ザンスカ−ルの山旅

村越 昇

1.憧れのザンスカ−ルは・・・・ マップ

 1981年、翌年の初めてのヒマラヤトレッキングに向けて手探りをしている時、『ザンスカ−ル』という地名、というより単語を初めて目にした。1980年にCB53峰を初登頂した「群馬高校教職員インドヒマラヤ登山隊」の報告集『シャルミリ』の中の「ザンスカ−ルトレッキング」の記録からである。

 幸い私たちの手探りは森田千里さんという良き導きを得て、翌1982年にマナリからセントラルラホ−ルのバララチャ越えのトレッキングをヒマラヤへの第一歩とした。 それ以来マナリを基地としたトレッキングを重ね、仲間も増え入れ替わりもしたが、「ザンスカ−ル」は忘れられない、憧れのような存在になっていた。今考えると、もっと早く実現すべきトレッキングであったと思うが、手探りの時に、ザンスカ−ルは私たちにとっては手が届かないすごいル−トだ、との印象を持ってしまったらしく、憧れで長い間温めてしまう結果になった。

 その後、1987年に私と大嶋博さんのグル−プが、昨年は同人の隊がラダックに入りザンスカ−ルが近くなり、さらに私たちの愛読書である佐藤健氏の『マンダラ探険』がザンスカ−ルを近づけた。

 そして昨暮、「ちょっと厳しいトレッキングをやろうよ」の私の発言に「ザンスカ−ルへ行こう」との大嶋博さんのすかさずの一言で決定的になった。

 「ザンスカ−ル」は長大なヒマラヤ山脈の最西北部、インダス川本流を挟んでヒマラヤ山脈とカラコルム山脈が平行する部分のヒマラヤ側に位置する。インダス川本流をさかのぼると、北上しヒンヅ−クシ山脈に突き当たりそうになって、弧を描くように南東に向かう。この弧の南側にナンガパルバット山(8126)があり、ここがヒマラヤ山脈の最北端になる。そこから南東のおよそ300K上流、地形が高原状になり谷も広くなる。このあたりがラダックだ。主な町の標高は3500m以上、月の世界を想像させるような乾燥高地の谷底の一部の緑の大麦畑が目にしみるが、大昔からのこの灌漑農耕がラダック王国を、絢爛たる仏教文化を創り支えてきたのだ。

 ラダックの首都レ−から30kほど下ったインダス川に、南西方向からザンスカ−ル川が合流する。ザンスカ−ル川は、ヒマラヤ主脈の氷河の溶け水を集め、激流となって主脈と平行するザンスカ−ル山脈を横切ってインダスに合流している。この川の上流、ザンスカ−ル山脈と主脈の間、合流点から歩いて一週間から十日の位置の谷間に点在する村々がザンスカ−ルであり、「ザンスカ−ル王国」である。標高は3500mから4200m、「天空の王国」とか「星に近い国」は先人の表現であるが、訪れてその表現に納得した。ここはインドのジャンム=カシミ−ル州に属するが、ラダック地方とともにヒマラヤ高地に暮らすチベット系の人々の世界である。そしてここは、「秘境」であること、国境紛争で外国人の立入が長く禁止されていたことなどで、中国やチベットで見られなくなった『絢爛たる密教文化』が今なお人々の日常生活に深く根を下ろしており、貴重な文化遺産が生きたまま保存されている世界でも稀有な地域である。

 前述の佐藤健氏は熊谷高校OBの毎日新聞記者であり、1979年「ラダック・ザンスカ−ル仏教文化調査隊」の一員として3か月調査され、「曼陀羅探険」(1988年中公文庫)などを執筆された。『絢爛たる密教文化』は氏の表現であるが、さらに氏は、この密教文化が『タイムカプセルのごとくこの地に残っている』と書かれた。さらに氏の表現を借りると、ラダック地方の草木一本ない荒涼たる景観は『月の世界のよう』となり、ザンスカ−ルは『星に近い国』ということになる。

 インドとチベットを結ぶ街道の一つが、カシミ−ルのスリナガルから4000m、5000mの峠をいくつも越えてチベットに達してる。今ではかなりの部分が自動車道路でつながっているのであろうが、かつてはガンダ−ラの仏像を背にしたキャラバンが寒風の吹きすさぶ峠越えをしていったのだと想像できる。

