03夏 剱に集う

山域山名:北アルプス剣岳(富山県)
期  日:2003年8月22(金)〜24日(日)
参 加 者:A隊 PL大嶋 SL新井 並木、岩田、堀、白根 
     B隊 PL軽石 SL浅古 滝沢、豊島、森川、須藤裕、大山 
     C隊 PL中野 SL青木 逸見、駒崎、木村、栃原    統括L大嶋・参加者19名
行動記録:
 8/22(快晴) 熊谷駅(5:00)=扇沢(9:05)=<トロリーバス9:30〜9:55>=<ケーブル10:00〜10:15>
  =<ロープウエイ10:48〜10:53>=<トロリーバス11:15〜11:25>=室堂平2450m着(11:30)

  参加人数が19名と多かったため、パーティー行動の迅速性、安全性などを考慮し、
 C・B・Aの3班の順に分けて出発しました。

 ・B隊の記録
  室堂平2750m発(12:00)→雷鳥平テン場2260m(12:35/12:45)→雷鳥沢途中(13:50/14:00)→
  剱御前小屋2750m(15:00/15:15)→剱沢小屋2530m着(16:00)
   室堂から剱沢小屋まで 4時間

 熊谷駅南口に早朝5:00に集合。今回は参加者が多いのでマイクロバスをチャーターしての山行である。バスは橋上さんの「熊谷観光バス」。
 5:00に出発して2回の休憩、長野県・扇沢駐車場に到着、予想通り駐車場は満杯であった。こんな時にはマイクロバスは便利である。
 すぐに準備を整えてトロリーバスに乗り込んだ。途中黒四ダムを見たり「大観望」で待たされたりして、2時間半ほどで「室堂ターミナル」に到着。天気は快晴で、立山・大日岳方面がよく見渡せる。ここまでは観光客も大勢押し寄せている。昨日までは天気も悪かったそうである。ここで昼食をとる。
 準備を整えて12:00に室堂を出発。今回は19人を前記のように3グループに分けて山行はグループごとの行動となる。健脚ぞろいのC隊がまず出発し、B・Aが続いた。B隊の我々が雷鳥平のテン場についた時には、先行のC隊は既に沢をかなり登っていた。
 雷鳥沢の登りはゆっくり歩き始めるが、日頃トレーニングしていない足にはなかなか厳しい。花は今年は遅めで、チングルマ、ミヤマアキノキリンソウ、ウサギギク、キキョウなどがよく咲いている。A隊は遅く出発したがかなり早足で,B隊に追いつく勢い。豊島さんがやや不調。
 剱御前小屋に到着すると剱沢が見下ろせたが、こちらには雪渓がかなり残っている。
 4年ぶりの剱沢である。前回は、1999年8月20から2泊3日で剱岳をめざした。1泊目は一の越小屋へ宿泊。2日目は雄山から立山を歩いて剱山荘泊まり。3日目に剱登頂をねらったが、朝からどしゃ降りで、諦めてまっすぐ雷鳥沢を下って撤退した。
 剱御前小屋には丁度ヘリコプターが荷揚げの真っ最中で、我々の休憩時間にも何回も飛来していた。天気のいい今日が絶好の荷揚げ日和なのだろう。
 ここから右方向に道をとり剱沢を下って小屋をめざす。この辺りはお花畑でヨツバシオガマなども見られた。剱沢小屋到着は16:00。C隊はとっくに到着していた。
 元気な人はビールで乾杯。しばらくは小屋前のベンチに腰を下ろして山を見上げる。視界がよくて剱岳の頂上もくっきり見える。前回99年には天気が悪かったから、今回剱の全貌を初めて見ることが出来た。
 既に部屋を取ってくれてあったから、寒くなったので部屋に入った。2階の廊下を挟んだ2部屋が確保されていて、快適である。他の部屋では既に休んでいる人も多い。私は寝ころんで少し昼寝をした。
 夕食は揚げたての手作りのコロッケとエビの天ぷら2本。温かいやつが出てきた。小屋の食事としては悪くない。ただ杤原さん・豊島さんの2人は、気分が悪くて食べられなかった。高度障害だろうと思われる。宿の人がパルスオキシメーターで調べてくれたがお二人とも数値が100を越えていて、心配はない。
 食堂の壁には古い写真が沢山貼ってある。中に雄山を背にした新田次郎の写真、色紙があった。彼は小説の執筆の取材のため1976年にここを訪れている。剱に登って後立山を経由して下り、今はない立山温泉なども踏査したそうだ。
 食事の後は談話室で写真集などをめくった後、早々と寝てしまった。   (滝沢記)

