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2011 インドヒマラヤ
チャンドラタールと
シス谷トレッキング

アルバム
1.記録

2.17年ぶりのインドヒマラヤ(黒澤孝)


3.4年ぶりのインドヒマラヤトレッキング(大嶋博)



【記録】

期 間  2011年7月5日(火)〜18日(月)
参加者 大嶋 博  黒澤 孝


日 程:
  7/ 5(火) 成田空港(12:30) ⇒ デリー国際空港(17:35) JL749 
  7/ 6(水) デリー(10:00) ⇒ ブンタール(11:08) ⇒ マナリ
  7/ 7(木) マナリ滞在
  7/ 8(金) マナリ ⇒ ロータンパス ⇒ チャトル
  7/ 9(土) チャトル ⇒ バタル ⇒ クザンラ ⇒ バタル
  7/10(日) バタル → チャンドラタール → バタル
  7/11(月) バタル ⇒ コクサール ⇒ シス村
  7/12(火) シス村 → シャシンキャンプ地
  7/13(水) シャシンキャンプ地 → ゲパンゴ氷河 → シャシンキャンプ地
  7/14(木) シャシンキャンプ地→シャシン村⇒シス村⇒ロータンパス⇒マナリ
  7/15(金) マナリ滞在
  7/16(土) マナリ(5:05) ⇒ デリー(19:00)
  7/17(日) デリー (ショッピング)⇒ デリー国際空港 JL740(19:35) 
  7/18(月) 成田空港(7:25) 



 2007年の故村越会長の7回忌トレッキングの後3年後位と思っていたが、4年経ってしまった事と前回のメンバーも70才の坂を越え、この辺でと思い計画した。時期は通常7月の下旬であったが、「花」を期待して7月上旬の5日(火)からとした。当初4人の予定であったが都合により私と黒澤 孝氏の2人となった。黒澤氏は1994年以来との事である。今回アシュラムではいつもの森田千里氏ではなくて、後を受けた有川夫妻が迎えてくれた。

 トレッキングのチームは、ネパールからの出稼ぎでガイドのラクパ氏とサポータ・コックの3人、ドライバー2人計6人で、しかもラクパ氏はエベレストを初め8千メートル級を4座登ったベテランでかなり贅沢であった。

 トレッキングに入って3日目の7月10日にバタルの2キロ位先から徒歩でチャンドラタールへ往復となった。湖畔に着いて3つのチョルテンの所で昼食の時、その中央のチョルテンの「マニ石」をサポータのカラン氏が見ろと言うので良く見たら、右に「熊谷トレッキング同志会」左に「村越」の文字を読み取る事が出来た。まさに行方不明の7回忌トレッキングのマニ石であった。 これは故人が引き合わせてくれたと思った。

 その後シス村に向かったが途中のコクサールから15分位行った所にロータンパスを貫くトンネル工事の現場(出口)があった。入り口はパルチャンから左に入った所で5年後には完成との事。グーグルアースで見ると確かに直線距離で10キロ強位であった。このトンネルが出来るとセントラルラホール地方は劇的な変化が起き、もはや秘境ではなくなると思った。

 シス谷のトレッキングはさらにポータを2人雇い、車の終点から約5時間位で標高3,790mのシャシン村のキャンプ地に着いた。そこは比較的平坦な所にイワツメクサに近い白い花がまるで雪のように染めていた。その中に黒い堆肥の塚が点々とあった。この谷はチャンドラタール方面より一段と花が豊である。シス村に入ってから好天に恵まれ、ゲパンゴ氷河へのトレッキングでは、氷河の舌端からさらに標高4,340mアイスフォール直下まで行く事が出来た。さらに途中幻のブルーポピーもあり、写真に納める事が出来た。 

 トレッキング終了後 マナリで黒澤氏のお陰でリグジン氏に会う事が出来た。言葉は十分通じなかったが78才になり、孫に囲まれ幸せ余生を送っていた。

 行きは飛行機であったが、帰りはタクシーとなった。4年ぶりのデリー周辺は郊外に現代的なモデルタウンが次々と出来、高速道路と地下鉄が開通してかつての東京オリンピックの頃の様であった。しかし確かに中間層は増えて豊になっているが、相変わらず街はゴミだらけで貧しい人達は一杯いた。

(大嶋記)
 行 程
 
<7/5火>
【日本時間】
 7:25 熊谷駅発
 8:51 上野駅着
 9:21 京成上野駅発
10:05 成田空港第2ターミナル着
10:30 団体カウンターにてEチケットを受け取り、荷物を預けて搭乗券を受領する。
10:40〜12:00 昼食・セキュリティチェック・出国・土産物購入等
12:05 JAL479便に搭乗 
12:45 離陸 機内にて昼食・夕食が出る。
【インド時間】
17:17 インデラガンジー国際空港着
      入国手続き・両替
18:40 アショクカントリーリゾート着
19:30〜20:10 ホテル内ラウンジにてビールと軽食
20:30 シャワーをして就寝。
<感想>
 順調にニューデリーのインデラガンジー国際空港に着いた。機内は空席が多く、比較的ゆったりと過ごすことが出来た。ルピーへの両替は2人ともそれぞれ200ドル(=8200RS)のみ行った。
 空港(ターミナル3)は、モダンで立派になっていた。空港周辺はいろいろな建設が活発で、蒸し暑くほこりっぽかった。
 
