アシュラムから
・・・・・村 越 昇
(1)アシュラム
森田千里さんの山荘アシュラムが出来て3年になる。
正確には『ヒマラヤン・ハワー・アシュラム』、「ヒマラヤ風道場」という意味らしいが、日本名では「風来坊」だと森田さんは言われる。判った顔をして聞き、判ったように人にも話すが良く判らない。でも要するに『アシュラム』である。
私は計画のレベルからささやかではあるが関わり、建設中から毎年訪れ、期待していたのだが、今年の夏の滞在で初めて“自分の居場所の一つ”であるという感触を持てた。3年も立つのに、と森田さんに叱られそうだが‥‥‥‥でも仕方がない。
非常に快適だ。
2回のベランダでデッキチェアーから足を手すりに乗せてぼけーと眺めていると、正面の森の中の村オールドマナリに朝げ、夕げの煙がたなびく。ベランダから手を伸ばすとリンゴがもげて野趣豊かである‥‥‥‥でもこのリンゴより洋梨が美味しい‥‥‥‥。ベランダに接する居間(客間)は暖かく、つい居眠りが出る。そんな時森田さんの豪快な笑い声が遠くから聞こえると、それが何とも夢心地よい。
それは居心地の良さ、なるものではないかと考えるともっと心地良くなる。
このアシュラムから気ままに短期の山旅に出かけるのも、中高年の山好きにとっては、たまらなく魅力的に思える。
日帰りでも、数日でも‥‥‥‥歩いてでも、ジープを雇っても、定期バスを使ってでも‥‥‥‥。
裏山のバシスト村から森を抜けると、お花畑が広がっていて格好のハイキングコースだ、と森田さんが話してくれた。正面、オールドマナリの左奥に見える何とか山に、ラメッシュ爺さんでも連れて行ったらどうだろうか、爺さんテント位担いでくれるだろうし、メシも炊いてくれると思う。4日あれば今年C隊が通ったハムタパスの下のお花畑に達して戻って来られるだろう。ジープをチャーターすれば、3日でスピティも可能だ。
森田さんに相談を持ちかければ、手配するのにサンペルを呼んでくれるだろう。サンペルが居なければ親父のリグジンさんを、リグジンさんもつからなければ森田さん自身が腰を上げてくれるだろう。
(2)マナリ散策
話が決まったら少しさっぱりしてマナリの街に出てみよう。バシストの州政府経営の『温泉館』まではアシュラムから70歩だ。岡部の漬け物工場の一角のような浴槽に豪快にお湯を入れて、大根のようにお湯の中で転げ回るといい。
マナリの街へは洗濯物を持って行く。帰りにタクシーを捕まえるとして、往きは20分かけて歩くとよい。湯上がりにはちょっときつく感じることもあるが、チョップスティック(チベッタンレストラン)で「モモ」を肴にビールを飲むにはちょうどいい。
氷河の融け水で白濁したベアス川に架かる橋を渡って坂を上ると、マナリの街の真中に出る。ロータリーのある交差点にはいると右上に洗濯屋がある。昨日だれかが出したTシャツが店先にぶらさがていたりするが、身ぐるみ脱いだ物を預けると、ミニトレッキングから戻った時にはさっぱりしてアシュラムに届いている。白い物がグレイになっているくらいは仕方がない。
次に50Mほど下って、左側最初の路地を入り2軒目の骨董屋に寄ってみよう。無愛想な親父がいるが、我々のメンバーだとわかると“ニヤッ”と笑って迎えてくれる。間口一間、奥行き二間半のバラックには、骨董品と骨董まがい(この方が圧倒的に多い)の物が所狭しとそれぞれの場所に詰められている。滅多に口を利かない親父だが、何れが本物か正直に言ってくれるからいい。三回目のマナリの時から、お互いほとんど口を利かないのに仲良しになった。その時からコップ入りのチャイをおごってくれるようになり、4回目からはドーナツがつき、5回目からは骨董まがいの物の中からお土産をくれるようになった。
路地の雑貨屋、クル帽子屋、八百屋などをひやかして再び大通りに出たら、バスターミナルの側から左に折れ、商店街を通り、少し下って行くと黄色が目立つゴンパ(チベット仏教寺院)がある。