 ラダックはこの途中にあるが、ザンスカ−ルはこの街道からわき道にそれて何日ものキャラバンを要した位置にあった。

 しかし今、ザンスカ−ルへの道はラダックのレ−からではなく、スリナガルとレ−の中間点にあるイスラム教徒の町カルギルから繋がっている。カルギルからザンスカ−ルの中心の町パダムへ、ペンシ=ラを越えて自動車道路が通じたのである。この道路が私たちをザンスカ−ルに近づけたとはいえ、毎日飛行機がデリ−から飛んでくるラダックと違ってザンスカ−ルに達するのは大変だ。佐藤健氏が訪ねられた頃、未完成だったこのか細い自動車道路は、現在パダムの先数キロの地点の工事が遅々とした速度で進められていた。

 私たちは、ジ−プで丸2日かけてレ−からカルギル、さらにパダムへと入り、パダムから5050mのシンゴ=ラを越えて主脈の南東側のダルチャまで歩いて7日間、そこから車でマナリに達するというトレッキングをした。総旅行日数は19日間である。

 一行は67才から19才までの18人、うち比較的高令な4人はパダムから日数をかけて再びジ−プでレ−に戻る旅程を組んだので、結局14人がザンスカ−ルを足であるいたことになる。

 女性3人を含む14人の構成は現役の大学生諸君が半数、平均年齢を大きく引き下げたことは云うまでもないが、フレッシュな活力あるチ−ムが構成できた。

2.レ−で高山病の洗礼を受ける。

 8月4日、デリ−のカニシカホテルに集合した私たちは、早くもインド的トラブルに出会い、再びデリ−の友人の援助を受けることとなった。翌5日にデリ−からレ−に向かう国内便の飛行機の予約が、可能性が非常に少ないウエイティングになっていたのだ。結果的には、2回の分乗で2日遅れのレ−集結ですみ、トレッキングに入ることができたのだが、予備日を早くも費してしまい、これが後の行動の余裕をなくしてしまうことになる。

 しかし2日遅れでことが済んだのは、デリ−の友人、宝石商のサンジャイ氏の全力投球の援助のおかげであった。彼の援助がなかったらザンスカ−ルは再び憧れのものになってしまうところであった。サンジャイ氏にはまたまた借りができ、宝石を買う力のない私には胸が痛いが、良い友人を持ったことの心地よさはそれよりはるかに大きい。

 茶褐色の山肌に取り囲まれたラダック王国の都レ−は、主としてヨ−ロッパからの観光客で賑わっていた。9年前に訪れた時に比べ町は2倍以上に広がり、中心街はの人の波は信じられないくらいだ。人も、我々と同じような体格と面相をしたチベット人より、カシ−ミ−ル方面からやって来たと思われるインド人とヨ−ロッパ人の方がはるかに多いように見えた。

 ここは標高3500m、飛行機でいきなりやって来ると、高度に弱い体質を持つと思われる日本人は高山病(高度障害)の洗礼を受ける例が多い。メンバ−の多くが頭痛や消化器の不快感を感じていたが、最年少のM君がやられた。着いた翌朝から激しい下痢・嘔吐のすえ、手足に痺れを感じるようになり、レ−の病院に入院した。24時間の主として点滴による治療を受け、翌日の午後には元気になって宿に戻ってきたが、広がった不安と緊張感はまさに隊全体が高山病の洗礼を受けたようであった。 その夕方には別の3人の若者が下痢を伴った発熱に見舞われた。いずれも典型的な高度障害と考えられる。

 私たちのトレッキングにとって「高度障害」にどう対応するかは、毎年最も重大な課題である。あの不快さと、症状が重くなった仲間が出た時の不安はなんとも辛い。 今回のトレッキングで私たちがとった高度障害対策の一つは、日程の組み方にあった。飛行機でいきなり3500mのレ−に達すると多くのメンバ−に症状が出る。しかし3500mならそれぞれの我慢で済む程度であろう(まさかM君のような重い症状が出るとは思わなかった)。レ−に2日滞在した後、ジ−プでザンスカ−ルに向かうが、途中2500mのカルギルに一泊すれば、再び3500mのパダムに上がっても身体が慣れており、症状はほとんどでないであろう。そしてその後は、一日2〜300mづつ歩いて高度を上げるので高度順化ができ、5050mのシンゴ=ラ越えもそれほど重大なことにならない、と考えた。あとは一般的なことであり、症状を和らげる・利尿を促進する・併発症に対応するなどの薬品。重大な事態の時のための若干の酸素。重症者のための乗用の馬の用意・・・・・・そして、毎日の健康チェックのための血圧計・パルスオキシメタ−(血液中の酸素濃度を測る)の用意である。また初めて高所に上がる人には富士山頂での一泊を義務づけた。M君の入院があり、同君の苦痛と不安にはすまないと思うが、今回基本的には高度順化に成功したと考えられ、それは日程の組み方に主要な要因があった思う。それに、高いレンタル料を支払った新兵器パルスオキシメタ−は、メンバ−の健康状態を把握するのに非常に有効であった。