<7/6水>
 3:00 起床
 3:50 2Fレストランにて朝食;トースト、コーヒー
 4:15 空港へ出発 
 4:30 インデラガンジー国際空港ターミナル3着、ターミナル入り口でガイドと別れる。
 5:00 チェックインし、セキュリティチェックを済ませ、42番ゲートへ進む。
 6:05 IT4357便出発予定時刻、現地天候判断により遅延。以後30分毎に出発時刻変更となる。空港内の冷房が強く体が冷える。
 9:10 3時間遅れで搭乗。
10:00 搭乗後さらに50分待機してようやく離陸。
機内にてサンドイッチを購入し、昼食とする。
11:10 ブンタール空港着
11:25   〃    発 
13:00 アシュラム着
18:00 サンペル氏と打ち合わせ
19:00 夕食(ライス、カレー、みそ汁、ビール)
23:30 就寝
<感想>
 1泊目のアショクカントリーリゾートは、冷房の効きが悪く寝苦しかった。クルへの飛行機は現地天候不順のため、4時間遅れの出発となったがキャンセルとならずホットした。
 アシュラムでは、森田夫妻に替わって、有川夫妻が迎えてくれた。
・アシュラムの庭先のリンゴは春先雹がふり、ほとんど実が着いていなかった。
・チャンドラタールへの道はまだ未開通との事。
・帰りのクル−デリー便はフライトが中止となったとの事。
・マナリの外気温は25℃位で快適であった。
 
<7/7木>
 6:00 起床
 7:30 お茶
 8:00〜8:30 朝食;お粥、トースト、卵焼き、サラダ、漬け物、蜂蜜、みそ汁、
  日本茶
10:00 アシュラムを出発。上の道でオートリキシャ(60RS)を拾い、マナリの街に向かう。オートリキシャはバザールの下に着く。メインストリートは工事のため道路の中央部が大きな岩が露出していた。店を確認しながら登り、国立公園の散歩道に5RS払って入り、オールドマナリに向かう。遊歩道は静かで清潔で快適であった。
11:00 マヌテンプル着 祭りの準備をしていた。いろいろなヒンディーの神像があり、興味深い。寺から出た後黒沢氏のすすめでインターネットカフェにより、スカイプで自宅へ電話するが、留守であった。
12:30 オートリキシャで再びマナリのバザールに戻り、チョップスティックにて昼食をとる。モモ2人前、ヌードル1人前、キングフィッシャー1本で455RSであった。その後バザールを若干散策の後オートリキシャ(70RS)で帰る。
13:50 アシュラム着 その後ゆっくりと昼寝をする。
18:00 サンペル氏とガイドのラクパ氏が来てトレッキングの打ち合わせをする。トレッキングはジープ2台になった事とチャンドラタールへの道が開通しているかどうか分からないとの事であった
19:30〜20:30 夕食(ご飯、カレー、コロッケ、漬物、みそ汁、お茶)
21:30 就寝
<感想>
 今日は特に用はなく、街に出て土産物屋やオールドデリーのお寺を見る。マナリのメインストリートは掘り返され、大きな岩が露出しており、以前より埃っぽく汚かった。後で聞いたらケーブルの埋設工事の途中との事であった。オールドマナリを歩いていたら、コリア?チャイナ?・・・声をかけられたが、「ジャパン?」は出て来なかった。
 
<7/8金>
 4:30 起床 (チャイのみ)
 5:40 アシュラム出発
 5:50 アシュラム下の道路出発 
 7:15 マリー着 朝食(カレーヌードル、ビスケット、チャイ)
 8:20 マリーの上標高3500m地点でストップ。30分後動き出す。
 9:10 標高3600m地点ストップ、ここで約7時間足止めとなる。上から来る車両は軍用車のみであった。諦めて帰る車もあり、また馬で行く人も多い。みんな慣れているらしく、昼食を売る露天や焼トウモロコシ売る人もいた。私たちもオムトーストとチャイをいただく。
16:30 やっと動き出す。300m位進み、またストップ
18:40 やっと動き出す。ようやく難所を抜ける。どうやら道路拡幅工事と雨が原因らしい。
19:40 ロータンパスを通過する。標高3980m
20:25 グランプー通過。標高3340m
21:00 チャトル着 当初予定のダダルプーまで行かず、茶屋泊となる。
夕食(ベジタブルカレーとライス、チャイ)
<感想>
 7:50にマリーの茶を出発し、19:40にロータンパスを通過。この間ざっと12時間である。順調に行けば2時間と見て10時間の超過である。道路拡幅工事と軍用車優先の結果である。
 【スタッフリスト】
 ガイド;LAKPA SERPA 45才
     1991年フランス人の隊のガイドでエベレストに登頂しているとの事。この    8月にはチョウオーユに登る予定との事これまで登った8000m級登山歴 マ    ナスル、アンナプルナ、? の4座で立派なガイドである。
 コック ;GIIMI LAMA(ジミーラマ)
 サポート;KARAN TAMANG(カラン タマン)23才
 サポート;TEKCSHN TAMANG(テクチャン タマン)
1号車ドライバー;SAIRA MAGAR(サイラ マガル)
2号車ドライバー;KUMAR TAMANG(クマル タマン)
 全員ネパールのカトマンズからの出稼ぎとの事。
<見ることの出来た花>
ツリフネソウ、ウメバチソウ、ウツボクサ、フウロソウ、イチゲの仲間、アズマギク、ハナタデの仲間、ミヤマダイコンソウの仲間、オタカラコウの仲間、シオガマ、ウルップソウ、アザミ、ヤナギラン、ジャコウソウ、ワスレナグサの仲間等
 
