「8・ に朝食、とにかく出発し、崩壊現場まで行 く。そこからスリーピン・バックを持って チャトルまで歩く」と。「何とか6日まで に帰れればよい。」と隊長。‥‥‥‥これ がヒマラヤ。

21:30 おやすみなさい。

 

 テントから出ると、昨夜のクンザン=ラの雪景色がウソのような青空。久々に見る純白の山に感動。稜線の光を追って写真に夢中になる。

 昨夜は気付かなかったが、テント場のまわりには羊狽フカルカが幾つかある。81年のバララチャラ・トレッキングの初日のテント場と同じだろうか。少し上だったような気がする。その時「高度順化」にといわれて登ったモレーンがすぐそこに見える。トラックでいきなり着いた4000mで、フラフラしながら登ったことを思い出す。今日は眺めているだけでよいことがうれしい!

 結局、チョトダラの手前で道路が決壊。今日1日停滞が決まる。絶好の天気となにもしなくていい日、マナリに帰れないのは残念だが、これはこれで楽しい。

 栗原さんの発案でお餅を食べることになった。キッチンテントのフライパンで焼き、大根おろしと海苔で食べた。vいの外柔らかく、とても美味。お昼の代わりになる。

 デザートの酸っぱいリンゴも煮ることになる。男性たちは慣れた手つきでたくさん皮むきをしてくれた。野本良先生の言われるとおりに、找の石油コンロでコトコトマる。柔らかくなったところへライムをかける‥‥‥‥いい匂い。

 夕食にいただく。甘みと酸味、大変美味。

 夕食の時、リグジン≠謔・/font>

 とにかく明日出発、崩壊現場まで行く。2ー3條ヤで開通すれば待つが、駄目ならチャトルまで歩く。

 隊長から、「ロータンパス下のグランプーまで歩くことになるかも知れない、チャトルから登り17km。チャトルまでの歩きは大したことはなく、少しは歩いた方がよい。」

 これがインド、6日までに帰れればいいや、みんな元気。

 

 

第10日

 

 8/ 5(火)

 

記録:橋本隆志

  
行程:バタル→チョトダラ→チャトル   
 

天気:快晴 曇り 雨

  

5:20 起床。テントの周囲、馬が数頭草を食べて いる。

6:00 苓似C鮖矯・B貘凜謄鵐箸妊癲璽縫鵐亜Εニ ィ。

バタルの小屋には自動車の影なし。16k m先で、前後の車がストップ、更にその先 にも崩壊があるらしい。隊長より、今日は ともかく出発、ゥ動車不通の場合は徒歩で 強行すること。

8:10 朝食。チャパティ、目玉焼き、野菜、スー プ。みなさん食欲良好。全員の酸素濃度は 80以上。

9:00 峠の方向からバス2台、トラック3台到着。 9:40 乗車のくじ。橋本・豊島・野本、田部井 ・栗原・野本良子、リグジン=E隊長・滝 沢の車割り。

9:55 記念ハ真。

10:30 隊長のレッツ・ゴーで出発。

10:30 とんがり山と氷河を見る。

10:45 ハ真B影。

11:10 シャベル・ローダーが道路修理中。ゥ動 ヤはストップ。かれこれ30分ストップ。 好天気に恵まれ、さわやかな風に吹かれ、 のどかな気分で過ごす。

12:50 チャトルをめざして歩き始める。約5條ヤ の予定。ジープと運転閧ヘ置き汲閧ノして、 キッチンのスタッフが我々の大ザックとテ ントを背負った。

13:30 チョトダラで休憩。

14:15 休憩。

15:10 昼食。じゃがいも、パン、ビスケット、マ ンゴージュース。スタッフ4人で8人分の リュックを担いでくれる。1人約20kg は越えていると思われる。

15:40 同所出発。途中、リグジン≠ノグンダール プグーの避難洞窟を見せてもらう。雨が降 りだした。

16:30 休憩。あと7km.

17:15 チャトルの丘の見える丘に到着、あと4k m。

17:25 休憩。

18:30 チャトル到着。茶屋前のイスで休憩。トラ ック2台、ジープ1台が止まっている。明 日も多分徒歩。数年前のT先生のムーン・ フェイスを思い出す。

21:10 茶屋(ホテル)で夕食。スープ、じゃがい も、ゆで卵、ご飯、マトン、まめカレー、 ベジタブルカレー、コーヒー、レモンティ。

21:50 食魔・わり、テントにはいる。

 

 今日はかなり(17km)の徒歩で、みなさんお疲れの様q。明日が不安である。頑張りましょう。

 おやすみなさい。

 

 

第11日

 

 8/ 6(水)

 

記録:野本 淳

  
行程:チャトル→グランプー→マナリ   
 

天気:晴   朝 9・/font>

  

4:00 リグジンさん、グランプーから迎えのタク シーを確保するために1人で出発。有り難 い。

6:00 起床。昨日の疲れと就寝が遅かったため遅 くなった。

6:30 チャイがテントに届く。

7:15 テント撤甫B

7:20 パルス・オキシメーター測定。高R病の危 険は汲驕B

7:30 チャトルの茶屋の店内で朝食。オムレツ= ホットケーキ風。

  店内では小麦粉、玉葱、塩などテントの天 井からつるした天秤(分銅は石3個、何グ ラムかは不明)で計って売っている。ヤカ ンのふたが全て容器の外側になっているの を発見。

8:07 日焼けクリームをみんなで顔・≫歯d匹襦」

8:13 田部井さんと栗原さん、岩塩を購入。1k gで5Rs。

8:15 出発。今日は登りで17kmの予定、気分 が重い。

8:30 рセけサブザックを背負ってもらう。ずっ と楽になるも、足のまめが痛い。

9:00 第1回休み。2.5km地点、近道して急 登2回。

9:45 第2回休み。この頃から橋本先生、栗原さ ん、野本良子もザックを背負ってもらい、 р煖C分が楽になる。

10:35 第3回休み。おやつに持Qのカロリーメイ トと乾パンを食べる。道路の崩壊箇所多し。

11:40 第4回休み

12:30 第5回休み。cり5km地点で昼食の予定 の所へ、スズキのマルチのバンに乗ったリ グジンさんが迎えに現れ、拍閧ナ向かえら れる。

  そしてすぐに栗原さんと野本夫婦、橋本先 生の4人でグランプーに向かう。乗車時間 は15分間だが、最後の2km程は急登で あり、地獄に仏とはこのこと。本当に助か った。グランプーで飲んだコーラのうまか ったこと。

  cりの人は、道路に座り込んで、昼食。ス タッフが持Qのチャパティ、ふかしたじゃ がいも、ビスケット。

  ヤはピストン輸送で残りの4人とリグジン さんを迎えに出発し、13:20 みんなそろっ た。スタッフの3人は徒歩で遅れて到着、 これも感謝の他なし。

13:40 同じ車で先発隊(村越隊長、橋本、滝沢先 生)が、アシュラムまでの道路の状態を調 べに向う。近辺の道路状況が心配なため。

  リグジンさんの予約してくれたタクシー2 台がマナリから来る予定とか、安心感から 皆、明るく写真を撮りまくる。

14:55 後発の1台到着。運転閧ヘ食磨B

15:35 栗原さん、野本夫婦、コックとスタッフ1 名同乗して出発。

17:45 マリー到着、休憩。

17:45 バシスト着。ベアス川の洪水で、左岸の道 路が崩壊、往きとあまりの変化にただ驚く ばかり。道路流失で運転閧スち5人が死ん だそうだ。

18:35 アシュラムへ到着。途中道路が欠翌オてい るため、R側をまいて通るも、地盤がまだ 固まっていないため、リンゴの木がずるず ると滑り出すなど危険な状況の中、恐くて 足の痛みを忘れるほどだった。

  1週間ぶりにシャワーを浴びてさっぱり。

21:30 後発2台目は我々の車が折り返したそうで、 まだ到着せず、夕食を6人ですます。申し 訳ない気分でいっぱい。

  夕食はギョウザ、サラダ、漬け物2・Aそ れにやわらかい日本風ご飯、みそ汁。

  会計のため1人600ドル集金。

22:32 後発2台目で豊島さん、田部井さん、リグ ジンさん、無事到着、ほっとする。

  豊島・田部井さん、シャワーを浴びた後夕 食の大宴会をやった。

 

 今日は人(特にリグジンさん)の情けを強烈に感じた1日であった。森田先生のヒマラヤのトレッキングを大切にして欲しいとの言葉も印象に残った。

 

 

第12日

 

 8/ 7(木)

 

記録:野本 良子

  
行程:マナリ→クル→デリー   
 

天気:晴

  

5:30 神奈川県労Rの女性4人はレーに出発。

6:30 起床。

6:40 チャイとコーヒー。

7:50 朝食。パン、卵焼き、酢みそあえ(キュー リ、レタス、ワカメ)、卵スープ(トマト、 卵)、レタス、關サの納豆(レタスに納豆、 千切りニラをのせ包んで食す。とても美 味)、關サ漬け物。