3.凄い景観

 ジ−ンズが重くなるまでの埃をかぶってザンスカ−ルのパダム着いたのは8月10日、レ−を出て2日目の夜遅くであった。

 この2日間のジ−プトレッキングは、日本の自動車事情から考えたら「苦行」そのものであるが、途中展開する景観はすごい。詳しくはジ−プ隊の報告に委ねるが、筆舌に尽くせないとはこのような時に使う言葉なのであろう。

 レ−・カルギル間の景観は「絶景」と云うより、息をのむような「凄さ」を感じた。草木一本もない壮大な山肌や谷は、この世のものとは思えないような形態と色彩をもち、まるで大地の皮膚をはがしてしまったような、地球が内臓の一部を露にしているかのように思えた。1987年にレ−からスリナガルに抜ける際一度通っているのだが、それでも感動は減退しない。

 カルギル・パダム間はまさに「絶景」の連続であった。ヌン(7135m)、クン(7077m) などの氷河の高峰が望めるイスラム教徒の住む谷底平野の村々が途絶え、高度を増すと対岸が霞むほど谷が広くなる。間近に迫った氷爆からは崩落の響きが聞こえてくるようだ。このあたりから家屋の屋根にタルチョがはためき、仏教徒(チベット密教)の暮らす地域に入る。美しいリングドン=ゴンパが大褶曲の斜面の下に夕日を浴びて光る。氷河湖の点在する4400mのペンシ=ラからは、たっぷり氷河を被ったZ3峰 (6270m)が裾に長い谷氷河を従えいるのが眺められた。

 ペンシ=ラからは広い谷底に落ちるように下りてザンスカ−ルに入る。しかしこのあたりで日が暮れ、まだまだ続くはずの「絶景」もかなわぬ夢と消えた。星明かりの長い道をパダムへとたどったが、星は手が届きそうなところに輝いていた。

 このジ−プ、ザンスカ−ルへはカルギルに籍を置く車しか入れないと云う。そのためレ−でチャ−タ−したジ−プはカルギルで捨て、また新たにチャ−タ−し直すという面倒くささだ。おまけにカルギルからのシ−プはボロ車、座席は幌の荷台に膝をこすり合って座る固いベンチシ−ト。さらにはこれがめっぽう高いという。さすがの我らがガイドのサンペル君もブツブツ・・・・・そしてすまなそうに、ジ−プ代金の増額を要求してきた。結局カルギル・パダム間は17時間、疲れた。途中故障・パンク・川の真ん中での立ち往生など・・・・・・トラブルは覚悟の上であったが、そのぶん我々の休息の時間が減ってしまったようでやはりいまいましい。このコ−スは2日かけたいと思っても後の祭り、おまけに翌日は長い歩が始まる。せめてパダムに一日滞在したい・・・・・・予備日を費やしてしまったことが早くも効いてきたようだった。結果的に、このことが高度順化に成功したにもかかわらず病人を出してしまったようだ。

4.村々を繋いで歩く

 8月11日、この日パダムからいよいよ足で歩くトレッキングが始まる。レ−の近くでインダス川に合流するザンスカ−ル川の上流のツァラップ川、しばらくはガレ場の多いその左岸を歩く。眼下の激流は生コンを思わせるかのように白濁し、上流の豊かな氷河を想像させる。

 急斜面の怖い道や、崖を避けるためのアップダウンなどでは、息をのんだり、弾ませたりしてけっこう辛いことが多い。しかし時々谷が広くなり、段丘に豊かに穂をつけた大麦畑を従えた村の中を歩く時には、心がなごみ疲れを忘れる。白いチョルテン(仏塔)の間からは子供たちが駆け寄ってくる。

 パダムはハイスク−ルもあるという大きな村だ、標高は3650m。このパダムから歩いて4日目の朝まではいくつもの村がある。その村々を繋ぐ馬がやっと通れる「街道」を歩くわけである。

