南インド二人旅、出たとこ勝負
松 本 和 也
*再びインドへ
一昨年、僕が初めての海外旅行で初めてインドを訪れて思った事は、”人間なんて地球上にヘバリっついて生活する生き物の一種類にすぎないんだな”ってことと、”あらゆる物が、しっかり混在しているインドという国は、ある意味で桃源郷なのかな”ってこと。そして僕が次にインドを訪れるときは、インドの街を歩き回り、もう一歩インドに踏み込みたい、と、いうようなことを心に感じた。
幸いにも、今年、早くもそのチャンスがやってきた。熊高山岳部以来、あっちこっち行動を共にしている親友の一人である青木君と、2人で南インドを旅することを決めたのだ。なぜ南か?というと、アーリア人の侵入によりイスラム文化の影響を受けた北インドに対して、純粋ヒンズー、ドゥラビィダ文化を継承する南インドを自分なりに比較したかったから・・・というのではなく、実は昨年北に行ったから今年は南へ、という程度の動機がホンネの所であるが・・・。
*前途多難
出発日前日、青木君から電話。最終確認を行う。お互いインドは経験済みだが、二人旅となると、これから未知の地を訪れるかのような期待感と不安がある。英語など不安だらけ。まあ、行けばなんとかなる、と開き直って受話器を置いた。
出発当日、12:55 僕たちの乗ったAI301便は成田空港を離陸した。飛行機は、東京―デリー間7400qを7時間35分で飛ぶ。インド時間5:11デリー空港に着陸する。1年ぶりに訪れたインドは、やっぱり香辛料の匂いがした。
デリー空港内銀行で、取り敢えず500$をルピーへ換金したのだが、どうも昨年と様子が違い、正確な両替をテキパキとしてくれた。思い起こすとエアーインディアもチェックが厳しくなっていたようだ。預ける荷物は20sまで、というのは変わらずだったが、手荷物も5s以下の規制ができていた。もっとも、僕のも青木君のも10sはあったと思われる。
空港からカニシカホテルまで、あらかじめタクシーチケットを買ってからタクシーで向かう。面倒な値段交渉を避けるためだ。そして、ようやく二人旅がスタートしたことを実感する。実は、サンジャイ氏が、気を利かせて出迎えをおくってくれたらしいのだが、僕らはそれに気付かず勝手にタクシーに乗ってしまったようだ。
その晩、サンジャイ氏の紹介してくれたコンノートプレイスの中華料理店ZENで翌日からの旅の前夜祭をした。大変高級そうなレストランで、僕ら2人は浮いてしまい少々恥ずかしかったが、インドビール・ブラック・ラベルの美味とスイートコーンチキンスープの美味しさを知る事ができた。
翌朝カニシカのコーヒーショップで朝食。ところが、注文したハムエッグが出されないまま料金をしっかり請求された。2人して頭にきて30分以上文句をたれたが、面倒になってあきらめた。スゲームカツク!前途多難である。
*インドの国内便
その日の午後、お世話になったサンジャイ氏に挨拶を済ませ空港へ向かったが、国内線初心者同士で僕も青木君も浮き足立ってしまった。とりあえず関係者らしい人をつかまえて、何故ICが表示にでないのか聞いてみると「ここじゃねーよ」と言う。「何、じゃあどこだい!」と聞くと、「バンガロール行きのICはターミナルA―1だ。5分で行けるよ、お前の足で。」と言われた。どうやら間違えたらしい。少しせかされた感もあり、走っていったので汗だくだくでハアハア言ってしまった。荷物を機内預けにして早急にチェックインを済ませる。2人でコーヒーを飲み心を落ち着けて、”地球の歩き方”を広げてみると、荷物の再確認・・・というのが書いてある。慌てて再確認をしに行く。インドの国内線では、積み込まれる荷物の行き先をちゃんと本人から確認するのだ。以外と丁寧だ。このとき初めて知ったのだ。全くもって出たとこ勝負であり、前途多難である。
搭乗してから離陸までが長く、エアコンが効いていない。熱い。しかも離陸は怖い。もう国内線は乗りたくないと思う。ちなみに機種はエアバス320で機内食はそこそこ、デリー―バンガロール間を2時間半で結び、インディラガンディー空港と同じ滑走路を使うとのこと。
*バンガロールとマイソール
バンガロールとマイソールは、セットで観光するものという認識がお互いの町の人々にあるようで、お互いの町のことを良く知っていて一生懸命に説明してくれたり、案内してやるよという人が多い。南の人々は親切な人が多いが、それだけではなく”セットで見るもんだ”という意識があるように感じた。