  ミーティング、出発時間について。

9:00 アシュラム出発。途中道路決壊の場所でし ばらく待つ。

9:40 ジープに乗りクルをめざす。

11:30 クルのエアー・ポート着。チケットは3枚 しか確保できず、橋本先生・野本夫婦が先 発。他の人たちは長時間待つ結果になって しまった。

12:40 先発隊の3人搭乗。ジャグソン・エアーラ インの18人乗りの飛行機。

12:53 離陸。

13:10 機内食。トースト、パイ、サンド・パン (キューリ・トマト)、カリフラワーの揚 げ物、コーラ。

14:12 デリー到着。サンジャイさんが差し向けて くれたであろう車を探したが見つからず、 タクシーでカニシカ・ホテルまで行く。2 00Rs。

15:15 カニシカ到着。サンジャイ≠ノ挨拶。後発 の飛行機の到着予定を聞く。19:30頃との こと。

16:00 町に買い物に行く。

18:30 カニシカへ戻る。

19:25 後発隊、カニシカへ到着。

20:30 レストラン「エンバシー」で食磨Bサンジ ャイ≠フ招待、お父上が自ら案内してくれ た。ビールで乾杯。オードブル、スープ、 タンドリーチキン、カレー(ほうれん草・ マトン・フィッシュ・ベジタブル)、チャ パティ、ナン、デザート(アイスクリーム ・ラッシー・フルーツパフェ・ミネラルウ ォーター 各ゥ好みの物)。

22:45 カニシカ・ホテルに戻る。入浴後就寝。

 

 昨夜は1週間ぶりにベットで睡眠をとることができ、天国で夢を見ているようだった。また森田先生の心尽くしのお料理は格別、全員感謝感激。 森田先生より1人ひとりにクル帽をお土Yにいただく。橋本先生、とてもお似合い。

 朝のミーティングの内容

 ・出発時間 9:00 飛行機が1條ヤ遅れとのこと

       13:30 デリー到着の予定

 ・会計のこと

  トレッキング1日65ドル(普通は80ド ル)

7/30-8/6 の8日間 520ドル

   リグジン≠ヨ 100ドル

   ドライバー  20×4名 80ドル

   キッチンボーイ 10×4名 40ドル

  アシュラム宿泊 416ドル

その他 アシュラムのキッチンボーイ 2人

  1人600ドル集金

 ・お土Yについて

 クルからの飛行機のチケットは全員分が確保できず、先発・後発に別れてしまったことは大変残念。これは、我々が山から帰るのが遅れたため、6日にサンペルが航空券をキャンセルしてしまい、我々がアシュラムに帰った段階でまた復活させたため。年配メがいつも優先させていただき、とても心苦しい。

 出発時間は遅れたが、今日は好天に恵まれ、下界の様qがとても美しく眺められた。後発の人たちも19:30にはカニシカに到着でき、安心。クル--デリー間の飛行機が何日も飛ばないことがあるが、今回はほんとに恵まれていると思う。

 夕食はサンジャイさんの招待で、レストラン「エンバシー」でインド料理を楽しむ。味付けが私どもに合っていて、十分いただくことができ、幸福感を味わう。

 デリーは暑い。R間地と違って喧騒の中にあっても何故かほっとした気揩ソにさせられる。何故だろう。間もなく帰国できる、そうした心理状態からであろうか。

 

 

第13日

 

 8/ 8(金)

 

記録:村越 昇

  
行程:デリー滞在   
 

天気:晴

  

7:00頃 715コでお茶を飲みながら歓談。

9:30 1階のコーヒーショップで朝食。

11:00 街に出てショッピング。戻ってはまたお出 かけ。

13:00 担当メはサンジャイ≠ニ打ち合わせ。会計 のことなど。

17:00 ショッピングは終わり、715コに集まり 成果を披露しあう。

19:00 ジャンパース・ホテルの中華レストランで 「下山祝い」の夕食会。

22:00 カニシカに帰る。

 

*デリーの休日を楽しむ。

 昨日午後から今日にかけて、ハリドワールのバスツァーがサンジャイ≠フアレンジで組まれていたが、8/6のうちに、アシュラムから電話で疲労を理由にお断りした。その代わりというか、サンジャイ≠ェ今日マトゥーラの日帰りバスツァーを提案してくれたが、それもお断りし、デリーの休日をきめ込んだ。

*全員街に繰り出し、ショッピングを中心に休日を楽しむ。

*その合間には、715コでお茶、お酒を飲みながら歓談‥‥‥‥。

*夕食はジャンパースの中華レストランで下山祝い。ハプニングもあったが、当初の目的を達し、1人の発熱、1人の下痢もなく全員健康であったことを祝い、デリー(インド)最後の夜を楽しむ。

 

 

第14日

 

 8/ 9(土)

 

記録:滝沢健・/font>

  
行程:デリー滞在 デリー → 成田   
 

天気:晴

  

6:00 福田君、タクシーでデリー・カニシカ・ホ テルに到着。ホテルのロビーから我々に電 話をかけてきた。福田君は712号コにチェ ック・イン。

6:20 福田君、部屋に来た。我々はみんなで大歓 迎。話を聞けば、昨日の午後マナリを出て きたとのこと、ほっとした様qで、うれし そうであった。

  お酒で乾杯、お茶やお菓子で談笑。

  そのうち全員が顔をそろえて、楽しくお話 をした。福田君たちのグループ、チャンド ラタール隊は、道路が崩壊したためアシュ ラムから歩き始めて楽しくトレッキングを して来たとのこと。

9:00 1階のレストランで朝食。

10:30 福田君と他のメンバーは、ショッピングに お出かけ。cりのお土Yを買うことに精を 出した。

12:00 部屋に戻り、12:30からカニシカ・ホテル 16階の中華料理「マンダリン」で昼食会。 サンジャイ≠ニ息子さんのシュレイ・シィ ングヴィー君も同席。

14:00 部屋に帰って、休憩。この後、会計の処理。 集金と支払い。1條ヤで終了。

15:10 それぞれ部屋に帰って、シャワーを浴びて 休憩。村越部屋では、橋本・村越・福田・ 滝沢の4人で休憩。

16:30 全員の荷物を廊下に出し、濶ラ物を持って 1階に降りる。サンジャイ≠竄ィ店のみな さんににお別れの挨拶をする。今回も大変 お世話になった。福田君は明日の飛行機で 帰国予定のため、もう1日デリーに泊まる。

16:45 ホテルを出て、タクシー2台で空港に向か う。1人は、はるばるマナリまで送ってく れタクシーの運ちゃんだった。マナリは楽 しかったかい、と言っていた。彼は寝ずに デリーにとんぼ帰りしたそうだ。

17:30 空港に到着、出国の手続き。

18:00 チェック・イン終了。ベンチで最後の会計 の処理。タクシーの支払い、サンジャイ・へのお礼など。

19:15 セキュリティ・チェックを通過。ベンチで 打ち合わせ。汢≫事」漾璽謄・鵐亜∧鷙霆ク の発行についてなど。

19:50 AI308便に搭乗。

20:50 離陸。インドよ、さようなら。

22:00 機内食。

 

 

第15日

 

 8/10(日)

 

記録:滝沢健・/font>

  
行程:→→ 成田   
 

天気:晴

  

《インド條ヤ2:00 → 日本條ヤ5:30に切り替え》

 

6:00 機内食が出て、起こされた。まだ眠い。

8:15 成田空港に無事着陸、入国審査。

9:00 大荷物を宅急便に預けたあと、出国ロビー の上の寿司屋さんに行って、帰国のお祝い。 熱燗の日本竡・淆]紫イ砲靴濺呂辰拭」

10:00 ONライナーに乗車。

12:00 眠っている間に、大宮に到着。大宮は、イ ンドよりも日ざしが強くて暑かった。ここ で解散。

    お疲れさまでした。


  スピティの旅  概要と雑感      村越 昇

       (一)スピティ地方

 スピティはインド北部、ヒマチャル=プラデシュ州の山奥にある一地方であり、インダス川の一支流であるサトレジ川上流の谷間と高地の草原に数十の村と一つの町がある。標高は三千三百から四千二百メ-トル、年間降水量は百ミリに満たない乾燥高地であり、人間が丹精した畑とわずかな樹木の緑以外は、大地が肌をむき出しにした主として茶色の、荒涼たる景観が展開する世界だ。

 広い川原や峡谷を流れるサトレジ川の支流スピティ川の流れは生コンのように白濁しており、所々で両岸に迫る岩肌の地層は見事というか、信じがたいようt胱曲を示し、巨大な馬蹄形を表したり、鋭い岩峰を雲の中へ突き出したりしている。 しかし、緑のない山々の背後には氷河の高Rが見え隠れし、空はまさに真っ青だ。夜には満天の星が輝く。

 ここはチベット人の世界、昨年訪れたラダックやザンスカ-ルとともに中世来の伝統を持つ西チベットの一王国として、長い間隠されていたように独特の仏教文化を守ってきた地域だ。ほとんどの村には電灯がつき、町には大きな病院ができ、定期バスが四千五百メ-トルの峠を越えてやって来るようになったとはいえ、まだまだこの地域の人々は、仏教(チベット密教)の信仰を中心とした伝統的な生活を営んでいる。

 独立したインド領になった後、中国との国境紛争の戦争が起き、軍亦n域として長い間外国人が入れない地域であったが、五年前からそれが解除されて、我々も入って行けるようになった地域でもある。こんな山奥で戦争があり、人々の交流を妨げていたことはとても信じられないが、その戦争のための軍俣ケ路が現在のバス道路(といってもとんでもない道だが)となり、外国人が入れなかったことが、この地域が観光化もせず世界の「秘境」としてあり続けた、と考えるとなんとも皮肉である。

 рスちにとってスピティは二度目になる。   l年前、スピティより一つ下流に位置するキンノ-ル地方(ここも「秘境」だが、大昔からのインド人の世界)を訪ね、さらにバスで移動してスピティに入るトレッキングをした。しかし移動中、キンノ-ルとスピティの境界付近で降雨による道路崩壊での四日も閉じ込められ、日程がつまり、スピティは二つのゴンパ(チベット密教の寺)を観ただけで走り抜けるようなことになってしまった。