 ・A隊の記録
  室堂平発(12:00)→雷鳥平キャンプ場(12:40/12:50)…途中、気分を悪くし記録なし…
  剱沢小屋着(16:00)

 室堂平からミクリが池、雷鳥荘を目にしながら色とりどりのテントが並ぶキャンプ場を通り一休みする。浄土沢の橋を渡り雷鳥沢コースヘと登り始める。ハイマツ、ナナカマド、もう秋かと思わせるチングルマ、四ツ葉シオガマ、時々ウササギ、ミヤマ大根草アオノツガザクラも姿をみせる。ハイマツがなくなり草原となる。右方に小尾根を越えると道はジグザグとなり、もう一度尾根を着える。この頃になると斜度は険しくなり高度を稼ぐ。やがて緩むころ前方に剱御前小屋がみえる。天候が良いためかヘリコプターが大きな音をたてながら何回も往復し、荷運び(建材)をしていた。
 小屋に着くと同時に声をかけられる、時々一緒に山登りをしている友達だ、偶然の出会いにおどろく。右下に小さな雪渓を見ながら下って行き、剱沢キャンプ場を越えるともう剱沢小屋だ。テラスには先発隊の人達が休んでいた。眼下には剱沢野営管理所、金沢大学医学部の診療所等が見える。前方には雄々しく峻厳な剱岳が費えている。小屋の裏手にはチングルマ、ヤマガラシ等が群生していた。                (堀記)

 8/23(快晴) 起床4:00
 ・C隊の記録
  剱沢小屋(5:00)→剣山荘(5:30/5:40)→一服剱(6:00)→前剱(7:00/7:10)→剱岳山頂
  (8:30/9:10)→肩の広場(10:10/10:20)→一服剱(11:45/12:30)→剱沢小屋(13:10)

 夜来、剱沢を吹き抜ける強い風音に何度か目を覚まし、浅い眠りのまま起床予定の午前4時を迎えました。朝食は、用意してもらった弁当を食べました。
 八ツ峰の山際から天上にかけて薄明るいなか、私たちC班は、A,B班に先立ち5時に出発しました。剣山荘を過ぎると本格的な登りが始まり、一服剱を通過する頃に日の出を迎えました。晴れ渡った空に、これから辿る岩稜が際だちます。乾いた岩場の感触を楽しみつつも、この後鎖場が出始めたので、行動は更に慎重になりました。西側の山腹を駆け上がる霧に、幻想的なブロッケン現象を見たりしながら前剱に到達し、小休止。
 通称”カニのタテバイ”まで歩を進めると、予想された渋滞はありませんでした。ここは垂直に近い岩壁を17mほど登る鎖場で、復路”カニのヨコバイ”と共に本日最大の難所です。帰着後、各々一様に「怖かった」と両所を振り返りましたが、記録者である私の恐怖感ときたら尋常ではありませんでした。しかし、無難に切り抜けると目指すピークはあと一息となりました。時折見上げる剱の尖端は、ガスが速く流れ、見え隠れしています。
 8時30分、須佐男命を祀る祠が建つ、2998mの剱岳山頂に達しました。既に20〜30人がその尖峰に陣取っています。幸いなことにガスは晴れ360°の展望に、ここまでの疲労も緊張感も一掃されました。記念撮影と紅茶で一服の後、帰途につきました。
 数回の小休止を入れ、一服剱に着きました。眼下には剱沢が広がっています。安堵感からか、談笑も交えゆっくりとした昼食となりました。            (杤原記)

