六月のヒマラヤは花盛り
藤 井 日 出 子
今年の春の花は一週間早いという。昨年は草もはえない月世界のような乾燥地帯へ行き高山病にかかったので、見渡す限りサクラソウなどの花達がジュータンのように咲き広がるというのに憧れたのである。
1996年6月9日〜20日までの日程で6回目のヒマラヤに入った。今回は橋上さんと吉田さんと同行した。トレッキングはインド在住の森田夫妻それに滞在していた女性2人も参加した。
標高3,000mあたりから登り始めた原はシロバナヘビイチゴ(*1)で真っ白であった。もう少し経つとジャムにするイチゴ摘みで賑わうという。森林限界は標高3,500m付近でそこにテントを張った。明朝来る荷運びの馬を待つことと、倒木を燃やして焚き火をするのに都合が良かったのだ。荷解きをして、ブルーポピーを見に行った6年前のロータンパスの見える所まで行くと、まだ雪に覆われ真冬の様相であった。足下はイチゲ、コケリンドウ(*2)、キンバイ、クマオンアヤメ(*3)、アマナ類が咲き、シャクナゲの大群落はピンクに花が真っ盛りであった。そんな夢のようなお花畑の中に宝石の原石が突出ているのをみつけた。水晶、トパーズ、ガーネット、ザクロ石、夢の世界だ。
野鳥はビロードのような美しい声でさえずり、羊が時々メーメー啼く。そんな中カタカタという人工的な音がする。搾った乳でバターを羊飼いが作っている音だ。
気温が下がり夜がきた。焚き火で暖をとりホカロン3ヶ抱え重ねた寝袋に潜り込む。きらめく星も人工衛星も今夜は見えない。
あくる朝、荷運びの馬が10頭、約束より1日遅れてやってきた。今日は標高4,000mまで登り、雪渓を幾つも越えてブリグの下の雪線にテントを張る予定だ。 歩き出してまもなく、まん丸に花をつけたサクラソウ(*4)をみつけた。前に一度見たが再び会えて感激であった。雪解けの歩き難い道を3,900mまで登った時、美しい花のジュータンが現れた。まことに神秘的で極楽浄土とはこのような所だと勝手に決めた。桃色のサクラソウ(*5)、青・黄・白・紫のイチゲ、濃紫のリンドウ、鮮やかな黄色はキンバイだ。薄い酸素、凍えた手で何枚もシャッターをきった。
雪渓の傾斜がきつくなり凍結している所が出てきたのでアイゼンをつけた。リーダーの森田先生は一生懸命ピッケルで雪氷をきってくれた。「滑落したときは…」と注意指導をうけ緊張が高まった。4,000mまで標高を上げたとき冷たい大雨になった。森田先生や馬方らが先を見に行ったが、馬が危険ということで引き返すことになった。
水が美味しい平らな標高3,700mのところに遊牧民の泊まるカルカがあって、そこにテントを張った。雨がなかなか止まず濡れた服で身体が冷え切った。
翌朝、雲がどんどん切れていって、白き神々の座は氷河を抱き果てしなく続いていた。今日は自由行動、キッチンボーイの作ってくれた朝食のおかゆが何とも美味だ。気分は上々、怪しい探検隊はカメラを担ぎ出発した。ゴーゴーと轟音をたてて落下する数本の滝、新緑の美しいダケカンバの純林やヒイラギカシの純林が奥深い林を作っていた。薄暗い林内にヒマラヤエンレイソウ(*6)をみつけた。引かれて奥に行こうとすると後ろから声がした。「ツキノワグマが出るぞ!」山でのいつもの脅しのパターンだが本当に生息しているらしい。
珍しいヒマラヤハッカクレンを吉田さんが見つけてきた。散った薄紫色の花びらだけ見せられると散らない花が見たくなった。怪しい探検隊は、熊に対抗して全員で沢沿いの道を下った。リュウキンカ(*7)やサクラソウ(*8)が咲き乱れ、ラン の仲間やアザミの仲間やそれにブルーポピーはもう花芽をつけていた。しかし、ハッカクレン(*9)の草本は見つかったが花は終わっていた。残念であったが翌日下山の途中ついに見つけたのである。高さ30〜50センチ、花は直径2.5〜4センチ、葉は3〜5裂、裂片に鋸歯、メギ科、気品のある花はヤマシャクヤクにも似て清楚であった。
森林限界を越え雪解けして間もない草原は多種の花が満開であった。ミヤマキンバイ、ワスレナグサ、ニラ(*10)、アヤメ、コケリンドウ、ヒマラヤアマナ、チシマアマナ、マンテマ、エンゴサク(*11)、キスミレ、キケマン、ウマノアシガタ、ヒマラヤナズナ、コケモモ、矮小のフクジュソウ、イチゲ(*12)などが華やかに彩って、チョウセンシロ、アカタテハ、ヒマラヤヒョウモンなどの蝶が舞っていた。
6月のヒマラヤは花盛りで、このロマン溢れた計画をされた柿沼先生を偲び、ハイビャクシンの葉(この地方では線香にするという)を燃やして合掌した。
*植物について植物学者・太田泰弘氏にご教授いただいた。参考にした植物図鑑は
「Flowers of the Himalaya」(Oleg Polunin & Adam Stainton)、「Flowers of the Himalaya a supplement」(Adam Stainton)、「植物の世界」(朝日新聞社)