 その時の未練が今年のスピティ行となった次第であるが、同じく未練を残したその時の仲間、まだ見ぬ「秘境スピティ」を是非観たいという先輩を加え八人で出かけた。平均年齢が高いこともあり無理のない日程をくみ、移動もジ-プを使い、高度順化にも注意を払い、トレッキング期間八日間、全日程十八日間の快適なトレッキングを楽しんだ。

      (二)スピティへ

 トレッキングの出発点は、インダス川の別の支流ベアス川上流の町マナリ。デリ-から小型機とバスを乗り継いで半日の道のりだが、ロ-カルな航空便は天候による欠航が多く、二十條ヤちかくもかかってデリ-からタクシ-を飛ばすことがよくある。標高二千メ-トル、上高地のような自然条件のマナリの町はヒマラヤシ-ダに囲まれ、梢からは氷河の峰が遠望できる素晴らしいロケ-ションだ。バザ-ルの賑いも何とも楽しい。しかしこの町も、近年は国内外の観光客が増えホテルラッシュ、毎日がお祭りのようであり、十五年前に初めて訪れた時と違う町になってしまったようだ。

 この町の郊外、ヴァシスト温泉の傍におなじみの森田千里さんの建てた山荘「アシュラム」があり、ここがトレッキングの基地になる。夏休み、アシュラムは日本からのトレッカ-や登R隊の出発点となって賑っている。

 マナリからスピティに入るには二つの大きな峠を越す。まずはマナリからジ-プで二時間ほどのロ-タン=パス、美しいお花畑に被われた四千メ-トルのこの峠を越えると景観が一変する。緑がなくなり、乾燥した山肌が連なる荒々しい世界になるヒマラヤの主脈を越え、モンス-ンの届かないヒマラヤのインド側からみた裏側の乾燥高地に入るわけだが、R々のいただきは氷河に被われ、巨大な谷氷河が深い谷に莱コしている。

 もうもうたるほこりを撒きあげ、ガ-ドレ-ルなどもちろんない怖い斜面や、谷底の石ころだらけの道を半日走ると再び旧ホ面を上って標高l千五百メ-トルのクンザン=ラ(峠)に至る。飛行場ができそうな広い峠の中心部には白いチョルテン(仏塔)が座し、色あせたタルチョ(経文が書かれた布)がはためき、霧でもまいていると異次元の世界のようだ。しかし、晴れていると絶景、セントラルラホ-ルR群の峯々が一望され、バタル氷河のアイスホ-ルが眼下に見下ろせる。   そしてさらに半日、ほこり道を緩やかに下るとスピティだ、途中緑鮮やかな大麦畑をもった村々が現れる。

 スピティではテント泊をしながらゴンパ巡りのほか、化石の谷とユ-ラシア大陸最高地といわれる四千二百メ-トルに位置する村を訪れるつもりであった。

 

 スピティの中心はカザ(カジャ)の町、スピティ川の広い河原を拓いたような、この地域にしては広々とした麦畑の山側の端に、ほかの集翌ノ比べれば格段と密集した町並みがある。五分も歩けば通り抜けられそうな町並みだが、その上流側の段丘には大きく立派な建物が点在しており、さらに建築中のものもいくつかある。病院・上級学校・官庁などの建物であり、やがてここに「新s街」ができることが想像される。

 「旧s街」の通りに面した「店」に一杯のチャイを求めて寄った。民家の入口と変わらない木戸をくぐったうす暗い内部はよくある茶屋だが、乾いたいい匂いがする。なんとパン屋さんだ。目が馴れると、屋内のあちこちに食パンとコッペパンが所狭しと並べられているのがわかり、腰をかがめて覗いた隣室の釜の前では二人の職人が上半身裸の汗だくでパンを焼いている。我々にとっては、久しぶりの「西洋近代食」を食することになったわけだが、浮イたえがあって美味しい、なかでも「高級西洋菓子」のクッキ-には、里心を感じた仲間もいたかもしれない。

 「新s街」の建設とあわせてみて、このパン屋さんが〇〇ベ-カリ-と銘うってモダンなお店になるのは何年先だろうかと想像してみた。日本の常識だと一~二年であろうが、ここだと十年だろうか・・・・いや、もしかしたらず-っとこのままなのではないか、などと考えたりした。ここでは時間のことを考えると判らなくなってくることが多い。

 

      (O)化石の谷

 カザから下流に十キロほど下ると、右岸から水量豊かな大きな谷が合流する。ヒマラヤの主脈から氷河の解け水を集めるピン川だ。

 『合流点から十キロほど入ったところにはいくつかの村があり、その付近の川岸には、アンモナイトなどの化石がビッシリと着いた岩がある』と森田千里さんから聞いていたので、そこを目指した。

 岩壁に見事t胱曲を見せる峡谷を過ぎると、谷が広がり、両岸の河岸段丘には緑豊かな大麦畑がみられ、所々に白壁がまぶしいような集翌ェ点在する。シャングリラ(桃源郷)のようだ。バスの終点の村の一キロほど手前、森田さんに教わった通りに川岸に下りると、あった!あった! 流れに突き出た滑らかな岩の上や側面には、重ならんばかりにアンモナイトの化石、大きいものは三十センチはある。他にも、いつか何かで見たことのある原始の生物らしき物も・・・・。

 削り取った跡があり、ガイドのリグジンはハンマ-で叩いてはみたが、やがて無理だとあきらめた。

 標高O千五百メ-トル、『ヒマラヤはどこから来たか』の学習もしたが、「百聞は一見にしかず」・・・・感動だ。

 この谷には数戸のものを含めて十lの村がある。バスの終点になっている村に大きなゴンパがあった。ガイド達は「ピン=ゴンパ」と呼んでいたが、もっと正式の名前があるはずだ。このゴンパ、スピティで有名な「ダンカル=ゴンパ」や「キ-=ゴンパ」のように他を圧する立派さはないが、校ノのように大きな僧院が目立つ。新築中のものもある。

 入っていくと、あっという間にエンジ色の衣の子坊蜥Bに取り囲まれた。五才くらいから十八才くらいまでの少年僧達だ。もの珍しそうに眺められ、カメラを覗かれ袖を引っ張られた。

 なんと、このゴンパには三百人のラマ(僧)と百五十人のチョモ(尼)がいるという。その多くは少年・少女僧達だ。彼ら少年僧達はなんとも明るく天真爍漫であった。

 僧院の裏閧ゥら麦畑を通って、谷を見下ろし、Rを見上げる丘に行った。ちょうど自由な時間だったのだろうか、十代半ばの尼さんたちが、数人づつ麦畑の畦でくつろぎ、語り合っていた。少年僧のように決して我々のところに寄ってはこない。我々を見ては何か語り、クスッと笑っている。 氷河の山を遠景にした緑の麦畑、赤い衣の少女たち・・・・一時代前の女学校の遠足のようでなんとも爽やかだった。

 その戻り道、一人の尼僧に「今日は!」と声をかけられた。 頭を丸めた日本の若い女性だ・・・立ち話をすると、「ネパ-ルに居るのだが、二か穴ヤの予定でこの僧院に滞在しており一か撃スったところ」だという。「何をしているの?」と聞こうとしてやめたが、ちょっと現実に戻された数十秒だった。

 耕地が制限され、厳しい生活の村人たちは、その子供の一人・二人を出家させる事が依然として常識となっているのが、ヒマラヤR中のチベット人の生活である。辛い、重苦しい事タとしてそのことを受け止めていたが、この時の屈託のない少年たち、爽やかな少女たちの姿は、迷に対する考え方を変えてもいいのかしら、と思える姿であった。

 

    (l)スピティに緑を

 カザから左岸の道を数キロさかのぼり、クンザン=ラ方向に渡る橋を左に見てそのまま左岸を進むと、やがて右上方に鋭いピ-クを包むように建てられたキ-=ゴンパの建物群が望めてくる。穂先に咲いた白い花のようだ。          その下に、小さな流れを取り囲むようにしているのはキ-村、段丘の麦畑に加え、大きな柳の枝の緑が翌ソ着いた雰囲気をもたらしている。旧い、しかも安定した村の営みが続いているのだろう。民家の屋上に取りつけられた衛星放送のパラボラアンテナが、キ-=ゴンパの写真B影を邪魔する。 二キロはあろう広いスピティ川の河原の対岸の光景も迫力がある。鋭い岩尾根からの斜面は緩やかになり、その起伏は巨大な生き物の肌のように滑らかだ。植生はない。

 その斜面の先端の川岸には緑の数百メ-トルの幅を持つ麦畑が三~lキロおきに点在し、麦畑の最上部の道路沿いに白い壁の民家が集まって村になっている。各村とも新しい家が多く、新築中の家も何軒も見られた。最正面のむらはラングリック。

 比較的最近拓かれてできた村々のようだ。ラングリックの下流二キロほどに右岸から中程度の谷が流れ込んでいるが、その谷の開口部に荒っぽい造りのダムが出来ていた。ガイドに聞いても判らなかったが、そのダムとこれらの村の麦畑との関係を推測した。

 スピティ川の河原のあちこちでは植林用の苗木を育てているのが見られた。河原の一部を、学校の運動場程の規模で石垣で囲む、高さは約一メ-トル。適当に川の流れが入るようにしているが、本流が近いところではその上流部に分厚い寺狷が積まれている。すべて手作業だから大変な労力であろう。   植えられているのは、ユ-カリと柳・・・・しかし、青々と苗木が育っているのを見ることは出来なかったし、想像出来る労力に対しての成果は何ともせつなく感じた。      河原に生えているトゲだらけのブッシュの枝一本を傷つけるのもはばかられるような茶色の世界。やっと育った苗木を石ころだらけの斜面に植え、羊に噛られないように石やブリキ板で囲い、水をやり、何年も何年も・・・・気の遠くなるような作業、しかも絶えずいたるところで起こる土砂崩れ。