 ・B隊の記録
  剱沢小屋2530m(5:05)→剣山荘前2475m(5:35)→一服剱2618m(6:15/6:25)→
  前剱2813m下(7:25-7:35)→かにの縦ばい下(8:30/8:35)剱岳山頂2998m(9:15/10:15)→
  ハシゴの下(11:00)→ケルンのある棚2810m(11:30/昼食/12:00)→前剱2813m(12:25/12:35)→
  一服剱のコル(13:30/13:40)→剣山荘前(14:40)→剱沢小屋(15:10)
   登り4時間10分、下り4時間55分

 今日の剱岳登山は早出するために、朝飯に弁当を作ってもらって昨夜の内に支給されていた。起床して布団を片づけると、暗い中で朝飯の弁当を広げて食べた。出発準備する間にも登山者は続々と出発していて、剣山荘の上の方にヘッドランプの灯りが揺れている。
 小屋出発は5:00。既に明るくなって剱も東側がきれいに照らされている。出発はC,B,A隊の順。歩き出しは剣山荘までは若干下り。途中雪渓を渡る。
 剣山荘を通過してからは急登になる。ゆっくりと足を踏みしめて登った。先発のC隊は朝日を受けてブロッケンを見たそうだ。一服剱頂の休憩でその先を見ると、だいぶ下った先にどこまでも続く急登の岩壁があって、登山者達が高く高く取り付いているのが見える。これは大変な山だということを実感した。これからはほとんど四つん這いになってひたすら登る。
 前剱は西側を巻いて頂には出ない。このあたりからは稜線の西側を望めることが出来る。眼下に富山平野・富山湾が見渡せる、実に雄大な景色だ。西側の絶壁は垂直にどこまでも足がすくむほど落ちている。振り返ると我々が登ってきた尾根がじゃまをして、剱沢方向は暫くの間見渡すことは出来ない。
 話に聞いていたクサリ場の「縦バイ」は、クサリに頼りながらも岩の割れ目に足をかけて登るからそれほどでもなかった。(それでも恐いことは恐いが。)むしろ下りの「横バイ」の方が上から足場が見えずに恐いように感じた。
 山頂の手前でC隊が下山してくるのに出会った。ずいぶんとペースが違う。
 剱山頂には9:15に到着。快晴で遠くは富士山から槍、富山湾、近くは針ノ木、鹿嶋槍、五龍、唐松、大日岳、立山連邦など360度が一望できる。剱沢の小屋もよく見える。ずいぶん歩いてきたもんだ。この高山でこうまで天気に恵まれるのは幸運と言ってよいと思う。山頂では岩のくぼみを見つけてお湯を沸かしてコーヒー、紅茶を飲んで休んだ。しばらくは周りの展望を楽しんだ。

 新田次郎の小説『剱岳 点の記』(文春文庫)によれば、陸軍参謀本部の測量官・柴崎芳太郎が、麓の大山村和田のガイド宇治長次郎らと、三角点を設置する目的で剱山頂に初登頂したのは明治40(1907)年7月のことであった。日にちは不明だが、新田次郎は当時の天気図と「点の記」から長次郎らが最初に登頂を果たしたのは7月12日、柴崎が登頂したのは26日であると推測している。もうすぐ100年になろうとしている。
 この時に彼らは山頂で古い錫杖の一部、鉄剣の一部と窪地に焚き火跡を発見したといわれる。山岳宗教の対象であった剱岳には近代以前にすでに宗教者が踏み跡を残していたのであった。この頃麓の村では、剱のお山は神聖であって登るべきではない、登ってはいけないものと考えられていたそうである。この時の柴崎らは、いくつかの尾根をたどっても登頂を果たすことが出来ず、苦難の末山頂直下に続く雪渓を詰めて登頂を果たした。それが長次郎の雪渓である。彼らは1,2等の三角点を設置することが出来ず、設置したのは4等三角点であった。そのため彼らの初登頂は役所ではあまり評価されなかったという。私が見たところでは頂上には確かに「標石」は見あたらず、岩に埋め込んでコンクリートで固定した標識があるだけだった。標識に赤ペンキが塗ってあった。焚き火跡の窪地はとっくになくなってしまっただろう。
 新田次郎は昭和51(1976)年9月2日に登頂している。新田は人に勧められて柴崎らの剱初登頂を題材に小説を書くことを決意して、取材の為にここを訪れたのであった。富山から室堂、剱沢に入って、剱沢小屋に宿泊。小屋の主人・佐伯文蔵の案内で剱をめざした。彼は小説の「あとがき」にあたる「越中劔岳を見詰めながら」という文章を書いていて、実際の山行の様子はこの文章で詳しく判る。この時の写真は小屋の食堂に掲げてある。