<7/9土>
 6:00 起床
 7:00〜 朝食(トースト、エッグ、ソーセージ、トマトとタマネギの炒め物)
 7:30
 7:45〜 朝の散歩にガイドのラクパ氏と出発。途中雨となり戻る。
 8:10 茶屋にて休む。(そこにいた白人の男女は大麻らしいタバコをまわし吸いをしていた。)
 9:10 チャトルを出発。
10:40 バタル着 茶屋にて休憩 チャイを飲む。標高3,970m
この間スタッフはテントを設営する。
11:50 クンザンラへ向け出発。
12:30 クンザンラ着(標高4,470m)
チョルテンを見て、記念写真を撮った後クンザンピークの方へ40分位トレッキングする。景色や花の写真を撮る。標高4,530mまで登る。
13:50 クンザンラ出発
14:40 バタル着
15:30〜 遅い昼食(トースト、ベーコン、ジャガイモとピーマンのサラダ、チャイ、みそ汁)
19:30〜20:00 夕食(ダルカレー、ホウレンソウカレー、ライス、ベジカレー、パイナップルとクリームのスウィート)
21:30 就寝
<感想>
 天候は、一日中曇で時々小雨。チャンドラタールへ行くためバタル泊となる。バタルは標高が高く、バラシグリからの風が冷たい。
 クンザンラは時期が早いためか残雪が一杯残っていた。
<ショートトレッキングで見た花>
 バラ科で黄色い花、ワスレナグサに近い青い花、エーデルワイス多数、黄色い小花の一杯着いた花、紫色でアズマギクに近い花


<7/10日>
 5:00 起床 チャイ
 5:30〜6:00 朝食(チャパティー、ジャム、コーヒー)
 6:30 バタルのテント場をジープで出発。
 6:45 徒歩出発点着(標高4,095m)※この先道路崩壊のためジープ通行不可。基本的に平坦な道を4回位休憩し、約4時間10分でチャンドラータールに着いた。
10:50 チャンドラタール着
湖畔のケルンの所で昼食とする。(サンドイッチ、ポテト、ゆで卵、ジュース他)
3つのケルンの中央に私たちが村越先生の7回忌にセットしたマニ石が飾ってあるのをスタッフが発見した。
11:40 湖畔を出発。
12:00 村越ケルンに行き、お酒をかけ、タウチョを飾り、線香をあげる。
12:10 ケルンを出発。
 来た道をやはり4回位休憩し、約4時間でジープに戻る。
16:10 出発点に戻る。ここでジープに乗る。
16:25 バタルのテント場着
19:30〜20:00 夕食(焼きそば、スープ、マンゴー、チャイ)
21:00 就寝
<感想>
 天候が良くなり、写真が撮れた。しかし チャンドラタール往復20キロのトレッキングは厳しかった。結局休憩を含め10時間弱かかった。黒澤氏はかなり疲れたようであった。多くのトレッカーは、出発点から6〜7キロのキャンプサイトに泊まり、チャンドラタールへ行ってくる人が大部分であった。
 チャンドラタールの湖畔にある大きな3つのケルンの中央の大きなケルンの上部に私たちが2007年に村越ケルンにセットしたマニ石(行方不明になっていた。)が飾ってあるのをスタッフのカラン氏が発見した。右に「熊谷トレッキング同志会」、左に「村越」とあるのを確認して写真に納める。
 その後丘の上に登り、村越ケルンを探す。湖に向かって2つの内左のケルンにお酒を手向け、タウチョをセットし、線香を上げることが出来た。
 



<7/11月>
 5:20 起床 チャイ
 6:20 朝食(卵焼き、たらし焼、チャイ)
 7:30 バタル出発
 8:30 チョタダラ通過
 9:00 ダダルプー通過
 9:30 チャトル着 茶店にて休憩 チャイ (標高3350m)
10:40 グランプー通過
11:00 コクサール着パスポートチェック、軽食(モモ、チャイ)(標高3150m)
11:35 ロータンを貫くトンネル工事入り口通過
12:00 シス村キャンプ地着
昼食(サンドウィッチ、ゆで卵、ポテト、チャイ)
14:45〜15:40 シス村のヒンディーテンプルを参拝
19:00 夕食(モモ、他)
<感想>
 本日の行動予定は、シス村の上のシャシン村の先のキャンプ地であったが、変更してシス村のキャンプ場でゆっくり休むことになった。
 コクサールから5分位走った所の対岸にマナリに抜けるトンネル工事の入り口が見えた。完成まで何年かかるか分からないが、ロータンパスの難所越えが解消され、この地域は大きな変化が訪れるだろう。シスのキャンプ地近くにヘリポートと周囲1キロ位の池があり、ここで魚の養殖が行われているとの事。キャンプ地から2キロ位離れたヒンディーテンプルを参拝した。1人10RSのお布施で、腕にまく小さな白い布=カタとプラサートという金平糖のようなお菓子をいただき、さらに赤い「チカ」付けて貰った。
 キャンプ地はポプラの木立囲まれ、通り抜ける風は日本の高原ようでさわやかであった。
 キャンプ地のすぐ脇にジャガイモ畑があり、畝の作り方迷路のようでそこに灌漑用水を
流していた。それが手の込んだ合理的な植え付けで大変興味を持った。
 
