トレッキング記録 熊谷トレッキング同人 |
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2007年7〜8月 インドヒマラヤ・ミヤル谷、チャンドラタール A隊 記録 |
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A隊 行動記録 |
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07年夏 故村越元会長 7回忌トレッキング 大嶋 博 2007年7月27日(金)から約2週間の故村越元会長7回忌トレッキングに行って参りました。厳密には、2008年2月が7回忌となりますが、仏教では早くとも良いと勝手に解釈して実施いたしました。 当初先発と後発の2隊に分け、日程の重なる所で法要をと考えていましたが、先発隊8名(大嶋、高野、白根、伊藤、豊島、栗原、逸見、高橋)と後発隊2名(福田、金子)の日程を重ねることが出来ず、別々に行く事になりました。 まずマナリまでの往復の部分ですが、行きはデリーからチャンディガールまで列車を使い、帰りは最近デリーのホテルが高いのでチャンディガールの近くのナラガールという所で元城のヘリテッジリゾートと言うホテルを使いました。行きの列車利用はサービスが良く、時間も少し短縮出来ました。それより車窓から見るインドはまた一味違うものがありました。帰りのナラガールでの一泊は最後のデリーでの買い物が大変でしたが、ゆとりとお城に泊まると言う珍しい体験ができました。 トレッキングについては、花の美しいパンギ谷に入れなくなり、代替え案のミヤル谷になりました。ここもそれなりに楽しかったがやはり残念で、またの楽しみに残しておくことにしました。 「7回忌」については、あらかじめ用意していただいた"マニ石"は思っていたものより大きなもので、15キロ位の重さの石板にありがたい経文(サンスクリット)を彫り、それに森田先生が村越会長の名前と同人の名前を彫っていただきました。それを8月6日チャンドラタールの丘の上のケルン(第一)にしっかり組み込み、生前好きだったタバコと日本酒、スルメと「柿の種」等と花など供え、タウチョも飾って心を込めて供養いたしました。少し離れた第二ケルンにも行き、同じように供養いたしました。終わった後伊藤氏(蕨山の会の会長)がぽつりと"実は第1ケルンに故沢入先生の遺骨も入っている。"言われました。 それでは、二人で仲良く1杯やっているのではないかとみんなで談笑しました。マナリでの法要は街から少し離れたブータンゴンパで3人の僧侶の読経により行われました。何分同じ仏教とは言え、焼香のようなものはなくお経も全く分からず、少し期待はずれなものになりました。 |
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村越先生7回忌トレッキングに参加して 伊藤 正勝(わらび山の会) 今回のトレッキングは村越先生の法要が目的であった。私はこの計画を大嶋先生から聞き同行をお願いし加えて頂いた。 村越先生と山行を共にした事は有りませんが、行田労山、熊トレを通じて県連総会や行事等でお目にかかる程度の関りですが、山やの雰囲気を漂わす豪快な方だという印象があります。 村越ケルンには無名峰遠征の隊長だった沢入先生の遺骨も納められています。沢入先生が久喜高で山岳部顧問だった頃に私の妻が部員として3年間指導を受けた。2年前久喜高山岳部OGの先輩、沢入夫人、私の妻の3名でチャンドラタールを訪れケルンに先生の遺骨を納め、森田さんの手配で法要も出来たことで、3人はとても喜んでいた。 私はインドヒマラヤへは今まで何度となく誘われていたが、休暇が取れないことで実現出来なかった。定年でようやく行けるようになり、この度、熊トレの経験豊富な皆さんのトレッキングに同行出来、はじめてのインドヒマラヤ、おおいに楽しませてもらった。 ニューデリーからチャンディガールまでの列車の旅は4時間あまりであったが、食事が2度、お茶が出て、果物が出るなど食べ通しであった。後にこの事が胃の調子を狂わせる事になった。