 村は数戸から十数戸の農家からなり、それが河岸段丘上の1〜2ヶ所に集まっている。取り囲む畑は、大麦のほかグリンピ−ス・ソバ・ジャガイモなどが収穫を前にしていた。

 家々は日干しレンガ造り、多くは四角い平家で、柳の枝を並べた低い天井の上には泥が塗られ、それが乾いて格好の屋上になっている。その屋上、冬季用の燃料だろうか、タルチョも目立たなくなるほどブッシュがいっぱいに干されていた。

 電気は通じていないが、半数以上の家の屋上に簡単なソ−ラ−が置かれている。日中の太陽光で創られた電気は、夜に一軒につき一灯のランプのような形をした蛍光灯を光らせていた。ガイドの話だと、州政府が半額補助金を出して奨励しているという。

 水と燃料が貴重な乾燥高地、お風呂を知らないのではないかと思われる子供たちが集まってくる。初めは遠巻きに、次第に近づき身ぶり手ぶりでコミニュケ−ションが始まる。彼らにとっては、夏の間1日1〜2組通過する外国人のトレッカ−が外の世界を知る大切なチャンスの一つなのであろう。我々が身につけてたり、背負ったりしているさまざまなグッズは世界への覗き窓だ。身体中で好奇心を表している彼らとの交流は楽しい。彼らにカメラを向けると、ボンボンが欲しいと手を出す。キャンディ−のことらしい。我々のガイドも大量のキャンディ−を持っており、我々にもしょっちゅう配るが、時々村の子供たちにも与えている。中には律儀な子供がいて、程よくふくらんだグリンピ−スの実をもいで、キャンディ−と交換にそれを我々の手に握らせたりする。このグリンピ−ス生で食べてけっこうおいしい。

 「この子供たちの学校は・・・・」とガイドのアンドゥ−に聞いたら、「Nature is the school]と答が返ってきた。

 村はずれのテント場での夕暮れのひとときは最高である。洗濯をする人、日焼けの手入れをしている人、はがきを書いている人、草の上に寝転んで空を見あげている人・・・・・・キッチンテントからは美味しそうな匂いがしてきた・・・・・・夕食前に梅干しでお茶を飲もうか・・・・・・ということになる。

 目を移すと、大麦畑を挟んだ白壁の農家と広場の白いチョルテンの陽はかげったが、その背景の山肌は夕日に染まって真っ赤だ。中腹のゴンパの屋根がわらが光り、その遠くの高峰の氷河を巻く雲は茜色になってきた。子供たちの歓声が聞こえる。

 谷間の村から上を見ると、周囲の山々が空に届かんばかりに突き上げている。そして空はその遥か上、いくら突き上げても届かないところにある。ところが、例えば峠のような高い位置からザンスカ−ルの広い谷を見下ろすように眺めると、空の位置が変わってくるように思えるので不思議だ。

 広い谷の周辺の山は、例えそれが氷河の高峰であっても実際よりはるか遠く見え、高さを感じない。まるで広角レンズで覗いたように、谷の中央が盛り上がって見え、山は遠のき、高さを感じない。白い雲が視線のちょっと下にくる。

 すると、空が降りてくるというか、空が地上を包んでしまうような、山や谷が空に浮いているようなそんな気がしてくる。空の色のせいだろうか、それとも気のせいだろうか。 こんなところに「天空の王国」を見たような気がした。

5.徒渉に驚き、みぞれに震える

 歩き出して4日目の8月14日、朝のうちに最後の村、標高4200mのカルギャを通過した。谷の真ん中で立ちはだかるように聳えるゴンパラジョン山に向かっていく。この山はマッタ−ホルの屹立している部分だけを切り取ったような山だが、近づくと、標高差1000mは十分あると思われる岩壁は迫力たっぷりだ。

 ほとんどの山はガイド達にとって無名峰なのに、この山だけ立派な名前がついている訳をアンドゥ−がまじめに説明してくれた。

 「昔ある旅人がこの山が鳴るのを聞いた・・・・・・お経を唱え、鐘の音やホルンの響く音まで・・・・・・それ以来この山はこの地の人々と、旅人にとって大切な山になった」と。