 下りは10:15に出発。今度は登りにはないハシゴによる絶壁下りがある。これはまたクサリと違って恐いものだ。ハシゴの下に避難小屋跡があってここにトイレがあった。こんな所には珍しい。かつてここには避難小屋があったらしく、二万五千の地図にも記載されてある。新田は「平蔵の小屋」と呼んでいる。
 上から見て棚のようになっているケルンの広場で休憩、昼食を食べた。ここでも湯を沸かして温かい緑茶を頂いた。次は前剱の頂上で休み。ここからは広い剱沢のカールや剱沢小屋も見下ろすことが出来る。この辺りに来ると疲れて、大きな段差は尻をついてずり下りるようにしなければ下りられない。前剱を下りきった頃になると下からガスが昇ってきて、剱の頂を隠すようになった。天気は次第に下り坂らしい。
 一服剱のコルで休憩。休んでいるとこの辺りにもガスが巻いてきた。一時前後がガスに閉ざされた。この剱岳は雨天の日は勿論、視界がきかない日にも登坂しない方が良いかも知れない。ルートを失う危険がある。
 一服剱の上から見るとはるか下に剱山荘が見えたが、どんどん下って、14:40には小屋の前に着いた。風が強くて寒い。ここで小休して先を急いだ。
 15:10剱沢小屋到着。C隊は今日もとっくに到着していて、お酒ですっかりできあがっている人、シャワーを浴びてさっぱりした人、さまざまである。我々は到着祝いの缶ビール・缶ジュースで迎えられた。今日もずいぶんと疲れた。
 外のベンチで休憩後部屋に入ってシャワーを浴びた。昨日は山に入ってシャワーなんて……と遠慮して使わなかったが、今日は真っ先に熱い湯を浴びたい。沢の上に雪渓が残っているから水は豊富なのだが、小屋でシャワーを浴びられるとは有り難い。石鹸やシャンプーは使えないが、熱いお湯を頭からかぶってさっぱりした。
 その後部屋では大宴会が始まり、大分飲んだ。何しろ小屋の主人が缶ビールを大盤振る舞いしてくれたのだ。今年は客が少なくて仕入れすぎたのはないかな?
 夕食は温かいカツに煮付け。これも美味かった。食事後は部屋で憩う人と談話室に座り込む人と……。中野さんは1人で碁盤に石を並べていたが間もなくお相手が見つかったらしい。私は本棚から何冊か写真集や画集を引っぱり出してぱらぱら見ていた。棚の隅に古い『ノンフィクション全集』の一冊が有ったので手に取った。グレーの布張り表紙のむかし学校の図書館などにはよくあった懐かしいシリーズである。目次には「タイタニック号の遭難」と並んで「剱沢の遭難」がある。書いているのは東大の山岳会である。
 読み始めるとこれが興味深い。まさに我々が今夜泊まっている剱沢小屋での遭難事件の報告である。時は1930(昭和5)年正月のこと。暮れから当時東大山スキー山岳会の学生4人と麓のガイド2人は、富山から室堂を経由して剱沢小屋に入った。ここでスキーを楽しんだり写真を撮ったりしていたのだ。ところが1月7,8日は粉雪の吹き付ける猛吹雪で外へ出られなかった。そして9日午前4時頃、大きな雪崩が突然小屋を襲い、寝ていた6人もろとも一気に押し流してしまった。小屋の周りの石積みはもろくも崩れてしまったのである。
 5人は即死であったが、学生の1人は寝袋に入ったまま雪に埋もれながら、何時間あるいは何十時間か意識があり、寝袋の中でメモ書きの「遺書」を残したそうだ。そのカタカナ書きの遺書は「カメラは誰それに譲る」、「(麓のガイドの名をあげて)○○が来てくれれば助かるかも知れぬがたぶん駄目だ」、「もうすぐ窒息するだろう」……などとあり胸を打たれる。
 救助隊の先遣として剱沢に入った3人は驚いた。剱御前の峠から剱沢をのぞき込んだら、小屋がすっかりなくなっていたからである。この時には手づけずに帰った。
 何日か後にやっと到着した救助隊がこの学生の寝袋を掘り出したとき、寝袋の周囲には小さい空洞があり、ほのかに湯気が出ていたそうである。寝袋を開いた救助隊員は、学生の顔に生気があるのを見て「万歳」と叫んだそうだ。急遽心臓マッサージや人工呼吸が行われたが効果はなく、結局6人全員が死亡した。この時の救助隊員のリストに若き佐伯文蔵の名が有ったが、彼がその後剱沢小屋を再建し、その息子が今継いでいる。新田は彼の案内で剱登頂を果たしたのだった。文蔵の写真は食堂にもあった。山小屋の悲惨な遭難の歴史を読んで、内心粛然とせざるを得なかった。剱沢・剱岳の大きさを感じながら就寝した。
 下山後新田次郎の報告を読んだら、雪崩で壊滅した当時の小屋は今の小屋の下のテン場のあたりにあって、現在その場所に五輪塔が立っているという。そういえば今回も見たような気がする。                            (滝沢記)