この先の小川に面したところに落ちついた感じのもう1つのゴンパがあるが、これと比べると殺風景で、寺としての雰囲気に欠けるが、ダライラマが亡命して来たときの「新難民」達が建てたゴンパだと云う。草の生えた空き地を隔てて大きなチョルテンがあり、隣接したお堂には巨大なマニ車がある。「オンマニペニフム‥‥‥‥」と唱えながら一周りくらいはして来よう。でもこのゴンパ、お賽銭を上げないと坊さんの目が厳しい。
このゴンパの空き地のもう一方の先にManali Climers Association(ガイド組合)の事務所がある。ボンベイの裏町にある前世紀の胡椒取引商人の事務所のような建物の一室がそうである。その前で、サンペル達が登山隊の装備を点検していたり、ラメッシュ爺さんがボケッーと座っていたりする。
国際的な観光地のシュリナガルが紛争で成り立たなくなって十年近く‥‥‥‥代わってマナリが脚光をあびだし、ホテルラッシュが続いてきたが、町は大きくふくれあがり、中心街の混雑もインドの平野部の町なみになった。このあたりは下町だが、いつのまにか小規模な宿泊施設がやたらに目立つ。
ここから汚い道を50mほど下ると、前述の落ちついたゴンパに出る。ここでは坊さん達が副業でカーペットを織り(もちろん手織)、それを狭い一室に積んで売っている。安価で質が良いために、我々の仲間の間では座布団サイズの物が人気のお土産品になっているが、欲張って買いすぎ、帰途の大荷物に苦心する仲間が毎年出る。
このゴンパの左脇の路地を体を斜めにするようにして入って行くと、一番奥にサンペルの自宅、すなわちガイド組合の統領であるリグジンの家に達する。外階段を上がって、扉をたたくと、リグジンが照れるような表情で迎え入れてくれ、美しい奥方とお茶やお菓子で歓迎してくれる。自慢の仏間で手を合わせ、それを褒めるとリグジンの表情が崩れ、ラム酒とモモ(チベット風蒸し餃子)を誰かに買いに走らせたりする。心温まるマナリの午後のひと時だ。
帰途は、もし午前中から出かけたのなら、チベットレストランの「チョップスティック」か「マウンテンびゅー」で昼食をとろう。ヌードルスープやモモはインド食に疲れた我々の口に合い美味しいし、ビールも良く冷えている。最近はヨーロッパからの観光客でいつも混んでいる。
そして腹こなしに、森田さんが初めてマナリに来た時からあるクルショールの店でもひやかし、明日のトレッキングのおやつと、今夜の夜食の果物でも買って、タクシーでアシュラムに戻ろう。森田さんが待っているだろうし、そろそろオールドマナリに夕げの煙がたなびく時間だ。
(3)チャンドラバーガ川流域の村々へ
今年の夏マナリからチャンドラバーガ川流域の村々を訪ね、新しい発見をした。
スピティへのジープトレッキングが、途中の道路崩壊で不可能になり、森田さんの勧めでバララチャ峠とこの地域へのジープトレッキングとなった
同行の5人が2台のジープに分乗し、2人の運転手の他にサンペルが同行してくれた。 R山群の氷河の解け水を最源流とし、バララチャの南から南流するチャンドラ川は、セントラルラホール山群の谷の流れを集め、チャンドラタールを経てバタルに達する頃には堂々たる流れになっている。バタル付近で流れを西に変え、バラシグリ氷河の谷と合流するあたりで今度は北流する。ロータンパスを西に見て20kmほど下ると、やはりバララチャに源を発し西流してザンスカールからのトレッキングコースの終点のスムドーやケイロンを経て流れてくるバーガ川と合流する。
ここからがチャンドラバーガ川であり、美しい河岸段丘が、銀行もある町ウダイプールまで広がっている。
ロータンパスを下りきって、パスポートチェックを受けるコクサールを過ぎると、悪路から解放され比較的快適な道路をゆるやかに下る。広い段丘にGondhia(多分)という大きな集落があり、四角い塔のような建物が見える。「あれはcastleであり、little kingがいた」とサンペル、小さな土侯国があったのだろう。周辺は豊かな畑が広がり、ヘリポートもある。標高3200mだ。
Tandiでバーガ川が合流、というよりチャンドラ川に注ぎ込むが、ここで道路もバララチャからレー方面へと別れて、鉄の橋を渡ってチャンドラバーガ川沿いの道に入る。再びぬかるみ、石だらけ、落石箇所、絶壁上の悪路である。