 この日のキャンプ地はシンゴ=ラの入口にあるラカン、谷は狭まり氷河が間近に迫っている、標高は4400mだ。

 どんな山歩きでも一日の行程を終えてキャンプ地に着く時は嬉しいものだ。まして高所をすでに4日間、旅に出てからは10日を越した。隊全体に疲労も蓄積し始め、病人も出ていたので、「今日もやっと終わった」の感は一層であった。

 ところがこのキャンプ地を前に、川幅が狭まったとはいえツァラップ川の上流の流れが氷河直下の凍るように冷たい白濁した激流で流れているではないか。川幅は50mちかい。徒渉するしかないが、不用と聞いて置いてきたザイルが恨めしい。

 すでに数回の小規模な徒渉は経験してきたが、いずれも膝下までの水深で、川幅も10m程度、数十秒で足が痺れるほど冷たいが、そんなに驚くほどのことはなかった。 数人づつ互いに手をつないで丸くなり、激流に耐えられるように渡るのだが、スタッフも総出で我々の輪に入り必死に支えてくれる。太ももから腰までくる流れの冷たさは、脳天をつき上げるようだ。流されたら助からないであろう激しい流れに、互いにつないだ手が切り離されそうになる。お互い訳のわからない大声を出して手を握り直す。むしろ大声を出していないと耐えられない状況なのだ。

 激しい流れを二つ、浅く流れもゆるやかだが長い流れを渡って終わったが、「身も心も凍る」思いを体験した。恐ろしいというより、「驚いた」が実感であった。

 その宵、天の川が帯状のガスのように空を渡る満点の星空が、時々かき乱されるようになり、天候の変化を予報していた。その翌日はシンゴ=ラ越えの日であり、今回のトレッキング中最も厳しい行程の日であった。

 シンゴ=ラの「ラ」は峠を意味する。シンゴ=ラの標高が我々が調べた5200mより、150m低い5050mであるとガイドから聞いてやや楽になったが、それでもラカンのキャンプから、650mの標高差がある。日本の山なら2時間で登るが、ここは酸素が薄い。悪いことにTさんは39度ちかい熱が3日続いており、Kuさん、Koさんも不調だ。若者頭のF先生が熱を出し、まさかと思うO氏まで気管支を痛めて元気がない。

 前夜と当日の朝のミ−ティングで病人シフトをとり、隊の精神状態を高めていつもの朝よりも早く出発したが、3人が馬の背にまたがった。結果的にメンバ−の頑張りで、それほど厳しいことにはならずに峠越えに成功したが、上りの半分からは雪渓の上の徑になり、その頃から冷たい雨が降り出した。見え隠れしていた氷河の壁もガスに閉ざされてしまった。5000m、やはり息が苦しい。雪の急登をつめて達した峠には、雨の中にタルチョ(経文が書かれた布)が数本の竿にはためいているだけであったが、私たちはここで柿沼先生の散骨式を行った。

 我々のトレッキング同人の最長老であり、誰もが敬愛する柿沼博先生がなくなってから2ヵ月しか経っていなかった。72才であられた。

 1983年のソ−ラン=ナラのトレッキングが先生の初ヒマラヤであり、同人結成以来は毎回ご一緒され、その笑顔と若々しい言動はいつでも、どこでも我々の励みとなっていた。ザンスカ−ルの山旅も先生のご予定には入っていたようだが、春からの心臓の不調で断念され、「いいよ、ザンスカ−ルは無くならないからこの次行くよ!」とあの笑顔で語られたのが昨日のことのようで胸が痛い。6月9日、まさかのご急逝であったが、存在感の大きな大先輩をなくしたわれわれは悲しい。

 ご遺族のご希望で、我々はこのシンゴ=ラでも柿沼先生の散骨式を行った。雨の中、用意したロ−ソクとお線香もままならず、散骨しながら積んだケルンに合掌しただけであったが、顔にかかる雨粒が広がってケルンがかすんだ。

 折から雨がみぞれに変り、祈り終えて立ち上がった我々はその冷たさに震えた。

6.12人と19頭

 今回私たちのトレッキングを支えてくれたスタッフは、2人のガイド・3人のキッチン・19頭の馬を率いる6人の馬方達であった。手配はマナリの森田さんとサンンペル君だ。 彼らは十日も前にマナリを出て、シンゴ=ラを越え、パダムで到着の遅れた私たちを4日も待っていたという。それにしても我々14人にたいして、12人と19頭は豪勢だ。チ−フはガイドのパルカッシュ、まだ若いがよく気がつき、優しく紳士的で、しかも非常にタフだ。いつも全体に目を配っている。シンゴ=ラを無事に越えられてほっとした私が「おかげで無事越えられた」とのお礼を言ったら、〃My duty sir 〃と目を光らせながらも淡白に応えた。