 ・A隊の記録
  剱小屋(5:08)→剱山荘(5:37/5:45)→一服剱頂上(6:15/6:20)→前剱巻道(7:25/7:40)
  剱岳山頂(9:20/10:20)→前剱頂上(12:30)→剱山荘(14:15/14:25)→剱沢小屋(15:10)

 剱沢小屋を最後の班として出発する。空は明るく晴れ、剱岳が目前に端正な姿をあらわしている。愛らしく咲いているウサギギク、四ツ葉シオガマ、チングルマ、アオノツガザクラ等が群生している。小尾根を下っていくと平坦な道となり、雪渓を2個所ばかりを横切って進むと小さな池塘が現われる。セキショウかスゲの仲間であろうか密生している。
 やがて剱山荘の前に到着し一休みする。これからが一服剱の登りとなり、右側の斜傾の草叢の中に紫一色に群生しているミヤマトリカプト、ウラジロタデ、岩場には、イワツメクサ、ミヤマ大文字草、カライト草、チシマギキョウ、エゾシオガマ、ミヤマダイコン草、タカネヨモギ、タカネヤハズハハコ等を眺めながらジグザク道を進み、小さな岩場を越えると一服剱の頂上、一休みし下ると武蔵のコル眼下には大きな雪渓。岩礫帯も高度が増すにしたがって安定する。
 前剱大岩の左側が登口となり最初の鎖場となる。しばらくすると前剱になり、頂上をさけ、左側を巻き進む。次からの鎖場は登りと下りとが別コースとなっている。次々と現われる鎖場を渡る。平蔵の頭を越えるとまた、右下に雪渓と出会う。
 ここから先が一番の難所、カニのタテバイ、急峻な岩壁を鎖をたよりに注意しながら登る。次がカニのヨコバイとなり頂上への最後の登りとなる。祠の祀られた山頂は、北アルプス全山、南アルプス、八ヶ岳等の山々が見渡せる。ゆっくりと眺望を楽しみながらお茶をいただく。帰路の最初の鎖場は、カニのヨコバイ。垂直に近い岩壁は足元が見えず鎖につかまって足さぐリをしながら足元を確かめ降りる。その次が垂直に近いハシゴ、心して下る。前剱を登頂し、花を眺め写真をとのながら、もと来た道をたどり剱沢小屋へと向かった。                                 (堀記)

 8/24(曇り) 起床4:30、食堂で朝食5:00
  最終日は、立山雄山コースと奥大日岳コースに分かれて行動しました。

 ・立山雄山コースの記録
  剱沢小屋2530m(5:30)→別山(5:55)→別山乗越と剱御前小屋方面の分岐2630m(6:16)→
  別山乗越2830m(6:45/6:55)→真砂山の登り(7:15/7:25)→富士の折立2980m(8:45/8:55)
  大汝山3015m(9:15/9:30)→雄山山頂3003m(10:00/10:30)→一の越小屋2700m(11:15/昼食/  12:05)→室堂2430m(12:50/14:15)=扇沢(15:00/15:35)=熊谷駅(21:37)
   剱沢小屋から室堂まで 7時間20分