 スピティの谷の村の建物と畑が土砂崩れから守られ、必要な水が供給され続け、しかもそれが安定した拡大を続けられるようになるのはいつなのだろうか。未来永劫、この切ない作業が続けられるのだろうか。

 一昨年訪れたウダイプルへ向かう、チャンドラ川沿いのいくつかの村を思い出した。そこでは植林に成功した村興しを実現し、平野部の大都sに出荷するグリンピ-ス・ホップ・ジャガイモの畑が青々と広がり、大型のトラックが収穫物を次々とロ-タン=パスを越えて運んでいた。     その谷と比べると乾燥度もずっと厳しいスピティの谷、「がんばって!」と声に出さずに呼びかけるのもはばかれた。

   (五)l千二百メ-トルの村キバル

 キ-=ゴンパへの道を左に見てキバル村に向かう道は、V嘯ネどというものではない、分厚い板に途中まで入れた鋸の切れめのような鋭い谷の側面をへつって上っていく。大地の隆起と河川の浸食が同時に、しかも双方ものすごい勢いで進行したのであろう。どのくらいの深さなのか覗いてみることもできない 高度計が四千メ-トルをさすと、道は谷を抜け高原状の起伏を縫うように走る。荒野には違いないが、草が目立つようになってきた。

 ユ-ラシア大陸最高地点にあるキバル村は、スプ-ンカットを大きくしたような高原の起伏の内側に張り付いていた。五~六十戸はあろう土造りの民家は真l角で、白い壁にこげ茶の縁どり、窓枠は緑、柳の枝の上に土で固めた屋上の周囲には冬の燃料であろうブッシュが積んである。    スピティの谷だけでなく、ラダックでもザンスカ-ルでもほとんど同じ造りであり、苓似C亮・碍粉僂縫泪奪舛靴独・靴ぁ」

 キバルのいずれの家も立派で貧しい感じはない。こんな高所しか居住するところがない、ぎりぎりの生活をしている人達の生活をどこかで予想していた私は、ゥらの偏見というか、誤りにやがて気がつくことになる。

 人口五百人のこの村には、二つの小学校と一つのハイスク-ルがあり、ハイスク-ルには隣の村も合わせ百人の生徒が通い十人の先生が派遣されているという。赤十嘯フ旗を立てた診療所があり、往診用のジ-プまで備えてあった。       州政府による特別の行政が入っていることが想像できるが、それにしてもこの村のたたずまいは、一朝一夕では成らない豊かさを感じさせた。   たむろしてトランプに興じていた男たちを追い出してチャイにありつき、薄い空気に乱された呼吸を整えて、下山へと外へ出ると、雨が止み、村の背後の斜面が見えてきた。傾ホを増して雲の中へとつき上げている斜面は薄い緑色をしている。草原とは云えないが、かなりの密度で草が生えているのだ。

 O年前、スピティの手前で道路崩壊で閉じ込められ、何日も山を眺めて過ごした時、l千五百から五千メ-トルあたりのピ-クの下によく霧が巻いているのを想い出した。

 それと同じ条件の霧の湿度がこの高原で草を育て、l千二百メ-トルのキバル村の存在基盤になっているのではないか。霧によって湿度を得て出来たささやかな草原が大麦畑の灌漑と生活のための小さな流れを絶えさせず、家畜に餌を提供し続けているのであろう。 なぜこんな高所に・・・・の疑問が解けたように思えた。独りよがりの考えかもしれないが、この乾燥高地のスピティでの生活条件の一つが霧が巻く四千メ-トルを越えた「高原」であり、千年単位での彼らの祖先がこの地を「選択」したのではないか・・・・・・。そういえば「化石の谷」、ピン川流域の村々が他のスピティの谷沿いの村に比べて緑濃く、人口密度も高いように思えた。それは、その背後の斜面がやはり薄く緑に染まっており、標高はともかく、この谷には霧が巻くことが多く、ささやかな草原を育てることによって、耕地密度を高めているのではないか・・・・・。

 それを確かめるため、という次回の訪問の課題が出来た。

 帰途、道端の荒れ地に立派なネギボウズをつけた背丈五十センチほどの野生の葱が所々に生えていた。ガイドのリグジンの話だと、土地の人はこの葱を採り、乾燥させ冬の保存食にするという。葉先をつまんでの匂いに、食欲を誘そわれた。

   (六)道路はすぐ壊れるもの

 スピティに入ってから天候がすぐれない。曇天が続き、栫X霧雨のように降る。八月O日夜、ラングリックの河原のキャンプでは、夜半からの雨が数條ヤにわたって音を立てて降った。

 この地方での雨は我々にとっては脅威だ。どこで道路が壊れ何日足止めされるかわからない。  案の定、l日に行く予定であったランツァ村への道が崩壊して通れなくなった。我々は往路をたどってマナリに戻る予定だが、マナリからのバスが昨日は来ていないようだ。道路崩壊はあちこちで起きている。

 ガイドのリグジンの判断は、急膀帰路をとることになった。

 今朝から稜線は白くなっていたが、つっ走ってたどり着いたクンザン=ラには薄く積雪があり、ガスが巻くなかタルチョが寒々しくはためいていた。

 これからが大変だった。クンザン=ラを下り始めると、昨日同じテント場にいたフランス人の団体のバスが立ち往生していて、その先は土砂が道いっぱい、ヘアピン道路を串刺しにして下の道路までだ。

 リグジンを先頭にわれわれのスッタフ、ドライバ-、キッチンボ-イが飛び出し、小さなくわのような道具一本で道造りを始めた。絶望的にみえていたが、そのうちどこからか道路工魔フネパ-ル人の女性たちが現れて、一時間でジ-プが通れる道を造ってしまった。

 ほっとしたのもつかの間、その先バタルまでの数キロ、少し進んでは土砂を除き、氓ヘ乱ホの大石を退け、二時間以上もかかってたどり着いたバタルは夕暮れ。暗い中での寒さに震えながらの設営となった

 翌朝は久々の快晴、氷河の山々のみか、l千五百メ-トル以上は、峰も、尾根も、谷も雪をかぶってモルゲンロ-トに輝いている。はるばるやって来てよかった、と思う瞬間だ。

 道路はこの先十キロで大きな崩壊があり、とても自力の道普請で何とかなるものではないらしく、バタルで終日の停滞になる。不幸中の幸いと、夕焼けの山から夜の星まで楽しんだが、その翌日と翌々日はジ-プを残して、十オキロ、十五キロとロ-タン=パスの麓のグランプ-までたっぷりと歩かされることになった。歩きながら無数ともいえる壊れた道路を見た。それもブルド-ザ-でもとても手に負えない巨石の崩翌ゥら、道がほぼ流れてしまっているものまで。

 草木一本生えていない急ホ面を削った道路、流出防~・乱ホ防~・路肩崩壊防~などの一切の措置はしていない。もちろんガ-ドレ-ルもなければ舗装もしていない。

 日本の道路と比べると、ゥ分の頭の上に直接の乱ホがないことだけでも、ラッキ-なのだろう。

 ここ五年間、毎年やって来ていたが、ロ-ド=トラブルに遭わない年はない。今年は歩くことで健康的に解決したが、ストレスがたまることもある。インドの、ヒマラヤの道路が安全で、我々の旅が予定通り消化できるのはいつのことだろうか。それは私の人生がもう一度あっても実現しないだろう。そう簡単に大ヒマラヤが我々の自由な通行を許すはずがない。これを当然として、これも魅力の一つとしてヒマラヤに通っている。何年も前から解っているのだが、それでもハラハラする。

 我々の今年の山旅も無事、楽しく終えた。cした「謎」の最大のものは、誰も高度障害で苦しまなかった、というハッピ-なことであった。

 

 

ヒマラヤ   野菜さまざま        栗原 幸q

 

 デリーから車でマナリに行く途中で見た作物は、稲がほとんどでした。重たそうに穂を垂れて、謔闢例ゅ次鍋メ近ななのぁΒると思う一福Α・ぁη田植えをしている人たちもいました。何回稲ぁθれるのだろうと思いました。璽

 マナリの山荘アシュラムでは、森田先生がいろいろな野菜を栽培していました。シソ・ミツバ・キャベツ・ニラなどは、リンゴの木の間に青々としていて美味しそうでした。

 マナリから山の方に登って行くと、畑の緑は大麦・じゃがいも・グリーンピースなどの作物でした。

 R間の村やお茶やさんで売られているのは、日本にあるのと同じような、じゃがいも・トマト・ピーマン・なす・キュウリ・キャベツ・タマネギ(インドでは紫色のものが多い)・カリフラワー・ショウガ・ニンニク・豆などです。豆は小豆の半分くらいの大きさでした。ネギ・ごぼう・小豆はないようです。

 畑の大麦は穂が出ていて、風に吹かれてとてもきれいでした。粉にして水かお湯で練って、食べるのだそうです。

 マナリからクル空港に向かう街道で見たのは、じゃがいも・トマト・トーモロコシの畑でした。もう少し地元の人に作物のことを聞く機会があったら、と感じました。

 

 ヒマラヤ 気まま窒ニ看護婦   田部井 章子

 