(1)バンガロールは、エレクトロニクス・ハイテクで有名な都市であり近くにサイババもいる。空港出口で薔薇の花を配っている。シャレた街である。空港を出ると凄まじいばかりの人だかりで、あっちこっちから人が寄ってきて勝手に人の荷物をつかむ。ここで知り合ったスダールサン氏は、真っ暗の町に着いて泊まるところも決まってない僕らのエスコートを買って出てくれた。最初は疑心暗鬼で警戒していたのだが、僕らが彼の家に連れ込まれ神経をとがらせていると、親身になって安くていいホテルを探してくれた。スダールサン氏は会社経営をしているお金持ちのようで、そのことが僕らをほっとさせたのだが、ソニーのビデオカメラまで持っているのには驚いた。ホテルは、駅から0.5qの近さのKAMAT.YATRINIVASに決まった。また彼は、翌日の行程のアレンジ&ヘルプを主張し、やや強引であったが結局申し出を受け入れた。
翌朝申し出通り、彼の運転手のマニーさんが迎えにきてくれた。マニーさん付き添いで駅に行き列車のBOOKINGのやり方を学ぶ。そして半ば強引にツアー会社を紹介され、そこでバンガロールの半日ツアーとマイソールのホテルの予約まで済ませてしまう。予定ではその日はマイソール往復だが、翌日マイソール発マドラス行きのSATABDI.EXPに乗り、今日はマイソールに泊まるのがBESTとの助言を得たためだ。ツアーでは、ティープースルターン宮殿、ブル寺院、カボン公園、政庁ビル、裁判所・・・などの観光スポットを効率よく回る事ができた。バンガロールの町並みはいかにもインドという感じだが、物的にはとても豊かである。スゴイ。スズキの四駆にも出会った。ツアーというのは僕らの考える”出たとこ勝負式”とはちょっと違う気がしたが、出会った人の親切を素直に受けるのもまた旅か!などと思い直した。実際スダールサン氏等は、お礼を要求するわけでもなく本当に親切にしてくれ、感謝感謝である。
(2)午後、列車でマイソールに向かう。予約の必要もなく車内も空席が多かった。2等、A/C.chair.classは陽射し避けのフィルターが付いていて景色が見づらい。しかし列車から見る景色は全て新鮮で、気分はテレビ朝日の”世界の車窓から”である。
マイソールに着き、既にBOOKINGしてあるシッダルト・ホテルにチェックインする。しかし、すぐさま部屋に電話が鳴り、300Rsでブリンダーヴァン公園までツアーコンダクトしてやるという。さらに明日もアレンジしてやるという。”着いたばかりで落ちつかねーな”と思い、全部断ろうと思ったが、取り敢えず公園だけ行くことにし、明日は自分達だけで観光することを強く主張する。公園まで、これぞデカン高原と言った景色が続く。いい感じだ。公園は広大で美しい。ライトアップされた噴水など見ているとインドにいることを忘れる。地元の人も自慢にしているようだ。
翌朝観光タクシーをチャーターしてチャームンディーの丘を目指す。頂上には、7層のドラヴィダ様式の立派な寺院がある。景色も良くマイソールの町が一望できる。が、変な案内親父にボッたくられムッとする。帰りにマハラジャ宮殿に寄ってもらいタクシーとさよならする。想像以上に豪華絢爛な建物だ。トビラには超細密な細工、柱はギンギラギン、床は総タイルに総大理石。1897年から16年かけて造ったというだけあってムカツクほど派手である。だてにマハラジャは名乗ってないとつくづく思う。
時間があまり、マイソール中心街&バザールをさまよい歩く。バンガロールでもそうであったが、ここも物が豊かである。大した物だ。もう一つ気付いたことに、この町には一般のタクシーがない。オートリクシャーばかりである。
*マドラス
マドラスへ向かう列車は、車内食やおやつが無料で配られ食いっぱぐれがない。列車は、PM9:50、約7時間半かけてマドラスに着いた。駅に立つと潮の香と生ゴミの香りがムッワッと来る。カネマラ・ホテルがいいらしいと言うことを聞き向かってみる。そして着いてびっくりの高級ホテル。夜遅かったので”まあいいや”って感じでチェックインした。