チャンディガールからは車での移動。インドでは普通なのだろうが私にとっては暴走運転そのもので前に車があるとクラクション鳴らし、どんどん追越を掛け突き進む。街中に入り渋滞すると少しの隙間でも入り込もうと先を争う。この恐怖の車移動も休憩で車を降りるとほっと出来た。マナリ「風来坊」には午後の9時到着、長い1日だった。 森田先生とは半年ぶりの再会で「わらび山の会」マナリ支部に来る事が出来て嬉しかった。サンペルとは久しぶりに会ったが立派な家が建ち子供も生まれとても幸せそうであった。日本でサンペルの結婚を祝う会を行なったが、全国の労山フェスタ八ヶ岳の開催と重なり私は出ることが出来なかったので再開は嬉しかった。 チャンドラタールは素晴らしい所だった。村越ケルンはCB山群、コバルトブルーの湖を見下ろす所にあった。マナリから持ってきたマニ石をケルンに固定、たばこや日本酒を供え線香を焚いて合掌。もう一つのケルン、鞍部を挟んだ隣のピークに移動したがここ4千mまで車で登ってきたせいで、短い登りにヒイヒイ苦しい思いをした。 |
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チャンドラタールの旅を終えて 逸見一恵 2002年、初めてインドへ旅立ったときの記録を読み返してみた。ずいぶん緊張していたことが分かる。同人に入会して何年も経たなかった私が、憧れのインドとはいえ「村越先生の散骨のための旅」だったからです。今回もまた、マナリで行われる七回忌の法要とチャンドラタールのケルンに会いに行くのが主目的の旅だが、何度も山行を共にした仲間との旅はのんびりしたものだった。 前回はデリーからクルまで短時間で空を飛んだが、今回はチャンディガールまで列車での移動である。止まっている板張りの列車には、通勤者だろうか大勢の人達が乗っていた。私達は「Shatabdi Express」の1等。ボーイが食事、飲み物をサービスしてくれる最高級列車に乗り込んだ。同じ車両には、ヨーロッパの家族連れとインドでは裕福な階層と思われる人々がそれぞれくつろいでいる。 しかし、走り出した車窓からは、青いテントのスラム街が続く。同じ人間としてあまりの貧富の差があることを、まざまざと見せつけられてしまった。私は、仲間と一緒に旅ができる自分の幸せをかみしめた。 森田先生の山荘アシュラムの「風来坊」は少し部屋が広くなり、隣にサンペル家が建っていたが、リンゴ畑は前のまま赤い実をつけていた。川が見え、山も見える、風が流れてくる。どんどん心が軽くなってゆく。ベットに寝転んで本を読む。目は文字を追っているが、心は外に遊んでいる。 屋上からオールドマナリの町が見える。宮田さん、井上君と3人で歩いた懐かしい町を、今回はデジカメに収めた。マナリの町もすっかりきれいになった。物乞いをする子供たちも減り、私の大嫌いな蛇使いもいなくなったが、井上君や宮田さんの背中に隠れたことが懐かしく思い出された。 チャンドラタールの丘の上の村越先生のケルンは、青い湖面を見下ろして静かに座していた。皆、思い思いに石をひろい補強し、酒、タバコ、菓子を供えた。線香の煙がゆったりと流れてゆく。氷河に覆われた山は変わりなくたたずみ、川もまた同じように流れている。何の変りもなく時を重ねている。湖めぐりをした日が懐かしい。作りたての先生のケルンに寄り添っていた、あの羊飼いは今どうしているのだろう。今回ここでは、羊の姿さえ見ることができなかった。 しかし、トレッキング中は憧れのブルーポピーに何度も逢えた。沢山の花も見ることができた。ダルベの山の急斜面では、羊の群れを遠望することもできた。ナラガール城へ泊まって、王族気分も味わった。テントの中でくだらない話をして笑い転げた。また、色々なハプニングにも出会った。道路の崩落や橋の鉄板工事で6時間近くも待たされたりしたが、今となっては楽しかったこととして思い出される。また、いつかインドに行くことが出来るだろうか。自分の年齢、体力を思うと首を傾げてしまう。でも、あのリンゴ畑を渡ってくる風には、もう一度会いたい。 |
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