 今、チャパティーをほおばりながらそれを心地良くいただいています。

 更にもう一口、あの懐かしいチャイで流し込みました。

 ふっとため息がもれました。

 はるか遠くへ行ってしまった出来魔驕◇C垢詬佑法¬瓦涼罎鬚気泙茲辰討い泙后・笋辰版梓螻陲辰討離ぅ鵐疋好團謄・爾領垢任靴拭K榲・北瓦里茲Δ塀侏菲竡模・海任靴拭」

 何もかもすべてが新しい経験と感動の強力シャワーとして、強力な太陽の光と共にふりそそいで来るのでした。

 何もかも素敵でした。行く所行く所、氓ゥら次へとめまぐるしく、色々な事が閃いて来ました。

人生には色々な事が起こる。季節が変わる様に。

これがピッタリの旅でした。

 それでも、それだから、毎日毎日楽しく、d方ありませんでした。そんな毎日の中で、とうとう私の気まま窒ェ目を覚ましてしまったのです。

 その1 暗いはるか遠くの崖壁で、なんとも崇高な、かすかな光が見えるではありませんか

すぐさま、それが何なのか確認せずにはいられなくなる。

 その2 目の前の登れそうな山を見ればすぐに登りたくなってしまう、今居る地点の高度を忘れて。

 その3 異国での、一人での買い物への好奇心。

そのすべてが失敗に終わってしまったのだから…。

最大級の反省と懺悔、そして心地良い後悔。

 その矛盾の中で、ふっともう一度ため息がもれました。

 

 十分な看護婦(医療班)としての認ッもなく、不勉強のまま、ただただパルスオキシメーターの測定にだけ追いまくられた毎日でした。

 たまたま高R病その他の病気で症状を訴えた人もほとんどなく、今思えば、ほっと胸をなで下ろさずにはいられない思いです。

 そこで、個々のパルスオキシメーターでの結果をグラフに作成し、その時々の状況を解説したいと思います。

(气yージ以降のグラフは豊島千恵q作製)

 

  

スピティをかすめて     橋 本 隆 u

 空を見上げると北斗オ星が頭上にやけに明るく見える。ゥ分が今何処にいるのかを忘れてしまいそうな錯覚をおぼえる。

 考えてみると北緯三十数度の位置にいるので、沖縄かその近くの緯度である。日本で見る星空と大差はないのだろうと納得する。ここは天ア、西端の地に来ているとの思いと、いや日本よりそれほど遠くない所に立って眺めているのだとの思いが交錯する。

 白駒池で見上げた星を思い出し、数秒間、食膜繧フ寒々としたテントの横に立つ。

 今回のトレッキングでは隊員八名、デリー~クル間の飛行機が飛ばず、夜行十五時間のタクシーの旅であったが、全員元気にやってきた。前回と逆のコースをたどり、マナリよりのコースである。前回は崖崩れで三日間の停滞のため、昼夜ジープで飛ばしたコースである。運転鑞人、スタッフl人、リグジン≠齊椶瓩徳軅・・ス視^諭・泙人茲燭・抜新泙靴討・譟△Δ譴靴・廚Δ汎瓜・法「糸`海里④咾靴気藁垢僚・錣蠅鮗・・・箸之茲瓩佑个覆蕕婿・鱒气゚いことを考えてしまう Βまりにも静ぁηこの察χを勝Ψでも延ばしたい。璽

 バタルを通過する。一軒の小屋のみの所であるが、過年チャンドラタールよりの帰り、やっとたどり着いた所で、とくに思い出深い所である。今日もまた寒い。小雨が降っている。

 クンザン=ラ通過、前回ほど感銘を受けない。何故だろう。

 ロサール、ラングリック、途中キー・ゴンパを遠望する。白壁の点在する集翌り。キャンプ場より少し離れたところに我々のテント場。雨のためか周辺はかなり湿った台地である。hのあるブッシュの中に設営される。親qが燃料にする為か、テントの中をのぞきながら枯枝を採集して夕闇の中に消えて行く。はるか彼方に見える一軒家に帰るのだろうか。寒い夜雨足がテントを鳴らす。

 ダンカルゴンパ、キバル村、キーゴンパ。前回の訪問時と大分感じが違う。前回は夜であった為か。闥Tりで廊下をたどり、入り組んだ部屋をくぐり抜け大麦の貯蔵されたところを案内されたことを思い出す。明るい廊下に立って今回と比較してしまう。

 案内された部屋が炊柾黷ナ、軽い食磨B幼年のの小坊蛯ェ二人、一人の僧と共に留守番とか。我々の突然の侵入に驚きとも、とまどいともつかぬ様qで窯の前で二人並んで我々を凝視している。伏し目がちに、でも興味深く突然の外来メを見つ

めているあどけない少年僧を柱の後ろより見つめていた。

 隣の部屋は仏間である。この少年達は「仏の教え」をこの部屋で学ぶのか。赤い法衣を着てこのゴンパでどんな役割を演じているのだろうか。母の顔が、声がきっと恋しい時があると思うと複雑な気揩ソになる。

 屋上よりの雄大な眺めと対称的に、このゴンパの暗い部屋での生活、修業する僧侶、極楽浄土へと願う気揩ソを思うと尊敬する気揩ソとやりきれない思いが交錯してしまう。人も自然の一員である。こうような環境の中にあっても敢えて耐えて生きる子坊蛯フ前途に幸あれと祈るのみである。

 夜のテントにまた雨が降る。昨夜の雨があがり朝から晴れ間がのぞき虹がとてもきれいに見える。我々のテントは「川中島」の比較的大きな広々とした中州の上にある。流れの対岸にはバスが1台ジープが数台、テント十張り位あるだろうか、外国人の一行が宿にしている。対岸の土堤(タは川底が低いため)は十米位、いやそれ以上の高さがあろうか、浸食され山v腋の様な凸凹が川の流れに直角に画かれている様で、朝日をうけ反射され浮き上がり、後方に雪山が見える。

 しばし時を忘れる。おだやかな朝から次の道路崩壊のための悪路、徒歩による突破は想像も出来なかった。

 マナリ廉字C侶莢・倭杼末ネ上のもので、川の痢・ぁρわり人家ぁΑ・の反対側に痢γている姿を検ζ、また交通止めの為グリンピースの運び屋ぁ・押・所をはさみトラッァξ行列と共にごったぁΘして完全に麻痺勝χである。毎如ξ“如・行磨匹陵佑任△襦」

 今回のトレッキングも何とか終えることが出来、あらためて隊員の皆さんのご支援に感謝する次第です。

 

 インド・ヒマラヤG感    野 本 淳

 

 初めてのインドでほとんど見ることの叶わなかったヒマラヤの高峰をどうしても撮ってみたくて、脚力に不安を抱きながらも、ジープトレッキングということなので参加することにした。

 がしかし、デリーからクル(ブンタール空港)への飛行機はその地方の天候が悪く、午前中ずっと待機するも飛ばず、タクシーでマナリ(アシュラム)行きとなり、道は以前より良くなって楽だという話だが、午後2桙ゥら翌朝5桙ワでの15條ヤ乗車は最初からいやな予感がするのだった。

 そして翌朝より第一キャンプ地であるチョトダラ近くのチャンドラ川河川敷(3600m)に向かうも、途中のロータンパス(3980m)、クンザンラ(4550m)も眺望かなわず、“ヒマラヤでの雨男”なのかなと心配になってくる。その昔からの乾燥地帯もモンスーンの活動が北東に移動したのか、氓フ日の第二キャンプ地シチリン(ダンカル・ゴンパ下)では、遂に夕刻から雨も降りだし、何とも憂鬱な気分であった。

 第二キャンプ地からは初日、x流のピン川の河川敷でアンモナイトの化石を地層の岩盤上に見て、本当に“ヒマラヤは昔、海だった”との話を実感する。ピン・ゴンパ(4116m)は増築中で、男q僧200、尼僧100人も修業しているという。この付近は大麦が多く、他地域より豊かさが感じられた。

 氓フ日は岩山にそびえるダンカル・ゴンパ(3890m)を小雨の中訪問した。霧に見えかくれするゴンパや、その下に散在する村の石造りの白い家とその雨で滑る急ホ面を子供たちが羊群(R羊も混じる)を追いたて下って行く。その速いことに驚いてしまう。その後は世界最高地点にあるキバル村(4200m)を訪れる。どうしてこのような所に住むのか、そのメリットは何か、考えさせられる。

 その途中にある岩山すべてがさながら中世の古城のようなキー・ゴンパは、霧の中に屹立していて、威厳のある存在だった。まわりの高峰と下に流れるスピティ河の間にあって、俗界と天上の間に位置するからか、崇高な理想を反映してか、荘厳な気分にさせられる。

 ヒマラヤの山岳ジープ道路は雨さえ降れば乱ホ、崩壊などいつでもその修理は必要と思える。ハンマーによる砕石づくりから始めて、その砕石を道路の端に長方形(1×0.5×0.5m)に積む仕魔驩臥ヘ多ぁξ場所で行っていた Τこの道を修諭Ψていた娘叩Υ~5名は ・々ぁΡじ道で戻ってぁ・のを察知していて、30~50cmの大きな石を5個も道の真中に並べて。氏ケ虔・燭舛里燭・/font>

の通行税を全部で60Rs(150円)まきあげて、喚声を上げている。運転閧スちは舌打ちしていたが、その明るくてにぎやかなこと、毎日石積みで飽きているのだろう、旅人を困らせて楽しんでいるらしく憎めない娘たちであった。

 第3キャンプ地はラングリック村(3700m)が河岸段丘上に見えるスピティ川の中州だ。このところ雨がよく降ったので、心配性の妻でなくともちょっと心配だ。しかし、翌朝は青空が広がり、何となく明るい気分。そのうち河岸のラングリック村の端から上空にかけて大きく虹が弧を描いて濃くなり、皆カメラを持ち出して、嬉々として撮り続けた。最後の雨雲も汲閧ツつあるらしく、それからは5000m以上は新雪で装われた峰々が顔を出してきて、今後に期待がもて、ヒマラヤの雨男のあだ名も返上できそうで、うれしかった。