翌日のPM12:55にはマドゥライに向けて出発するので、マドラスの観光は駆け足となる。マドラスは4大都市の1つと言うだけあって、道も広く交通量も多い。まずは、マリーナビーチへと足を運んだ。幅広の砂浜ではあったが、特別長くはない。ついにベンガル湾を目の当たりにしたが今一つ感動にかけた。ここでも各種のたかりがくっついてきて落ち着いて観光出来ないと言う事もあったが・・・全くインドという国はどこへ行っても・・・。次に港へ向かおうと思ったが、リクシャーの運ちゃんの話では、写真は駄目だそうで、つまらないので裁判所を見に行く。が、ここも写真は駄目だと言う。マドラスなんて大都市のくせに観光のしがいのない都市であると思った。
*マドゥライ
インドの列車はどうも夜になるとスピードダウンする傾向にあるらしく、またまた30分強の遅れでPM8:35マドゥライに着いた。マドゥライに着いて思ったことは、今まで旅してきた町に比べ、草履履きや、裸足の人が多く町並みもあまり豊かでないように感じた。”地球の歩き方”曰く、中級ホテルのTAMIL、NADUに着く。ダブルの部屋が空いてないのでシングルの部屋にエキストラベッドを入れてもらうことにする。エキストラベッドを見てびっくりマットとシーツだけ。部屋もむきだしコンクリートであまり良くない。青木君との壮絶なジャンケン戦の末、僕が下で寝る事になった。
マドゥライの朝は、車の音、クラクション、人々の声、1日中流れる大音量のインドミュージックで喧噪けたたましい。朝、翌日のバスの予約に行くが予約というシステムはないという。
少々頭がいたくなるが、取り敢えずその日の観光を楽しむことにする。サイクルリクシャーの運ちゃんに任せて市内観光をし、色々とまわったがやはりこの町の観光はミナークシ寺院に限る。ドゥラヴィダ様式の代表的寺院である寺院内は、敬虔なヒンズー教徒のおびただしい数の参拝者に埋め尽くされ(なぜか女性が多い)、神々の彫像、床の彫刻、柱の彫刻、天井の彫刻等凄まじいものがある。そして暗闇の中蝋燭に浮き出されるそれらは、異様な迫力がある。またあっちこっちに乞食がごろごろして、あっちこっちで女達が座り込んで蝋燭に火を灯している。インドの神秘性の一面を見た気がした。言葉にできない凄さを見せつけられた。ミナークシー寺院前では、狂ったように太鼓を鳴らし、音楽を奏で、頬に槍を貫通させ、とりつかれたように踊り狂った人々に出くわした。背筋がぞーっとし、ただ見て、シャッターを切るだけだった。
サイクルリクシャーは、最初に値段交渉をしなかったためかなりボラれた感があった。ツーリストオフィスでカニャークマリへの行き方を確認する。すると「列車で直通のがあるよ。それがBESTだよ」と言う。予約は間に合わないが空いてるから大丈夫らしい。翌朝AM4:05の列車で行く事を決める。
*最南端
ついに目標のカニャークマリに着いた。駅は思いの外殺風景だ。駅から数分でホテルTAMIL、NADUに着いた。右手にアラビア海、正面にインド洋、左手にベンガル湾と最高の眺め。ホテルにチェックインし、部屋に行く。ベッドに寝そべりながらヴィヴェーカーナンダ岩記念堂が見える。すごい。部屋も広く、ベッドも2つあるしすこぶる快適である。1時間ほど昼寝した後散歩にでた。海岸沿いの岩場には、10p程もあるカニがうようよしている。波が高くどうやら泳げそうにない。西に向かって砂浜が続き2人でご機嫌で写真を撮る。クマリ寺院付近のバザールでは、貝殻や、それを加工した土産物が遠々と並べられている。値段も少々高値だが、内陸部から来ている人々が珍しがって買っていくようだ。沐浴ガード下では砂金とりをしている男達がいる。また、多くの人達がベジタリアンであるためか、これだけの海辺でありながら海の幸は並べられていなく、僕たちもそれにありつけなかった。しかし、これまで旅してきた町に比べ人の数が少ないのと、まとわりつく人が少ないのとで、久しぶりに落ち着いた気分になった。6時過ぎからホテルのテラスで、風にあたり、海を眺めながら”あたりめ”をしゃぶり、日本酒・沢の鶴で2人で酒盛りをした。日が沈み始め、バザールに明かりがともり始めるのを、ずっと体全体で感じながら、最高の時を過ごした。