ジープはマルチスズキ900cc5人乗り、インドでは人気の車であり、ヒマラヤの悪路では若干パワー不足であるが大活躍だ。サンペルも40万円で買い入れたマルチスズキを乗り回している。この時は弟のアンディがラマ教の高僧リンボチェをレーまで迎えに行くのに使っていたのだが、前述のGondhia付近でリンボチェ旗を立てて走ってくるアンディ運転のサンペル号に出会ったことは、この度の愉快な出来事の一つであった。
チャンドラバーガ川右岸には幅500mほどで緩やかな傾斜を持つ河岸段丘が広がっている。この段丘の畑が何とも豊かな農地になっている。一枚の大きな畑は、馬鈴薯、さやえんどうの順に作付けが多いが、所々のホップ(ビールのホップ)の棚が鮮やかな緑の野にアクセントを付けている。
素人目にも整然とした商品作物の栽培であることが判る。ヒマラヤの谷間の農業の多くが、ため息の出るような階段状耕地の自給的なものであっただけに、この地の景観には一種の感動を覚えた。
ベアス川の段丘のナガルの水田、シムラからキンノールへ向かう途中のナンカンダ付近のリンゴ園などの美田・美林にも感動したが、ここははるかに奥地である。最寄りの町はマナリ、車でもロータンパスを越えてほぼ一日かかってしまうだろう。しかも名だたる悪路、おまけに冬は雪で道路は閉鎖される。
サンペルに出荷先を聞くと、ビートはクルのビール工場に行くが、馬鈴薯、さやえんどうはデリー、ラジャースタン、ボンベイまで至るという。
そして、驚くことにこの谷の村々では新築ラッシュ‥‥‥‥至る所でアシュラムのような大きく、しゃれた家を建てている。完成したばかりの家もいくつも見られる。
Shanshaという村でチャイ休憩をとったが、男たちが茶屋の前の小さな広場に集まっており、大きな麻袋を担いだ女たちがこの広場に向かって歩いていた。麻袋の中身はビートであり、この広場に集荷のトラックがやって来るらしい。
「なぜ男たちはお茶を飲んでおり、女たちがビートを担いでいるのか」の問いにサンペルは笑いながら「I don't know.」と云ったが‥‥‥‥これは別の問題として、この広場の道を隔てた向かいの家がちょうど解体している最中であった。ブルドーザーやパワーシャベルでの解体と違い、2〜3¹月かかるのではないかと思うような作業ではあったが、牛でも遠慮したくなるような土の家が、石造り3階建てになるかと思うと、喜ばしくも不思議な気分がした。
この美しい段丘の畑は10km以上続くのだが、共通していることに気づいた。
畑の最上部と最下部、すなわち段丘の山側で傾斜が急になるところと、谷側でチャンドラバーガ川に落ち込むところ双方に数十メートル幅の植林帯があり、さらに段丘を流れる小川沿いにもユーカリや柳の並木が見られた。
この谷も村々は、「村興し」に成功したのであろうが、そのポイントが「植林」にあったのであろうと気がついたのである。
土砂流出必至と思われる傾斜地の過耕作が至る所で目に付き、植林は痕跡があるくらいにしか認められないヒマラヤの谷が多い中で、この谷の村々の景観は経済構造がどうなっているかはともかくとして、爽やかで、今年の旅の貴重な収穫の一つであった。
この谷をさらに下り(下流に行くのだが社会的、経済的には奥になる)、チャンドラバーガ川を左岸に渡って、暗い森の急傾斜を4kmほど登ると、豁然と開けて桃源郷を想起させるようなTrilokanathという村に着く。ヒンディーと仏教の神が同居するからでなく、不思議な雰囲気を持った聖地(寺)に詣で、極めて素朴な人々の笑顔に囲まれた。
そして夕暮れ迫ったUdaipurの町で、サンペルのお爺さんの暖かい部屋に泊めてもらうのだが、すぐ裏のMARIKULA MATE TEMPLE で素晴らしい物を見た気がする。キンノールを思わせる寺のたたずまい、クリシュナ時代にマハーバーラタを表現して彫ったものだという扉や壁の木彫はただものではないようだ。
この寺のことをもっと詳しく知りたいと思う。「桃源郷」の人たちが西アジア系と思われる顔つきをしていたのも気になる。新築ラッシュの村の経済構造も調べなくては‥‥‥‥忙しくなってきた。