<7/12火>
 5:30 起床・チャイ
 7:00〜朝食(チャパティ、卵焼き、ソーセージ、トウモロコシの粉をふかしもの、 7:30    チャイ)
 8:00 キャンプ場を出発。
 8:25 ジープで出発点着(標高3,370m)
ここで準備をし、ポーターを含めて出発。途中3回休憩し、2時間20分でキャンプ地に着いた
11:00 シャシンキャンプ地着(標高3,790m)
キャンプ地はイワツメクサに近い花がまるで雪のように白く染めていた。
13:00 2人のポーターが到着。
15:00 遅い昼食(チャイ、ビスケット、カレーヌードル)
19:20〜(チャイ、ダルカレー、ベジタブルカレー、スウィート) 
19:50 
暗くなって羊の集団が集まってきて賑やかになる。
22:00 就寝
<感想>
 トレッキングに入って5日目早いもので残り2日間となった。二人とも高度に慣れ調子が良い。
 総体的に見てシス谷はバタルやチャンドラタールより花が豊かである。
ウメバチソウ、ウツボクサ、フウロソウ、イチゲの仲間、アズマギク、ハナタデの仲間、ミヤマダイコンソウ、オタカラコウの仲間、ブルーポピー、シオガマ、ウルップソウ、アザミ、ヤナギラン、ジャコウソウ、ワスレナグサの仲間等
  シス谷は標高3,400m位まで畑があり、エンドウ・ジャガイモ・裸麦が栽培されていた。この中で換金作物はエンドウのみで作付も多かった。灌漑農業で氷河の近くから水路を引いていた。標高3,400〜4,000m位までは羊の放牧をしていた。
 
<7/13水>
 5:30 起床
 6:50 朝食(揚げチャパティ、ウィンナー、卵焼き、トマト)
 7:50 トレッキング出発(ラクパ、カラン、テクチャン同行)標高3800m
 8:20 ゲパンゴーピーク顔を出す。標高3820m
 8:50 標高3865m
 9:00 標高3920m
10:15 標高4175m 休憩 ゲパンゴ氷河が見える。
11:10 標高4230m 氷河上に出る。
11:50 標高4340m ゲパンゴ氷河アイスフォール直下
12:10 標高4335m 昼食(氷河右岸モレーンの上) 
13:40 標高3775m
14:38 水場
14:50 キャンプ地
15:00 間食(スパゲッティー)
19:00 夕食(スープ、マカロニ、リンゴ、チャイ)
<感想>
 黒澤のカメラが昨日の記念写真の時バッテリーアウトになってしまったので、大嶋のサブカメラを使うこととなった。
 シャシンのキャンプ地は広々とした草原で、白い花が絨毯のように咲いていた。羊や馬の宿営地にもなっており、何カ所か堆肥の黒い塚があった。その近くにテントを張った。
 ルートは斜面に沿って緩やかに登り、尾根を越えた所でゲパンゴピークが顔を出した。
そこから少し高度を上げて水路に沿って進む。この水路は村に続いており、溝の中に太い塩ビ管が通してあった。水路ルートが終わる頃「ブルーポピー」に今回はじめてお目にかかることが出来た。
 氷河からの沢を渡渉せず、左岸を登る。ゲパンゴ氷河の全体を見通せる所(標高4175m)で休憩し、記念写真も撮る。ガイドのラクパ氏はここまでと思っていたが、私たちの要望でさらに進み、歩きにくいモレインを50分位登り、氷河上に出る。さらに氷河上を進み、アイスフォール直下まで行くことが出来た。
 資料によるとゲパンゴピークは標高5870mで、地元ではホリーピークになっているため登山禁止と書いてあった。
 その後少し下ったモレーンの上で昼食を食べる。帰りは沢の右岸を下り、スノーブリッジを渡ってキャンプ地に戻った。
 
 
 