翌朝、聖地カニャークマリでの沐浴光景を見に行く為AM4:00に起床した。5:00ごろからぞろぞろと人々が移動して集まっているのが見え始める。どうやら天気は曇でご来光は拝めそうにない。6:00を過ぎてにわかに沐浴が始まったが、辺りが暗くシャッターが切れない。7:20に列車に乗るのでそう長居もできない。ぎりぎりまで粘ってそこをあとにしたが、おそらくその後一斉に沐浴が始まったことだろう。僕らは、その日中にコーチンに着くよう強行の旅に躍りでた。
*バックウォータの旅
列車から見る景色は、ヤシの木の大樹海の真ん中を列車が突き進んでいるようなもので、時折バナナ畑が顔を出す。コタヤムのボート・ジェッティーに着くと、あまりの辺鄙さに驚く。が、以外と本数は多い。ボートに乗りヤシの木の水路を抜けていくと、広大な水郷地帯になる。この辺りになるとスカイラインが水平線なのかヤシの木の地平線なのか分からないくらい広大な景色になる。そしてその中の畔道のような土地に家々が点在している。何故こんな所に住んでいるのか、とまた思わされる。しかしそれはそれで熱帯の常夏をイメージさせた。
ボートは、約3時間半でアレッピーに着いた。アレッピー駅に行き列車を待つがいっこうにやってこない。やはり夜は列車が遅れるようだ。毎日分刻みで生活している僕らは、こういう時間にホントにシビレてしまう。列車は40分遅れでやってきた。コーチン・エルナクラム駅に着いたときPM9:00になっていた。”地球の歩き方”を見てホテルはグランドホテルと決める。幸いすんなりチェックインできたし中身もかなりいい。ホテル内レストランでビールで乾杯し1日の疲れを癒した。
*コーチン
コーチンでの僕らの目的は、チャイニーズフィッシングネットとカタカリダンスだ。前日はりきってコーチンまで来てしまったので、コーチンの滞在が1日伸びた。御陰で午前中ゆっくり手紙書きに励む。
チャイニーズフィッシングネットを見るためホテルを出る。まずKTDCを訪れ、ボルガッティパレスの宿泊予約を試みる。そこで毎晩カタカリダンスを上演しているからだ。万事O.Kだ。そして次にチャイニーズフィッシングネットの情報を得た。僕らは言われた通りジェッティーに乗り、VYPEEN島を目指した。スコールに度々降られたが、それは一瞬でやんでしまい、すぐ晴れ間が見えるのがこの辺のいいところだ。チャイニーズフィッシングネットとは、でっかい四つで網のようなものが入り江に沿って並んでいて、コーチンの観光の目玉になっているもの。実際に見ると、その大きさに驚く。岸で写真を撮っていると、愛嬌のいい漁師達がネットの上まで来いと手招きする。こいつはラッキーと思い海に落ちないよう慎重に丸太を渡る。どうやらおいちゃんたちは英語は駄目らしいが、ボディーランゲージで十分意思疎通出来る。カメラを向けると夢中でネットを引き上げる様がとても可愛い。しかし、あれだけの巨大なネットにもかかわらず1回で捕れる量は、小さな魚数匹だけ。それでもニコニコと嬉しそうに差し出す。ホントにこれだけの漁獲量で大丈夫なのだろうか?あまりにも割が合わないと思うのは僕たちが日本人だからだろうか?暇なので、真ん中の半島、ウィリンドン島に足をのばすことにした。のどかな景色を楽しみながら、かなり早い時間に駅に着き、ゆっくりとしたインドの時間感覚で時を過ごす。ゆっくりと時間が流れている。
翌コーチン滞在2日目。前日市内とフィッシングネットを見てしまったので、またまたぐーたら生活をしてしまった。まあ、2日後には本隊と合流してヒマラヤを目指す事を考えれば、多少の充電は必要か?。”地球の歩き方”によると、ボルガッティ島にはボルガッティパレス以外の建物はなく・・・とあるが、行ってみると島には村があり、売店や、小さなホテル、教会まであった。天気が良く、ヤシの木や、芝生が照り光ってとても綺麗だ。ボルガッティパレスのA/C.Sweet.Roomはあまりの広さに戸惑った。もっと戸惑ったのは部屋に電気も水もきてないこと・・・金返せ!。電気はたまに入るがしょっちゅう停電である。ま、夜には両方回復したのだが・・・。とにかく部屋が広いので電気がこないとまさに西洋のお化け屋敷状態だ。夕方6時からカタカリダンスの上演が始まった。上演は1時間であった。踊り手は1人であったが、写真も自由に撮れ十分満足のいくものであった。これで前半の南インド旅行の目的は全てこなしたこととなった。