 今日の予定ではアンモナイトの化石が無数にあるというランジャ村へ行くことになっていたが、リグジンさんの偵察行で、目の前の岩山の中腹が崩れてしまったそうで、中~になったのは何とも残念であった。それよりも、今後の帰りの道路状態が心配で、どうなっているのか予想が立たないということを考慮して、2泊の予定を1泊で切り上げ帰りを急ぐことになる。

 キー・ゴンパやカジャの町をはるかに望む高原は快晴で、クンザンラまでは快調に進んだ。しかし、クンザンラは往き以上に天候が悪く、みぞれが吹きすさぶ状態で、ヤ外に撮りに出たのは私だけだったと思う。往きには見えたバタル氷河も全く厚い雲の中であった。先を急いで峠を下りだして間もなく、道路が崩壊した土砂に10m位埋まってしまっており、イタリア人女性数人によるジープが自転ヤを屋根に数台縛りつけたまま立ち往生をしている。我が隊のスタッフは早速、ツルハシ、シャベル、そのシャベルを引く縄を持って寒い氷雨の中、作業にとりかかる。30分もたったろうか、元通りにはならないが土砂で山盛りに盛り上がったところを我々のジープ1台がまずテストラン。ジープは谷側に大きく傾きながらも無事通過。皆、拍閧オて喜ぶ。ヘアピンの山道故、上が崩れれば下の道も乱ホで大変。そのすべてを数回にわたりスタッフ達が鉄棒や素閧ナどかしながら進む。我々は寒さと怖さで何もできず、無力であった。ようやくのことでバタル(3960m)の茶屋へ到着したのが、午後7梔゚ぎで真っ暗になってしまった。それにしてもこの峠からの下りは想像を絶する怖さの連続で、生きた心地がしなかった。その真っ暗の中、テントの設営をして我々を茶屋に迎えに来てくれたスタッフには本当に頭が下がる思いだった。 翌朝5栫A寒い!!空に雲なく、雪の高峰が360度シンとして見えるも、寒くて撮る気になれず、用をたしテントにもぐり込む。その後隊長の“お茶が入ったぞー”の声で出てみると、Rには大半雲がかかってしまいがっかりしたが、晴の空気感があり、気分はよい。今までのキャンプ地とは異なり、すごい河の轟音も聞こえず、よく眠ったためであろうか。他の人達は、皆寒くて眠れなかったという。

 このバタルのキャンプでは2泊したので、のんびりできて、日中はテント内で昼寝の人も多く、朝夕にはまわりの感動的な風景に多くのシャッターを切るのだった。

 リグジンさんの話によるとチョトダラ(3690m)の手前に道路の崩壊があり、その先は不明とのこと。10梔゚ぎにジープで出発。しばらくはMt.ホワイト・セール峰(慶応隊の3人がまだ不明で、非常にディフィカルトな山だとのリグジンさんの話)の全容や白雪の峰々がチャンドラ河の左岸に連なり、非常によい気分であった。

 がそれもつかの間、チョトダラの屋根が見えるところでブルドーザーによる道路改修が行われていて、その先の道路にも無数の石や岩が点々と転がっていて、通行不能。30分後、隊長の決断により、これよりジープを放棄、チャトルまで16kmを徒歩で突破することになる。我々はサブザックのみで、スタッフ5人は我々の大ザックとテント3張り分をそれぞれ2個づつ担いで出発する。途中には100m以上に渡り道路の跡形もなく大きな岩の積み重なり、これでは運転閧S人は引き返してキンノール回りでマナリに帰るとか、これも気の遠くなるような話だ。チャトルまではゆっくりとした下りの道なのだが、今まで出来たことのないまめが左足にいくつも発生したらしく、疲労困憊。最後の1kmではサブザックまでリグジンさんの厄介になり、恥ずかしいトレッキングでした。

 夕食はチャトルの小屋(商店、食堂、宿泊所)の中となったが、気になるのは明日の行程17kmで、軽い登りということだが足の状態が何とも心配で、テント内でまめや、破れた皮の消毒、カットバンを貼ったうえテーピングで動かないよう手当を入念に行う。

 翌朝7桙キぎ、足が何とか動いてくれることを祈って出発。いくらも行かないうちにサブザックを持ってくれるとスタッフの1人に取り上げられる。そのうちに妻や岩で膝を打って傷めた栗原さん、最高齢の橋本先生もザックを背負ってもらったので、рフ気揩ソも楽になった。平均3500mの高度では自分の身体1つ動かすのが容易でないことがよく判った。隊長に言われた通り気揩ソをしっかり保って、あと5km地点に来た時、リグジンさんがスズキのマルチバンに乗って現れ、皆の喚声をあびる。・Bは喜びと共に“助かった”を連発する。リグジンさんは17km先のグランプーでタクシーの手配のため、朝4桙ノ1人で出かけたのだそうだ。ただただ感謝するのみであった。その車では15分間位のグランプー(ロータンパス麓3200m)だったが、最後の2kmは急坂で大変そうなので、なおさらうれしかった。

 ピストン輸送で全員が揃ったのは1桙・コば回った頃 ・屋の前のイスに皆ほっとした笑顔でヒマラヤの福・の白雪や不通だった道ぁΑμしたのぁΠ此・で法Αξ乗合バスなど帖・て、マナリのアシュラムへのジープを待つのだった。璽

 ここでの情報ではアシュラム近くのバシスト村で異変があったらしいというので、隊長、橋本先生、滝沢先生の3人が先発隊として出発し、対策を考えておくという。我々第2隊(栗原さん、野本夫婦とスタッフ2名)は3:30頃出発した。ヤが登るにつれロータン北側のヒマラヤ高峰が180度にわたり顔を見せて、本当に素晴らしい峠の1つであることがよく分かった。バシストに近づくに10km闡Oのパルチャン村からトラックの列がずっと続いて、何かあったことがはっきりしてきた。ジープが止まった所が道路の行き止まりで、その先に道はなく、ブルドーザーが改修のため動いている。ベアス川の左岸が約1km位にわたってえぐられ、・Bが1週間前に通った道路や住宅などが流されて、河の中央にはトラックらしき荷台が見える。後で森田先生に聞いた話ではトラックの5人が河に翌ソて亡くなったという。この河は暴れ河として有名で、河を大石が転がるすごい音と地響きで眠れないという。

 そこでしかたなく地元の人達と同様に道路の山側を巻いて通過することになるのだが、まだ地盤が軟らかく、5m位のリンゴの木が根こそぎずるずると斜面を翌ソていくのがすぐ目の前で起き、足がすくむ思いであった。何とかアシュラムに到着、1週間洗えなかった身体や、頭髪にシャワーを浴びて、ようやく人心地ついた。最終便で豊島、田部井の両氏とリグジンさんが到着したのは午後11頃だったろうか。なにはともあれ全員無事揃い安心できてなによりでした。

 この後の旅については他の隊員の文を参考にしていただくとして、今回の旅は前回よりもヒマラヤの大自然を量、ソともに詳しく体験させてくれた素晴らしく貴重なものであったと思います。それにしても2週間以上の海外旅行、わけてもテント生活の7日間はかつて経験したことのないことで、本当に疲労困憊、そして体力の限界を感じたのでした。

 

  

  ヒマラヤを歩いた      野 本 良 q

 二度目のインドヒマラヤの旅が始まった。7撃Q7日午後12:48成田を離陸。7條ヤ半の飛行でデリーに到着。一昨年はじめてデリーに降りたったときには、じとっとした暑さと突然のスコールにびっくりさせられたが、今回は日本の暑さとさほど差がないことに気がつく。

 インデラガンジー国際空港からサンジャイ≠ウし向けのタクシーに乗り、ホテルに向かう。途中、華やかな紙飾りを持った行列が続く。少しとぎれて、また延々と続く。1人1人が担いで、裸足同然の状態で、どこまで歩いて行くのだろう。お祭りであろうか。デリーの町は一昨年と変わりなく、道路には車、人が多く、交通ルールはないに等しい。先へ出たいが為に警笛を鳴らす車でごったがえしている。

 カニシカホテルに到着し、サンジャイ≠ニ再会を喜び合う。9階の部屋から見る風景は緑が多く、とても翌ソ着く。

 二日目はマナリへ向かうために国内空港へ。しかし行き先の天候が悪く、飛行機が飛びそうもないということで、半日待った。結局フライトの見通しが立たず、しかたなく、昨夜泊まりのカニシカホテルに戻り、サンジャイ≠ノ相談。いつになるか分からないということで、マナリまでタクシーで行くことになる。

 15條ヤ、夜中中走り続け、朝方ようやくマナリに着く。最初から何とも運が悪い。これからが気がかり。長時間乗り続けたので疲労困憊状態。今日はゆっくりアシュラムで森田先生のお世話になることになった。

 7撃R0日、今日からいよいよジープ・トレッキングとテント生活が始まる。・B8人とスタッフ9人は9檮アシュラムを4台のジープで出発する。

 一昨年この旅に参加し、通った道を今回も登って行く。狭い道、しかも標高の高い山を大型ヤとすれちがいながら。下を見れば断崖絶壁。ひやりとさせられることの連続。夕方目的地のハムタパス下のラダルプーに到着し、テントを張る。テント生活は私にとって初めての体験。意外に暖かいのには驚いた。夕食は4人のキッチンボーイが腕を振るってくれる。

 テントの周りには茶色の高い山々、遠くに雪をかぶった山も見え、空気が澄みきってとてもさわやか。夜空には星がまたたいている。

 7撃R1日、スピティ方面へ向かう。河岸のひどい砂利道を車はつっぱしる。下を見れば濁流で

とても緊張の連続で、今日はとても疲れた。4551mクンザンラでチョルテンを見、夕方シチリンに幕営。肩こり、頭痛、それに食欲がない。頭痛薬を飲み、栗原さんからバンテリンを借り、肩に塗ったり、また張り薬を張った。田部井さんに肩をもんでもらい、いくらか気揩ソがやわらぐ。