<7/14木>
 5:30 起床、チャイ
 6:30 朝食(揚げパン、卵焼き、コーヒー)
 〜6:50 村からポータ2人登ってくる。
 7:15 キャンプ地出発
 8:35 シス村上部のジープの所に着く。
 9:00 ポーターとスタッフにチップ渡し、出発。
 9:25 下の国道に出る。
 9:45 コクサール着(パスポートチェック)休憩
10:00   〃  発
11:00 ロータンパス着 峠の茶屋にてチャイとスープをいただく。
峠の所にあるテンプルに参拝する。ヒンディーの神が祭ってあり、水が湧いていた。日本人の長谷川氏に会う。
11:45 長谷川氏を乗せて峠を出発。
12:02 渋滞地帯に入る。全く動かない状態でなく、のろのろ運転の状態で進む。
13:30 マリー着 チャイとスープをいただく。初めて日本人の2グループに会う。
14:11 マリー発
15:00 コチ通過
15:30 アシュラム着。下の道から登る。
17:00〜18:00 久しぶりにバシスト温泉に行ってくる。
19:00〜20:00 夕食 労山女性委員会のグループの人達と交流する。
<感想>
 トレッキングの最終日である。シャシン村のキャンプ地からジープの所までの途中鳥葬の場所を教えてもらう。もう一カ所ゲパンゴ氷河の下の方でも鳥葬の場所と言っていたが、こんな山奥でと疑問を持ったが、この場所は納得ゆく所にあった。
 コクサールの近くでロータントンネルの工事が始まっていた。入り口はパルチャンから左に入った所(コチと反対方向)で5年後に完成予定との事。グーグルアースで見ると確かに直線距離で10キロ強位であった。このトンネルが完成するとこのセントラルラホール地方は劇的変化が起きることであろう。しかし今はマリーの上部で道路の拡幅工事をやっており、それに雨が加わりどろんこ道となり激しい渋滞が続いていた。
 ロータンパスで日本人の長谷川氏と会う。彼はロータンからマリーへ行く予定だと言う事なので私たちのジープに同乗した。彼は6月20日に日本を出てインドを一人で歩いているとの事。2ヶ月も滞在する予定で、友人が7月20日頃来るのでマナリに向かう予定であると言っていた。約束通りマリーで分かれる。
 アシュラムに戻ったら、全国労山女性委員会の5人のグループと一緒になった。その内の4人のグループは、スピティーからピン川を溯り、5300mの峠を越えてサングラ方面に下り、またスピティーを通って帰って来たとの事。もう一人の80才の女性はクンザンラよりクンザンピーク(5300m)に登り、シス村に寄って帰ってきたとのこと。何れも女性パワーは凄いと感心した。アシュラムの夕食はビールあり、日本食ありで久しぶりに飲み且つ食べた。
<7/15金>
 6:30 起床
 8:00 黒澤バシストへ朝風呂に行く。
 8:00 朝食(お粥、パン、卵焼き、みそ汁)
 9:00 マナリで買い物(雨の中それぞれ買い物をする。)
11:00〜12:10 黒澤リグジン宅訪問
12:30 チョップスティックにて昼食(モモとヌードル)
14:00〜15:30 大嶋と黒澤でリグジン宅訪問。
17:00 黒澤バシスト温泉へ
19:00 夕食
21:00 就寝
<感想>
 アシュラムの2階談話室にある座布団を一目惚れした黒澤は、マナリの商店街で同じものを探すがどうしても見つからない。そこで「座布団の作り」から見てお坊さん用とにらみ、リグジンさんに頼もうと記憶を頼りに家を探す。やっと探したニンマゴンパの入り口で聞いたらすぐ案内してくれた。リグジン氏は快くあっていただき、昔話に花が咲いた。 座布団の件を話すと奥さんがすぐ手配に行った。その間リグジン氏は最上階の仏間に案内してくれた。仏間の中はお寺の中のように立派に飾り付けてあり、リンポチェの座る席とか、ダライラマがマナリに来たとき座った椅子など見せてくれた。下に下りると座布団が用意してあった。後で聞くと奥さんの弟が作っているのだと聞いた。
 昼食後今度は二人で再びリグジン宅を訪問。彼は78才になり、孫に囲まれ幸せそのものであった。
 
<7/16土>
 4:00 起床
 4:30 チャイをいただく。
 5:05 アシュラムを出発。(トヨタイノバ)
 6:00 ビンダロールという所でスタッフがリンゴを買う。
 6:00 クル通過。
 6:25 ブンタール通過。
 7:25 マンディー通過。
 8:00〜9:00 朝食(コーヒー、ハルマキ、チキン唐揚げ)
山道が続く。
11:00 ヒルトップレストラン通過
11:30 山地を抜ける。
チャンディガール手前80キロで4車線の高速道路の様な道となる。
12:00 チャンディガールまで45キロ地点
12:07 料金所通過
13:30 アンバラ通過
14:00〜14:45 昼食(チャイ、ナン、スープ、チキン・ベジカレー、タンドリ   ーチキン) 
14:55 シャハラバード通過
16:25 カロンダ通過
16:40 パニパット通過
16:45 ソネパット通過
19:00 メトロポリタンホテル着
19:45〜20:45 コンノートプレス付近を歩いてみる。
21:00〜21:30ホテルにて夕食(ヤサイイタメ、ラーメン、カツドン、ビール)
23:30 就寝 
<感想>
 早朝マナリを出発。1時間20分でブンタール通過、2時間20分でマンディを通過し、順調に進む。8時に朝食を摂るが自費となる。クレームを付けると昼食は入っているが朝食は入っていないとの事であった。その後約2時間ほぼ標高800m〜1000mのアップダウンの山道を進む。遅いトラックの追い越しの連続のため緊張し、疲れる。
 山地を抜けるとまもなく4車線の高速道路のような快適な道となる。新しくできた道である。アンバラを過ぎてから国道1号線に入り、4車線の道を快適に走る。4年前は市街地に入ると高架化の工事中で渋滞したが、今回その内の半分位工事は完了し順調に走れた。
 山地を抜けてから3回位料金所があったが、有料だからと言って良い道ではなかった。一定の地域の通行料の様である。
 ニューデリーの郊外40キロ位にモデルタウンが次々と出来、それが地下鉄や高速道路とつながっているようである。
 