翌朝パレスをチェックアウトするとき、前夜カタカリの後知り合ったフランス人の人と一緒になった。そして空港まで同じボート、同じタクシーで行き空港内レストランで話し込んだ。彼の話を聞いて”やっぱり”と大きくうなずいたのは、やはり彼らにとってもインドを旅するというのは1つの冒険なんだなと分かった時だった。なぜかちょっと嬉しい気がした。
*1ヶ月のインドの旅を終えて
その後、僕らは無事C隊本隊と合流して副隊長としてヒマラヤへ、そしてトレッキング後デリー、アグラ、ジャイプールのインド観光のゴールデントライアングルを巡って1ヶ月に及ぶインドの旅を終えた。
インドは面白い国だ。だけど、酷い所だ。インドの人たちは、よく観光客にたかったり、ボッたりする。そして揚げ句殺し文句のように”Do You Like INDIA?”を連発する。そんなとき彼らは何を思っているのだろう。自分達の振る舞いがインドを代表してしまうのだという意識やプライドはあるのか。仮に、そういったプライドが人々にあってもそうせざるを得ない状況であるのならば、面白い国だなどと口が裂けても言うもんじゃない。その逆であったとしても同じ事が言える。一昨年のインドヒマラヤの旅のとき、僕はインドの感想に”桃源郷?”という言葉を使用した。それはインドという国1つで、小さな地球そのものを表しているように感じたからだろう。しかし、1年経ってミーハーの冷やかし気分がおさまって行ってみると、やっぱり酷い所なんじゃないかと思ってしまう。彼らに”Do You Like INDIA?”と聞けば”Of course”という答が返ってきそうだが、そこには”今を耐えて明日を夢見る”といった心があるように思えてならない。
それに比べると日本はいい国だ。日本人に「日本は好きか?」と聞いても、彼等がインドを好きかどうかを考える時と比べ、その判断基準はあまりにも豊かさに溺れた物であるのに違いない。日本はいい国だ。が、いい国であるが故の傲慢さがある。人間は快適至上主義になると、その裏についてまわる問題が見えなくなるようだ。自分達だけにフィットしたような枠をつくってしまう。これは先進国全般、或いは世界的にいえるのかもしれない。フランスの核実験再開もその延長上にありそうだ。草食動物は草を、肉食動物は肉を食べる。人間は地球を食い物にしている。ちょっと話が飛躍しすぎたが要するに人間の傲慢さが言いたい。日本はいい国だがそこだけに閉じ込もるのは危険だ。日本という小さな枠、或いはそれ以上に小さな枠で物事を考えるようになってしまう、と言う危険性がある。それが傲慢さに繋がるものと思われる。
”ヒマラヤの大自然を目の当たりにした後見た、世界一美しいといわれるタージ・マハールの拍子抜け感はなんだったのだろう。”このことが今回の僕の旅で象徴的に心に残ったことだ。大自然に対する人間の営みの些細なこと。そしてもう一つ、それは世界一美しいタージ・マハールを圧倒的にしのぐスケールと美しさでヒマラヤがあったんだと言う事が実感として分かったからだ。僕はもっと視野を、世界を広げていかねばならないと強く思った。タージ・マハールという小さな墓に閉じ込もってヒマラヤを知らぬ、という人間にならぬよう。
日本に帰って来てインドを振り返る。インドでこれは素晴らしいなと思えることは、人々が生き生きしていることだ。彼等インド人からは、”自ら生きているんだ”というパワーがヒシヒシと伝わってくる。一生懸命生き、伸び伸びとした彼等を見ているとホントに羨ましいとさえ思う事が度々あった。きっと何度行ってもその度に思わされるのだろうなと思った。それからもう一つ、僕らの旅をサポートしてくれた人達の親切さと能力と責任感にはいつもながら頭が下がってしまった。本当にありがとう。
今回のインドの旅は、計画の段階から全ての事が、僕にとってこの上ない経験となった。この先に繋がるものとなった。インドは酷い所だ。でもこのことが僕に色々なことを考えさせ、新しい視野をもたらす。サンジャイ氏や、サンペル、南インドでお世話になったスダールサン氏など、素晴らしい人達との出会いや触れ合いが心を豊かにしてくれる。そんな気がする。またインドに行かねばなるまい!。そしてもっともっと歩かなければ!。
そうそう、マナリのバシスト温泉は実に良かった。風来坊はいい所にあるな。この本が発行される頃は、ただ、風しか来ない坊になるのだろうな。