 昨夜の天気予報では、今日は後半は崩れるとのことだった。風がかなり強い。朝食は食堂で5時からとった。この時間に食べられれば、朝飯を弁当にする必要はないと思われる。
 5:30小屋の前に集合。今日は立山コースと奥大日岳コースに分かれて室堂をめざすことになる。かなり肌寒い感じがする。
 出発。途中から立山グループは別山乗越をめざし、別グループは剱御前小屋方面をめざす分岐点がある。我々は別山にルートをとって登り続ける。途中、休憩するとキキョウが咲いている。堀さんに、ガクにトゲが出ているのがチシマキキョウであると教えてもらった。
 別山乗越に出ると、室堂平方面から強風とともにガスが登って来ている。吹き付けるガスのために頭髪からしずくが落ちるほどだ。別山は西に巻いて真砂沢カールあたりに来ると、折から朝日が当たってブロッケンが出現する状況となった。確かに我々が歩く姿がガスに映った。しばらく立ち止まってブロッケンを待ったが、鮮明には出なかった。
 このコースは剱岳よりも標高が高い大汝山(3015m)を登るが、コースに下りがなく高さを稼ぐ一方だから比較的疲れない。登山道の一部は晴れれば気分の良い散歩道になるだろう。あちこちにトウヤクリンドウの花が見られる。
 大汝山の頂上では記念に岩塔の上に立った人もいた。雄山の山頂は一の越から登ってくる人たちでさすがに混んでいた。ここだけは室堂の延長である。森川さん・大山さんたちは、お賽銭を払ってありがたい祈祷をしてもらった。雄山からの下りは崩れやすいがれきの道である。山の準備もない子どもやお年寄りも登ってくる。今日はそうでもないが、混む時には列をなすそうだ。そういう点で危険な道である。
 一の越小屋前では風をよけてお茶を沸かして、昼食をゆっくりとった。きれいな水洗トイレが出来ていた。ここまで来ればもうしめたもの、あとは整備された道を室堂に下るだけだ。室堂到着は12:50。奥大日グループはとうに到着していて、青木さんのお出迎えを受けた。                             (滝沢記)

 奥大日コース、立山コースとして、二班に刷れる。遠い昔(奈良時代)修験者が登ったと伝えられる峻厳な剱岳に別れを告げハイマツの生い茂るなか、別山へと向かう。このあたりは、四ツ葉シオガマ、アオノツガザクラ、クルマユリ、ミヤマ大文字草、アカバナ等が点在する。
 思いもかけぬ強風に煽られながら別山を通過する。あまりの寒さのためハイマツの蔭で休憩し、身繕をする。真砂岳へと歩む途中ブロッケン現象があらわれるが、霧が舞い一瞬にして消えてしまった。真砂岳、富士ノ折立、大汝山への縦走路は山頂よりわずかに離れ、ザラザラの砂礫の登山道となっている。これまでの右下は岩礫はかりで植物といえば這いつくばるようにイワツメクサ、トウヤクリンドウのみであった。大汝山へは、縦走路を少し登ったところ、立山連峰の最高地点、大きな岩を這い登る。雄山に辿りつくと、すぐ横に雄山神社社務所が建っている。やはり山岳信仰の霊山であろうか。これまでの静寂とはうつて変わって若人はもとより子供から老人まで、沢山の人々で賑わっていた。鳥居をくぐり珪山の頂上には本社があり、三人で出かける正座し、神主が祝詞を唱え、御祓いをしお神酒を振る舞われる。無事に登頂でたことに感謝し下山する。
 下山道は、ザラザラの岩屑の道落石に注意し、雄山をあとにした。一ノ越山荘についた時にはゆっくりと休息をとりお茶、中食をいただき、石畳の道を室堂へと下る。
 大日岳コースの人達は下山していた。、トロリーバス等を乗りついで扇沢に着く、バスはもう待っていてすぐに出発する。上信越道は豊科を出たころより渋滞しており熊谷駅には大分遅れて到着した。事故もなく無事に家路につけたことに感謝した。   (堀記)