<7/17日>
 7:00 起床 
 8:00 朝食(バイキングスタイル)
 9:30 ホテル徒歩で出発
10:00 コンノートプレス;日曜日のため政府物産館及び商店街休み
   ↓
 ショッピング(客引きの案内)2カ所
11:00〜11:30 ジャンタルマンタル見学
 <各々ショッピング>
13:00 ホテル着
16:00 ホテル発
16:35 インデラガンジー国際空港ターミナル3着
17:00 空港チェックイン
17:25 出国手続き→セキュリティチェック
17:30〜18:20 土産物最後の購入
19:05 JL740便に搭乗
20:10 離陸
<感想>
 今日はデリーでのショッピングの予定だが、日曜日は政府の物産館・州政府の物産館や商店街も休みと言う事で困った。とにかくコンノートプレスに行く。ジャンパスストリートで客引きの案内でオープンしている土産物屋に入るが高いので買わずに出る。その後オートリキシャでレッドフォートへ50RSと言う約束で乗る。直後若い客引きが乗ってきて彼の案内の土産店にてショッピングをする。再び待っていたオートリキシャでジャンタルマンタルで下りた。運転手は200RSとふっかけて来たが、100RS渡して離れた。
 ジャンタルメンタルは各100RS払って入園する。ここはインドの古天文台で中に入ったら説明する人が付いてきたので案内してもらった。知識不足と語学不足のため十分に理解できなかった。結局最後に「バクシッシ」言ったので100RS払う。
 その後コンノートプレスで黒澤氏と別れ、コンノート一周しようと思い歩く。途中前回寄った「ザミラノ」によりベルトと財布を購入する。
 
<7/18月>
【日本時間】
 6:58 成田空港着
 7:15 入国審査・税関通過
 8:18 スカイライナー
 9:00 京成上野駅
 9:29 JR上野駅
10:29 熊谷着 






17年ぶりのインドヒマラヤ
   黒澤 孝


 定年退職をむかえて3年目。17年ぶり4度目のインドヒマラヤに行って来ました。村越先生がお亡くなりになってもう10年がたとうとしてます。仕事の都合で先生の葬儀に参列しただけで熊トレともずっとご無沙汰してしまいました。健康維持のため出来るだけ一日一時間以上の散歩を心がけてきましたたが登山らしい登山はほとんどしないままでしたが、インドヒマラヤへの思いは持ち続け、村越先生の墓参も兼ねたトレッキングがやっと実現しました。トレッキングは大嶋さんと二人だけのものとなりましたが、私としては期待を超えたすばらしいトレッキングとなりました。

 マナリへのアプローチでは今回初めて飛行機を利用しました。早朝出発予定の飛行機は天候の影響で4時間遅れて午前11時ブンタール飛行場に到着しました。4時間遅れと言っても午後1時にはアシュラムのテラスで歓迎のビールを戴いていたのですからこれまでデリーからマナリまで車で20時間もかかったことを考えるとあっという間のことです。

 今年からアシュラムの管理人が森田さんから有川さんに引き継がれました。有川さんは勤めていた旅行会社を辞めこの5月頃から奥さんとまだ小さな娘さんと3人でアシュラムを管理しています。その有川さんから帰りの飛行機は飛ばないとの連絡が入っているとの話。実際デリーまでの帰りは自動車になりました。私としては、飛行機は楽でいいのですが、17年間の間にインドがどう変わったのか見てみたいという気がありましたので、内心自動車は歓迎でした。そのデリーまでの帰り道は道路が平野部に入ると高速道路となりマナリを出てから約13時間でデリーに着きました。20時間前後もかかった17年前からは大分改善されたことになりますが、街中を通らない高速道路では車窓から見た風景には強烈な「インドらしさ」が感じられず味気なく期待半減となってしまいました。

 マナリの中心街は基本的に以前のままの様子でしたが、周辺地域は大小新しいホテルが立ち並び観光開発が進んでいました。ロータントンネルの工事もしておりこのトンネルが完成し周辺道路も改修されるとなると今後この周辺は大きく変貌していくのかなと感じました。

 トレキング前半はチャンドラタール往復。当初の予定ではタダルプーを幕営地にしてここを起点にチャトル谷の散策で高度順化を図り翌日ジープでクンザンラまで上がりそこからチャンドラタールを目指してトレッキング。ジープがチャンドラタールまで向かえに来てタダルプーまで戻る計画でしたが道路崩壊でチャンドラタールまで車が入れないということとチャトル周辺が雨模様だということで幕営地をバタルに進めそこを起点としたトレッキングに変更しました。バタルに着いてすぐジープでクンザンラまで上がりそこで写真を撮ったりしながら一時間ほどの高度順化を図りました。

