ディスカバー・インド雑感 

森 田 雅 夫

@ マニ車

ラダック地方のチベット仏教(ラマ教)のゴンパ(寺院)巡りをしていると、必ずといっていいほどマニ車と出会う。

マニ車は大小さまざまな大きさがあり、かなり手のこんだ装飾をほどこした物があるが、ゴンパの軒先などに数十個連ねて設置されていることが多い。時には部落の入り口などに、巨大なマニ車を見かけることもある。

このマニ車は、形は円筒形で回転するように出来ている。内部には紙に書かれたラマ教の教典がびっしりつまっている。信徒たちは、オン・マニ・ペベ・フム(日本的に言えば南無阿弥陀仏のようなもの)と唱えながら心をこめて、マニ車を右回転させて祈っている。マニ車を一回転させると、それは教典を一通り唱えたことと同等のご利益があると言われている。

これならば老若男女を問わず、あらゆる階層の人々にも信仰が可能である。教典をすべて読みこなし、厳しい修業を経た後でなければ救われないということであれば、自ずから布教の限界が見えてくる。

私も戯れにマニ車を回してみたが、はたしてご利益があるかどうか疑問である。

いつの頃、どんなリンポチェが考えついたのか知らないが、私はこの単純明快なアイデアに脱帽した。ウーム、スゴイ!

ラマ教がチベットやラダック地方などに燎原の火のごとく広まっていった秘密の一つはこんなところにあったのではないかと思っている。

レー近辺のゴンパ巡りの二日目、アルチゴンパを訪れたとき、手製のマニ車をみやげとして購入した。買ったときは何度も振って回しお祈りしてみたが、幸運が舞い込んだかどうか解らない。現在は応接間の飾り棚の片隅にひっそりと置かれたままである。

A ウオシュレット・トイレ

二泊三日の旅を終え、アーグラからデリーへの帰路で出会ったことである。ようやく東の空も明るみ、これから一日の生活が始まろうとしていたそんなとき、車窓からかいまみた奇妙な光景があった。それは道路沿いの畑(近くに小川や池があった)のあちらこちらで、野球のキャッチャーの姿勢をした人々の群れである。男性ばかりで、女性は見かけなかった。

なかにはわざわざ道路の縁まで寄ってきて、小川を背にし、通行車両を眺めながらのものもいた。これらは皆、用足しの姿である。無事終了した後は、川の水を使って左手で処理して一件落着である。彼等にとってこんなことは日常茶飯事で、当然のことらしい。羞恥心などは、とうの昔に超越してしまっているのだろう。

最近日本でも、ウオシュレット・トイレが流行してきている。痔などには大変優しく好評のようである。あの時、私の脳裏をよぎったものは、ウオシュレット・トイレのヒントは、意外にもインドにあったのではないかと。

両者の間には色々な点で大きな隔たりはあるが、アイデアのルーツはここにあったのではないかと、私にはそう思えてならない。

ウオシュレット・トイレでは、恥ずかしさゆえに密室化し、衛生面での配慮もし、温めたり、芳香を漂わせたり、至れり尽くせりである。

両者を較べれば、圧倒的にウオシュレット・トイレに軍配はあがる。しかし、別な角度から眺めてみると、大自然の雄大な原野の中で、そして行動の豪快さにおいて、更に維持費のゼロ負担などで、到底インドにはかなわない。

B ガンジスの沐浴

インドの大河ガンジスのほとりにあるヴァラーナスィー(ベナレス)は、ヒンズー教の聖地である。この街は聖なるガンジスの沐浴場(ガート)としても有名である。

私は今度の旅ではここを訪れることはできなかった。従ってヴァラーナスィーで巡礼者が沐浴している現場は見ていない。しかし、三年前にネパールのカトマンズで、巡礼者や現地の人々が沐浴している場面を見たことがあった。

ヒンズー教では聖なるガンジスの水で沐浴をすれば、全ての罪は清められ、また、ここで荼毘にふされガンジス川に流されれば、輪廻転生からの解脱が得られるという。

聖なるガンジス川とはいったいどんなものなのだろうか。長くそして広大な流域から流入する大量の有機物や無機物を溶かし込み、濁流となって滔々とインド洋に注いでいる。

ガートでは、大勢の沐浴者がいる上流で、用足しをしている者もあれば、沖合を動物の死骸が流れていたり、荼毘に付された死骸も流される。

とてもアユなど住んでいる清流とは程遠い。我々の感覚では聖なる川と言えたものではない。ましてや沐浴などする気はおこらない。それでも彼等はこの川で顔を洗い、身を清め、敬虔にも祈っている。

日本人は温泉を好む人種と言われている。私も温泉は大好きである。奥鬼怒の秘湯、加仁湯の露天風呂は乳白色の硫黄泉である。また、伊豆七島式根島の地鉈温泉は、茶褐色で鉄分を含んだ海中温泉である。

我々はこれらの温泉に浸かりながら、「いい湯だな」と喜んでいる。

ガンジスも前記の温泉も、ともに無色透明ではなく、諸々の物質を溶かして濁っている。結局どちらも原理的には同じではないかということを発見して、ひとり苦笑している。

曼荼羅無限

加 藤 俊 夫

ゴンパ 白日(はくじつ) 白秋(はくしゅう)の風

巨竜 西奔(せいほん)す インダス河

渺渺(びょうびょう)たる 水煙(すいえん)

はつかに麦秋(ばくしゅう)を恵み

楊樹(ようじゅ)たおやかに黄彩(こうさい)ふるう

御堂(みどう)の明窓(めいそう) 燭涙(しょくるい)ながく

すずやかに みほとけ笑まし給えど

法(のり) 万巻を伝えて いまに虚(むな)し

茫洋(ぼうよう)たるかな ラダック

ザンスカール

群青(ぐんじょう)のきわみに在りて

人間(じんかん)の声明(しょうみょう)

いづくにぞ生死(しょうじ)を問わん

雪 山巓(さんてん)に乾きて

岩砂(がんさ) たちまち永劫(えいごう)を埋めんとす

◇ ◇ ◇ ◇

ひたはしる うしおの如く 熟れ麦の

穂はうねりつつ 風ふきやまず

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