 もう一人のガイドはアンドゥ−、マナリのガイド組合の昔からの統領、リグジン氏の次男でサンペルの弟だ。彼が幼年のころからの知り合いだが、明るく、快活でタフな好青年である。彼は、軍隊のスキ−選手だけの特別チ−ムに所属しており、長野オリンピックには選手として日本に行くことになるだろう、と豪語する。

 コック長のイエシ=ラマは、いつもニコニコと楽しそうに料理を作っている。デリ−のホテルで長く働いていたという彼は非常に腕がいい。限られた材料と道具で、毎日趣向をこらしたおいしい食事を用意してくれた。キャンプでの食事に余り期待してなかった我々であったが、大いに満足し、持参した日本食をたくさん余らせてしまった。その彼、最後のキャンプの明けた朝、次のトレッキングチ−ムが待つザンスカ−ルへ行くのだと、一人馬に乗って再びシンゴ=ラに向かって行った。

 6人の馬方の率いる19頭が、我々とスタッフの荷物を運んでくれる。長いキャラバンになる。この19頭が、二人に一張りのテントや、食堂テント、トイレテントまでの「快適」を保障してくれた。また乗用の2頭の馬には何人ものメンバ−がお世話になった。みんな良い連中で、2〜3日すると片言と笑顔での交流が始まる、これがまた楽しい。我々のトレッキングの成功のため、全員が献身的に働いてくれたことに感謝している。

7.アシュラムに帰った。

 8月17日、槍ケ岳によく似た山の下にある、パラモのキャンプを後にした。予備日の消費で行程を一日縮めて歩いたため、強行軍の日が多かったが、昨日は早めにキャンプに着いてゆっくりくつろいだ。それに、今日の2本の歩行で歩くトレッキングが終わる、という解放感が加わって足取りが軽い。まだ朝のうちにチッカに着いた、道路が通じている、もう歩かなくてもいい。ここはラホ−ル地域、ザンスカ−ルと同じヒマラヤの高地に同じ仏教徒が住む。しかし違いを感じる、家屋が日干しレンガでなく石積みだ。人々の服装も微妙に違う。村を取り巻く畑の作物は同じだが、その面積はザンスカ−ルより二廻りくらい広い。行政的にも変わり、ここはヒマチャル=プラデシュ州だ。セントラルラホ−ル山群が見えている。アンドゥ−が胸を張って言う、「ヒマチャル=プラデシュでは全ての村に道路と電気が通じている」と。

 このラホ−ル最奥のチッカ村で迎えの車を待った。子供たちが集まってくる。不調だったメンバ−も大分回復して皆それぞれにくつろぐ。しかし、ずっと元気だった若いW君が疲れが出たらしくひっくり返ったままだ。Kさんはアンドゥ−に案内してもらって村の小学校を見に行った。

 ところが、迎えの車が来ない。2時間下の位置にあるダルチャまで下りていったパルカッシュが戻ってきたが、昨夜ダルチャに着いているはずの車は来ていないという。喉が渇いて、30分ほど下ったネパ−ル人の茶店で待つことになる。 待つこと7時間、大型のバスにアンドゥ−の親父、統領のリグジン氏の顔が見えた・・・・・・これで帰れる。マリイの近くでの道路崩壊で昨夜一晩止められた、と語るリグジン氏の小柄な体に包まれる思いを感じた。

 インド山地の道路事情はますます深刻になるようだ。結局深夜のロ−タン=パス越えとなり、マリイ下の崩壊場所で夜が明け、陽が昇り、パルカッシュのパルチャン村を通過して森田千里さんの山荘、アシュラムに着いたのは、18日の午前10時になってしいた。アシュラムでの予備日を使わず、強行軍で歩いたことをこの時は喜んだ。

 森田さんご夫妻に暖かく迎えられ、10日ぶりのシャワ−を浴び、よく冷えたビ−ルに身も心も今度はとろける思いである。

 2階のベランダから、熟したリンゴ園越しに、オ−ルドマナリとその背景の山々を眺めてうたた寝して・・・・・ 目覚めて、アシュラムに居ることに最高の心地よさを感じた。アシュラムに着いた、というより「帰って来た」と思った。

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