 トレッキング初日のチャトルでの夕食から高度障害ですっかり食欲を無くしていました。これまで高度障害は頭痛と食欲に現れましたが今回は食欲のみで頭痛はありませんでした。食事は食べるのが精一杯で作ってくれる人に申し訳ないと思いながらもいつも半分以上残してしまう始末でトレッキング中ずっとこの状態でした。

 翌日はいよいよチャンドラタールトレッキング。行けるところまではジープでと先を進めましたがクンザンラとの分岐から1キロも進まないうちに道路が崩れた現場に到着。ここからチャンドラタール往復のトレッキング。片道約10キロ。道はチャンドラ川に沿ってのなだらかな道ですが、歩くのになかなか調子が出せず辛い歩きになりました。チャンドラタールが近づいて登りが続く所で急にバテがきて、チャンドラタールにやっとのことたどり着いたところですっかりへたり込んでしまいました。

 しばらくボーっとしてると突然頭上で「村越さんのマニ石があった」と大嶋さんの声。なんと行方不明になっていた村越先生のマニ石が私のへたり込んでいたすぐ脇のケルンに祀られていたのでした。今回のトレキングではこのマニ石を探すのも目的の一つになっていましたがあっという間の解決となりました。もしや村越先生がすっかりご無沙汰していた私に会いに来てくれたのかもしれません。感慨深い思い出となりました。バテはなかなかとれませんでしたが帰りも何とか自力で歩きました。下りの時はスッスと足が出てどんどん先に進めるのですが、登りは勿論平坦になっただけでもととたんに足が重くなって前に進むのが大変になりました。そんなときはガイドの肩を借りてちょっと歩くだけ足が軽くなるのでこれを繰り返しやっとジープの待っている場所まで歩ききることが出来ました。

 一夜明けて後半のトレッキングのためシスー谷へ車で移動。計画ではゲパンゴー氷河に向かう尾根上のキャンプ地まで行く予定でしたが、私の疲労回復を図ることでシスーフォールがすぐ目の前に見えるチャンドラ河沿いにテントを張り休息日としました。

 夕食前、シスー村にあるお寺を訪問しました。このお寺はゲパンラガという名前で我々が目指す氷河の主峰ゲパンゴーの名前を冠した寺で、ゲパンゴー峰はホーリーピークのため登山禁止だそうです。後半のトレッキングはシスー村を起点にして2泊3日の登山。シスーキャンプ地が標高約3000メートル目指す氷河舌端が約4300メートルで標高差約1300メートルの登山となりました。この高度差と期間で見ると私のヒマラヤトレッキング歴で一番きつい内容でしたが、一日休息したことですっかり疲れがとれたのと高所への順応が進んだのかゲパンゴー氷河舌端を目指す後半のトレッキングは快調に過ごすことが出来ました。それでも食欲だけは不振のままでしたが。

 一日目登り初めて最初に休憩をとったすぐ近くにのろし台のようになっているところがありましたが下山の時これは鳥葬を行う場だと聞きました。シスー村を見渡せる場にありました。見方を変えれば村からよく見える場所。人の葬り方はいろいろある中で鳥葬は残酷な方法と思って来ましたが、大自然に囲まれたこの場所を見て、鳥葬の日、大空のもと大きな鳥が悠々とその周りを舞い、村人がそれを村から眺めながら弔っている姿を想像すると密室で一人焼かれるよりずっといいかな思いました。それにしても鳥葬がこんなに身近なところで行われているとは思いもよらなかったことでした。

 トレッキングでのキャンプ地は標高3800メートルほどでシスー谷左岸の崖の上の草原です。夜は放牧から帰った羊たちもテントの周りで休みました。2日目ゲパンゴー氷河舌端往復のトレッキングです。昨日登ってきた尾根道の続きをさらに先に進みますがここから先はゲパンゴーの尾根を巻く崖道に変わりました。この崖道を1時間ほど進んだところでやっとゲパンゴー峰をが姿を現しました。マッターホルンのような山容で万年雪に被われ朝日に輝いて感激の一瞬でした。

 この後またゲパンゴーは氷河から流れる沢を登り始めるまで山陰に遮られ見えなくなりましたが、ブルーポピーが岩の上に咲いているのが見られました。今回トレッキングで唯一のブルーポピーでした。ゲパンゴー峰はシスー谷奥の右奥にあり手前の山が遮っているためシスー村から眺めることは出来ません。ロータンパスから眺めることが出来るようですが、往復とも雨模様の中見ることは出来ませんでした。キャンプ地を出発してから約4時間、氷河舌端に到着。記念写真を撮るなどしばらく過ごしてから、右岸側もレーンを超えたところで昼食。

 帰りは氷河から流れ出る沢の右岸側をシスー谷へ向かって下る。かなり下った所にまた鳥葬をするのろし台のような岩山。ここを少し下った所から崖をトレースしキャンプ地に向かいました。3日目はシスー村に下山。後はマナリまでまっしぐらです。ロータンパスは雨になりましたが行きと違って道は順調。午後3時半にはアシュラム下に到着。トレッキングをサポートしてくれたガイド達とはあっさりとお別れしましたが、トレッキング中撮った写真はマナリの写真屋で焼いてサンペル君に渡してくれるよう託しました。