 8撃P日、シチリンにもう1泊する。今日は化石採集するためピン川へ。アンモナイトの化石がたくさんあり、採集したり、ハ真を撮ったりする。それからピンゴンパを見学する。小さい幼凾ゥら修業のために共同生活をしている。男僧200名、女僧100名が現在生活しているとのこと。q供たちは大変人なつっこく、皆で記念ハ真を撮る。1人の日本女性も修行中とか。

 8撃Q日、今日はゴンパ廻りが計画されている。最初はダンカールゴンパである。ジープはどんどん登ってゆく。3890m。よくもこんな高地に村があるものだと驚く。崖っぷちに家また家。その頂上にダンカールゴンパがそびえ立っている。600年も昔に建てられたとか。確かに年代を感じさせてくれる。高僧の読経の部屋などを案内していただく。村の子供たちは羊やヤギと一緒になって、急ホ面を難なく駆けおりる。その早業に驚きを感じる。

 ダンカルを後にして今度は、世界最高地にあるキバル村を訪れる。この村は4200mの標高があり、とてもモダンな家の造りに感嘆する。家々の窓枠がブルーやオレンジ、グリーンに塗られ、とても美しい。国でも色々な保護政策がとられ、教育面でも小・中学校がそなえてあるとのこと。どこへ行っても人々が珍しそうに私達を迎えてくれる。

 氓ノキーゴンパ(3600m)を見学する。岩山にそびえ立って、まるで中世のお城のようだ。中を案内していただく。やはり幼凾フ頃から修業しているようだ。

 キーゴンパを後にして、今日はラングリック村(3400m)の河原に幕営することになる。すでに華やかなテントがいくつも張られ、外国人達もここで一夜を過ごそうとしている。・Bのテントはスタッフが中州に張ってくれた。夜中に大雨が降り、рヘ河が増水するのではないかという不安で、一晩中眠れなかった。翌朝起きてびっくり。大変素晴らしい朝日と間もなく大きな虹。しかも二重に。初めて見た思い。

 昨夜の雨で所々に崖くずれが起こり、道路が崩壊しているのではないかという心配から、ガイドのリグジン≠ェ情報を集めに朝早く出かける。鰍髀鰍ナ道路が不通という情報をもってもどってくる。今日は化石採集の予定であったが、道路が不通ではマナリに帰れなくなってしまう。少しでもマナリに近づく為に、今日の予定を中~し、帰ることとなり、昼前に当地を出発する。昨夜山々に雪を降らせ、ヤ中から白い美しい山々が太陽に輝いて見える。

 4551mのクンザンラを越え、間もなくすると車が停滞。雨で山が崩れ、大きな石や土砂が道路をふさいで交通不能にしている。地元の人々がシャベルやツルハシでそれを取り除く作業をしているが、なかなかはかどらない。2條ヤくらいかかるであろうということであった。しばらく待つ。我が隊のドライバーも一緒に手伝う。ようやく大きな石を除き、まだ土砂は除けず、道が斜めの状態であるにもかかわらず、我が隊のジープが最初に通過しようと挑戦を獅ンる。皆が不安で緊張する瞬間、うまくやってのけた。vわず拍閧ェ起こる。р熨蛯ォな感動を覚えた。大型バスは到底無理であるが、我々のジープ4台は無事通過する事に成功。しかしすぐ前方に大人が抱えられないほどの巨石がごろごろ翌ソている。いつまた上から翌ソてくるか知れない。その度にスタッフ達が何とか取り除き、ようやく峠を脱出できた。もう夕方になり、薄暗くなってきた。7檮バタルの茶屋に到着。チャイで一息つく。今夜はこの地にテントを張ることにする。・Bが休んでいる間にスタッフ達は近くの草原にテントを張ってくれる。

 翌朝目が覚め、テントの外に出て思わず歓声を上げる。目に入ってきた光景は氷河と白い雪の山々。6000m級の山々が周りをぐるりと囲んでいる。朝日に照らされて、赤く燃えている光景は実にみごとだ。マッターホルンのように尖った山にも。

 道路の復旧が進まず、今日は一日ゆっくりとバタルで過ごすことになる。U策したり、読書をしたり、スケッチをしたり、おしゃべりしたり、また日本から持ってきた餅を栗原さんがお料理してくれたのがとても美味しかった。当地の小さなリンゴに砂糖を加えて煮て、コンポートを作ったり、のんびりした一日であった。日中はとても暖かく(夜間は寒くてふるえる)、ここが3960m地点とはとても思えない。夕食後テントの外に出て再び歓声を上げる。何と満天の星が宝石を散りばめたように輝いているではないか。初めて見たような気がする。遠い幼少時代を思い浮かべ、郷愁にふける。

 8撃T日朝、ヤが通っているらしいということで、9檮テントをたたみ、全員で出発する。所々に乱ホがあり、それをどかしながら、少しずつ進む。しばらく行くと大きな石をブルドーザーが取り除いている場面にぶつかる。その少し先を見ると、ずっとそのような状態。いつ復旧するか分からない。そこで、これからは歩くしか方法がないということになった。

 大きな荷物はスタッフ(キッチン・ボーイ)が担いでくれ、・Bはサブザックを背負い、歩き始めた。しばらく歩いて行くと道がない。巨石にすっかり道路がふさがれて、大きな石の山になっている。また滝となって水がごうごうと流れている。どうして渡ろうかと思案しているうちに、スタッフは石を敷き、さっと私に手を差しのべてくれて、どうやら渡ることが出来た。数十か所もそのような状態であった。今日は16km位歩かなければならないと言う。足裏にはまめができ、痛くて痛くて思うように歩けない。

 やっとの思いで夕方、チャトルに着く。今夜はこの茶屋のすぐ隣の草地にテントを張る。ドライバーがまだ来れないため、3つのテントだけで、我々がこの中に寝て、スタッフは茶屋に泊まることになる。夕食もこの店で作らせてもらって、ここでいただく。明日もまた歩かなければならない。まさか歩く羽目になるとは考えても見なかった。幸いにもこの標高の所で高R病もおきず、よかった。しかし足が痛くて、これから歩けるだろうかと不安がつのる。

8撃U日、今日は17km歩かなければならないという。とても気が重い。ヤング隊はもっと厳しい峠を越えるであろうが、・B中高年にはこれでもきつい。朝食をすませ、テントをたたみ、8梔゚ぎに出発する。昨日と同様いたる所に乱ホで道路がふさがれ、川となって流れて、その度にスタッフから手をかしてもらう。何回か参加している人は足の早いこと、とてもついて行けない。2~3km位行くと、隊長は必ず休憩をとってくださり、とても有り難い。まめの出来ている足が痛くて、浮・い靴个觧廚い如⊇侏茲襪世叡戮譴覆い茲Δ防ャ€で歩く。13km位歩いた頃であろうか、ヤの音が聞こえた。見るとこちらに向かってくる。「リグジンさんだ!」皆が歓声をあげる。「助かった!」リグジン≠ェ朝早く出かけて、我々を車で迎えに来て下さったのだ。これからが登りになるところで、覚悟を決めていたところを、ほんとに神が救って下さったのだ、という感謝の気揩ソで一杯であった。グランプーまで2隊に分けて、運んでいただいた。

 隊長ほか2名の先発隊が出た後、3梔゚ぎに私達3名とスタッフは車に乗せてもらい、マナリに向かう。マナリに近づくにつれ、ヤ、ヤ、停車しているトラックが連なっている。何か様qがおかしい。アシュラムの近くに行ってびっくり。アシュラム下のベアス川が大氾濫、家が流されたり、道路がえぐられて道がない。途中で車から降り、迎えに来てくれたスタッフ達に助けられながら、無事にアシュラムに到着。あの元気な森田先生に迎えられ、心から胸をなでおろす。他の人達も数條ヤ後、暗くなってから到着。皆の無事を祝って乾杯する。

 予備日も使ってしまって、早くデリーの戻らないと予定の帰国がむずかしくなるということで、翌朝8檮、森田先生のお見送りを受け、出発する。クル空港まで車で送っていただき、サンペル君に搭乗手続きをしていただく。すると全員が搭乗できない、3名のみという。またまた橋本先生と私達夫婦が年長ということで手厚くしていただき、大変恐縮。飛行機は遅れたが、無事デリー空港到着。この飛行機は18人乗りの小さな飛行機。昨年このコースで日本女性が乗った飛行機が墜翌オ、€亡したニュースを思い出す。どうぞ無事でありますように!

