初めてのインド
野 本 淳
ニューデリーは今まで聞いていたよりも道路はきれいになっていて、街路樹の並木の下には、ブーゲンビリアのピンクの花や、浜木綿に似た細い花弁の細い花が、私たちを迎えてくれた。またホテルの9階からの景色は、樹木の緑がうっそうとしていて、にぎやかな森の都との第一印象を受けた。しかし整然と設計された広い道路を、走っている車は40年前のオースチンに似たアンバサダーという名のタクシーとスズキ自動車と合弁で製造されたマルチ・スズキが日本の軽自動車的な感じで走っていた。また二輪車はイタリア製のベスパが圧倒的に多く、その騒々しい有り様は、日本にも以前あった道路事情を思いださせるのだった。
その次にはオールドデリーや沐浴で有名なヴァラナシーを実際に歩いてみて、そこに40〜50年前の日本の姿、即ち舗装されていない道には水たまりや、ぐちゃぐちゃな土のわだち、そしてテント地を雨よけに付けただけの露店が軒を連ね、乞食が袖を引き、蝿が食物に群がり、それが何であるか判るのに時間がかかるというような、すごい不衛生さに、多くの人の貧乏はもとより、国そのものが貧乏なのだということを痛感させてくれた。この状況を克服して近代化のへの道を進めるには、単民族だけの日本と違って、2つ以上の宗教(ヒンズー、イスラム他)また昔からのカースト制度などがあるため大変な困難を伴うであろう事が容易に想像できるのだった。実際日本もオールドÃÞØ°の状態からの出発だったのだから。
そういう意味からも、日本の若い多くの人たちに、インドの下町の状況を見聞してもらい、カルチャーショックによる下痢以上の何かをつかんで欲しい気持ちがした。特に一家を支えていると思われるヴァラナシーのしたたかな15歳の少年船頭には、勉強さえしていれば良い、か弱い日本の少年達と比べて、どちらが良いのか考えさせられた。
さて、私たちが最も期待していたヒマラヤの山々については「今年のモンスーンは強くて、殆どすばらしい眺望が得られないとの森田先生のお話の通りで、雨や雲のために、6000M級の山がほんの少ししか見れず、何とも残念で、用意していったフィルムも予定の半分しか撮れなかった。
冬山はともかく、人間が自然をほぼ征服して、都会の心地よい生活の延長線上にあるスイス・アルプスと狭い河岸段丘にしがみついて村落が散在し、観光施設がほとんどない大自然そのままのインド・ヒマラヤではそのアプローチに雲泥の差があった。なぜなら、後者の交通手段は、チャーターしたジープやバスが主で、そのどれも完全な車はなく、窓は開けたらガラスは手で引き上げないと閉まらないし、エンジンはバックファイヤーを起こすと、その都度修理して、何とか動かしている。その位だからメーターは殆どどれも働いていなかった。また、チャンドラ河をさかのぼった地の小さな街、ウダイプールでは、どの民家にもトイレがなく、みんな外の空き地で済ませているとは‥‥‥‥。山ではともかく街でのこの状態には精神的にも参ってしまった。ジスパのテント村などよく整備された施設もあるだけに、なぜ共同トイレがないのか不思議だった。
そのほか心配された高山病については、橋の流失などのために4000M付近のキャンプの予定が変更されたので、この旅行の最高点バララチャ(4890M)でも、身体の変調をきたすこともなく、ほっとした。
しかしながら、7年のブランクの後の海外旅行は6月のスイスアルプス(10間)でも「ヨーロッパはあまりにも遠かった」という萩原朔太郎の言葉通り、大変疲れてしまったのに、1カ月半後のインドは食べ物の違いも今まで以上に大きく、薄味にならされた私には、厳しく、胃腸は火の車で、帰国してからも病気でもないのに5日間下痢が止まらなかったことからも、体力のなさを痛感させられた。
最後に初めての私たちのために、余裕ある日程を組んで下さった村越先生をはじめとして、空港への車による送迎の手配や、歓迎の宴を催して下さったサンジャイ氏ご夫妻とその関係者の方たち、マナリの山荘・アシュラムで、格別の待遇をお手配下さった森田千里先生及びガイドのサンペル氏に心から感謝を申し上げます。そしてヒマラヤの崇高な山並みとすばらしいお花畑をもう一度撮影に訪れたいと思います。