 汗を流しにバシストの温泉へ。大嶋さんは気味悪がってこの時しか入りませんでしたが、私はこのあと翌日に朝風呂と夕方の風呂の2回も入りました。一緒に入る人を見ると気にならないではありませんがお湯はどうどう流れ込んでいますので気にしないようにしました。夕食は手巻き寿司でした。腹一杯おいしく食べられてトレッキング中の食欲不振が嘘のようでした。

 トレッキングの翌日リグジンさんの家を訪問しました。もう30年も前になる初めてのヒマラヤトレッキングでのガイド。その30年前に一度訪れた記憶を頼りにリグジンさんの家近くのお寺を探し、お寺の前でリグジンさんのことを尋ねるとすぐに家まで案内してくれました。まず奥さんが出迎えてくれました。ちょっとぽっちゃりとしていて柔和で話しやすい方でした。まもなくリグジンさんが姿を見せました。全体的にふっくらとしてきていてかつての精悍さはありませんでしたがお元気な様子でした。私のことを覚えているはずもなく、自己紹介では森田先生、村越先生との関係者だと話してもいまいち怪訝そうだったので、30年前まだ子供だったサンペル君を連れてのトレッキングに一緒に行ったことを話したときやっと合点がいった感じでリグジンさんの顔が一気にほぐれぐっと会話が進むようになりました。

 後でサンペル君に聞くと、子供の時トレッキングに連れて行ってもらったのはこの一回だけだったそうなのでリグジンさんにも思い出深いトレッキングだったのでしょう。リグジンさんの家は大きなL字型の4階建、1、2階は人に貸している様子で3階が住居でした。リグジンさんは敬虔な仏教徒で4階には立派な仏間がありそこにも案内してくれました。仏間の隅にシーツが掛けられた椅子が一脚おいてありましたが、以前ダライラマがマナリに来たとき使った椅子だそうです。仏間は仏間というよりお寺の中といった作りでした。リグジンさん78才、奥さんは65才。リグジンさんの語尾に独特の抑揚で「ノォ」が付く話し方は昔のまんまでした。

 リグジンさんにも会え今回のトレッキングで大きな心残り消え定年退職後の一区切りが付きました。次にインドヒマラヤを訪れるときはもっと時間をかけた無駄の多いのんびりとした旅にしてみたいと考えています。




4年ぶりのインドヒマラヤトレッキング

大嶋 博

 2007年の故村越会長の7回忌トレッキングの後3年後位と思っていたが、4年経ってしまった事と前回のメンバーも70才の坂を越え、この辺でと思い計画した。時期は通常7月の下旬であったが、「花」を期待して7月上旬の5日(火)からとした。当初4人の予定であったが都合により私と黒澤孝氏の2人となった。黒澤氏は1994年以来との事である。今回アシュラムではいつもの森田千里氏ではなくて、後を受けた有川夫妻が迎えてくれた。

 トレッキングのチームは、ネパールからの出稼ぎでガイドのラクパ氏とサポータ・コックの3人、ドライバー2人計6人で、しかもラクパ氏はエベレストを初め8千メートル級を4座登ったベテランでもったいない感じであった。

 トレッキングに入って3日目の7月10日にバタルの2キロ位先道路崩壊地点から徒歩でチャンドラタールへ往復となった。湖畔に着いて3つのチョルテンの所で昼食の時、その中央のチョルテンの「マニ石」をサポータのカラン氏が見ろと言うので良く見たら、右に「熊谷トレッキング同志会」左に「村越」の文字を読み取る事が出来た。まさに行方不明の7回忌トレッキングのマニ石であった。 これは故人が引き合わせてくれたと思った。

 その後シス村に向かったが途中のコクサールから15分位行った所にロータンパスを貫くトンネル工事の現場(出口)があった。入り口はパルチャンから左に入った所で5年後には完成との事。グーグルアースで見ると確かに直線距離で10キロ強位であった。このトンネルが出来るとセントラルラホール地方は劇的な変化が起き、もはや秘境ではなくなると思った。

 シス谷のトレッキングはさらにポータを2人雇い、車の終点から約5時間位で標高3,790mのシャシン村のキャンプ地に着いた。そこは比較的平坦な所にイワツメクサに近い白い花がまるで雪のように染めていた。その中に黒い堆肥の塚が点々とあった。この谷はチャンドラタール方面より一段と花が豊かである。シス谷に入ってから好天に恵まれ、ゲパンゴ氷河へのトレッキングでは、氷河の舌端からさらに標高4,340mアイスフォール直下まで行く事が出来た。さらに途中幻のブルーポピーもあり、写真に納める事が出来た。 

 トレッキング終了後 マナリで黒澤氏のお陰でリグジン氏に会う事が出来た。言葉は十分通じなかったが78才になり、孫に囲まれ幸せ余生を送っていた。

 行きは飛行機であったが、帰りはタクシーとなった。4年ぶりのデリー周辺は郊外に現代的なモデルタウンが次々と出来、高速道路と地下鉄が開通してかつての東京オリンピックの頃の様であった。しかし確かに中間層は増えて豊かになっているが、相変わらず街はゴミだらけで貧しい人達は一杯いた。