 デリーのカニシカホテルでサンジャイ≠ノ再会、報告する。他の人達も7桙ノは姿を見せ、ほっとする。この旅も最後に近づいた。サンジャイ≠フ招待を受け、レストランで無事を祝う。翌日はゆっくりデリーでショピングを楽しんで、8撃X日午後インドを後にした。

 前回はインドの色々な町や山地を少々観光したが、天候に恵まれず残念であった。今回はほとんど山岳地帯であった。雨のため道路が寸断され、予備日まで使ってしまったからである。後半はとても天気に恵まれ、素晴らしい氷河や雪山を眺めることが出来たことは大きな喜びであった。目標が達成できた思いである。乱ホや道路崩壊で、富mR頂に近い標高の地点を歩くことになってしまったが、その時には大変つらい思いがあった。しかし今ふり返ってみると、恐らく私の将来経験できない思い出として永久に残ることであろう。一生のうちには色々な感動があるであろう。しかしこのような感動は二度と味わえないような気がする。世界のヒマラヤは人々の心を引きつけてやまない。素晴らしい反面、極めて厳しい環境にもあること。

 ゥ然の力の大きさに驚愕を覚えた旅であった。同行の皆様やリグジン≠竡佑犬瓮好織奪佞諒・后▲泪淵蠅凌硬沈萓検▲妊蝓爾離汽鵐献礇ぁ竡匹和臺僂・は辰砲覆蠅泙靴拭・瓦・蕕・蕕鮨修珪紊欧燭い隼廚い泙后」

 

 

トレッキング  最後のページ    豊島 千恵q

 

 1桙P5分に、先発のワゴンヤが出発して1條ヤ半くらい経ったろうか、2番目の車が到着した。野本ご夫妻、栗原さん、スタッフと2台の車に分乗して出発。

 相対的だが、一番若く元気な我々2名(田部井、豊島)と、リグジンさんが最後に残る。あと一時間ほどで車が来るとのこと。

 少し気温が下がったとはいえ、まだぽかぽかで、日向ぼっこをしながらのんびり車を待つ。Rに囲まれ、謔阯ッめのない話をしながら…。けっこう良い時間だ。

 徐々に山の端がくっきりしてきた。

 ちょうど5栫A突然茶色の冷たい風が吹き始める。あわてて茶屋の中に避難。リグジンさんは風の中でずっと車を待っている。

 茶屋の奥の隅に腰掛け、ビスケットをほおばり、あつあつのチャイを飲んでほっとする。

 中の人たちは、我々を気にする風は全くない。男達は、アルコール割りのコーラを飲み、美しい娘は火の面倒を見、チャイを入れる。

 真ん中辺りに、ミイラの様な老婆が横たわっ

ている。しばらくすると、老婆がむっくり起き上がり、きびきびと指図し、ゥらも夕食の準備を始める。

 大の男が三人並んで小さなにんにくを剥き始める。

 逆光で、茶屋の中の顔はほとんど見えない。

 外は相変らず強風だ。

 アーミートラックが何台もロータンパス方面へ向かう。

 リグジンさんは寒風の中ずっと車を待っている。

 茶屋の中はほとんど何も見えなくなってきた。

 リグジンさんが居るので何の心配もしていないが、さすがに少し心細くなる。

 マナリへの道はひどい崩壊なんだろうか…。みんなは無事アシュラムに着いただろうか…。今夜はここで寝るのかな…。

 6梍シごろ老婆がパチリと電気を点けた。

 7桙P0分とうとう迎えの車は来ない。通りかかったジープに便乗する。

 すっかり陽は翌ソ、Rの端がくっきりと浮かび上がる。

 何とか後部座席に翌ソ着き前を見ると、二人の男性がピッタリくっ付いている。4つの手がハンドルを握る???カーブなど4本の腕がこごなって何とも危なっかしい。

 リグジンさんはへっちゃらな顔をしている。

 急カーブの登りで、先行のアーミートラックが立ち往生。

 登り切るまでじっと我慢して待つ。

 気を取り直して対向車に注意しながら進む。マナリから来るはずの車のナンバーを何とか見つけたい。

 何台すれ違っただろうか、ついにリグジンさんがマナリからの車を見つける。

 予定のナンバーではないが間違いない。喜々として乗り換える。

 大きな北斗オ星がくっきり光っている。

 すっかり安心して二人ともちょっs軈舌になる。 少し進むと、真っ暗な山の間に細い金環の撃ニ金星 !!

 閑散としたロータンパスを越え、遥か下にマナリの灯が見えてくる。

 なかなか近づかない。

 ともかく眠い…。

 気が付くと知らない道だ。

 崩壊が激しく、いつもの道は通れないらしい。河原に近づくと、激しくえぐれ、大きな石がごろごろと暗闇に浮かび上がる。

 想像以上の被害のようだ。

 10桙P0分突然道が無くなり、これ以上行けない。

 ヤから降りると、スタッフが四人待っていてくれる。いったい何時から居てくれたんだろう。暗くて顔が分からないが、今回一緒だったキララや渠Nのガイド、パルカッシュのようだ。

 崩壊した土砂の上なのか、ガレ場やぬかるみを登り下り、まさに脱出だ !!

 アシュラムの登り口まで出水が激しく、スタッフが我々の手を取って慎重に登ってくれる。

 11梛゚くだろうか、やっとアシュラムに到着。

みんなが心配して待っていてくれる。結構楽しんできたつもりでも、ねぎらいの言葉が何とも嬉しい。

8撃U日のノートより

 この後、よれよれの私たちは、二つの部屋でゆっくりお風呂に入り、モモをつまみに冷えたビールを満喫した。

 

 

スピティの寺 ダンカル 続々 印度管見  滝沢 健・/font>

 

 7撃R1日の夕方、カジャの下流のテント場に着いた。道路から河原に少し下って、灌木の生える黒い土の上にテントを張った。川の水の音が聞こえる所であった。

 その夜、夕食を終えて食堂テントから暗い外に出ると、夕方まで曇っていたのに、少し晴れ間が見えて、星空が見える。前の晩一面の星空で、きれいに天の川が見えたから、星を探してみた。村越さんが「ダンカールの明かりが見えるぞ」と言った。振り返ると、なるほど暗い山陰を背景にして、高いところにぼんやりとした灯が見える。あんな高いところに寺があるのか。それがダンカル・ゴンパの明かりであった。

 ダンカール・ゴンパは翌々日の8撃Q日に訪ねた。小雨の降る寒い日であった。テント場からジープはカジャに向かうが、途中から右折して山道にはいる。つづら折りに登り詰めると、道は終点で、ここから寺までは雨の中を歩かねばならない。道は谷を囲むように、遠回りだが水平な道である。おそらく最近作った自動車道路に違いない。

 宸ノ向かって歩き始めると、後からえび茶の僧服を着た坊さんがついてくる。後でわかったが、この人が寺を案内してくれる僧であった。下の僧坊からゴンパの鍵を持って登って行くのだ。雨は降ったり、~んだり。そのたびに僧院にもやがかかったり晴れたりする。ハ真にしたら面白かろう。

 雨の中を右闖繧フ峰の向こうから羊の大群が現れた。群は見ている間にガレ場を走り下りて、我々の前を通って下の村に向かう。村からは子供たちが現れて、羊を我が家に誘導する。わあ、わあと子供たちの大声が谷にこだまする。

 下から見るとゴンパは、岩山の峰に沿って建てられている。壁は白く塗られているが日干しの土の壁だから、下が岩だろうと石だろうがかまわない。建てたいところにこねた土を置き、壁を築くのだろう。垂直の崖の上に四角い寺の建物が建っている。宸ヘ600年前から造られたというが、それ以前はスピティ王国の王宮だったそうである。この険しい地形から見て、宮殿と言うよりは山城という感じである。

 雨が本降りになった頃、ゴンパの入り口に着いた。このダンカール・ゴンパは、チベット仏教のゲールック派に属し、キー・ゴンパも同じ派である。この派は14世紀にツォンカパという僧がそれまでの旧教派の仏教の堕翌母テΔ靴董・閒Ъ腟舛砲燭辰童俺機μ・砧抄気鮟ざ箸垢襪海箸鮠Г┐董・貲匹・屬にケqをかぶっていたのに対して、黄帽派と自称したのに始まる。この派の転生思想として生まれたのがダライ・ラマであるから、チベット圏では有力な派ということが出来る。このスピティの谷では、キー・ゴンパが本Rに該当するから、末宸ニいうところだろう。

 先ほどの僧が鍵を開けてくれた入り口からはいると、中は暗い通路である。しかし壁は日干しの泥壁で、床も乾いた泥であるから清潔でさっぱりしている。高い敷居をまたいで最初の部屋にはいる。泥の床は広く奥に祭壇がある。天井は木の板を渡してあって、部屋の真ん中の2本の柱で支えている。この部屋は窓はない。

 曲がり階段を上って 氓フ部屋に入る。ここは大分立派な造りであった。祭壇には仏像とダライ・ラマの写真などが所狭しと並んでいる。その脇の棚には、ハ真で見る大蔵経が赤い布にくるまれて収まっている。天井には天窓が開いている。祭壇前の沢山の灯明皿にリグジンが灯しをつけた。それから床に額をつけてお祈り。その後祭壇に100ルピーの札を挟み込んでまたお参りする。ついて来たジープの運ちゃんも同じように祈っている。こんな時、神仏に祈ることをしない我々は困ってしまう。

 もう1つ階段を上がると小さい中庭に出る。屋上だが、例普ケ・気壁・阿函∈・六箸辰討い覆い・泙匹・△襦1・・澆辰討い襪・蘚イ両欧某紊燭泙蠅・侏茲討い襦I畸覆榔・・・覆づ效亙舛世・△燭泙帽澆襪氾イ療薫罎・看曚砲覆辰討靴泙Α8・襪函△發Γ韻直紊硫鮎紊望紊・訥・劼・・韻討△襦K靴気鵑謀个辰討いい・般笋Δ函∈い辰燭茲Δ粉蕕鬚靴拭・④辰函・腓④陛ミR靴で濡れた泥の屋根を歩かれるのがいやなのだ。も一度聞くと、d方がない…という風に首を傾けた。

 早速梯子に足をかけるが、この梯子がまたいい。全くの手作りで、ほぞの穴も大小まちまちである。屋上に上がると、l方がよく見えた。Rの尾根の向こうには雪山、蝓か下にはスピティ川の流れと緑の畑。昨日行ったピン川の谷の入り口も見下ろすことが出来る。闡Oには、我々が歩いてきた道と村の家々……。宸フ四隅には旗竿が建てられ、経文を染めた旗がはためいている。しばし雄大な景色に見とれてしまった。

 ゴンパを出て、帰りがけにジープの窓からまた見上げると、白い壁の寺はまた薄いガスに包まれていた。