柿沼先生を偲ぶ

大 島 英 昭

「もうすぐ毎日が日曜日」というのが柿沼先生の口癖で、退職したらやりたいことが山のようにあるご様子だった。その言葉通り、退職後は山、旅行、焼き物、写真など、趣味の域を越えるご活躍振りだったが、その辺の事情は、私より現会員の皆さんの方がよくご存知の筈である。私は、浦和一女山岳部顧問として、生徒ばかりか未熟な私をも辛抱強く指導して下さっていた時期の先生を語ることにしたい。

ざっと数えてみたら、柿沼先生には37回の山行にご一緒していただいている。山に登らない海外旅行を含めれば回数はもっと増える。1978年4月28、29日の飯盛山が最初らしい。浦和一女山岳部の新入生歓迎山行であった。私は30代半ば、柿沼先生は53才くらいだったと思う。先生は同年浦和市立高から転勤してこられたばかりだった。最後にご一緒したのは、1987年11月14日(県民の日)の高柄山への職場ハイキングであった。先生はすでに退職されていたが、一女で非常勤講師をしておられた関係で、参加していただけたのである。「ヒマラヤ・トレッキング・グループ」の活動には、草創期、第二回のインド行から、加わられた。前年1982年の第一回大遠征に新井勇氏の紹介で私が参加、その私が今度は柿沼先生を紹介したのが縁である。5年後の1988年には、私が某新設高校に転勤、6度の夏を海外で過ごした黄金期も終わり、長いお休みをいただくこととなった。そして柿沼先生の方は、今年お亡くなりになるまで、皆勤で良い夏を満喫され続けたわけである。

顧問の交代期に当たっていた当時、一女山岳部にとって柿沼先生の豊富な経験と知識は貴重であった。退職までの7年間と特別講師をされた1年間、常に事実上の主顧問として生徒の指導に当たられた。生徒にも非常に頼られ、かつ愛されており、当時の部報を読むと、似顔絵入りで何度も紹介されている。退職の際には、卒業生も大勢参加して盛大な送別会が生徒主催で催された。どこだか忘れてしまったが、校外の広い会場を借り、山行時に撮影された古い8ミリ映画を上映するなど、非常に気の利いた企画であり、柿沼先生も上機嫌で、胸にしみる名挨拶をされた。その時少し派手目のカッターシャツを贈られて照れておられたが、その後ずっと愛用されていたところを見ると、まんざらでもなかったようだ。先生は、厳しい目で生徒を見つめながらも、指導の際の接し方はとてもソフトであり理論的であり、私などにはとうてい真似の出来ない、人格そのものから発するもののようであった。山や植物の同定には優れており、地名にも強く、山行時に得た記憶が鮮明であった。面倒見が良く、ラジュースの扱い方やテントの張り方に至るまでつきっきりで教えるという風があった。先生が辞められてからは、一女山岳部のカラーまで変わってしまったように思われるほど、部の「顔」としての存在感に溢れていた。

37回の中には生徒引率ばかりでなく、個人山行も多数含まれる。どちらかあるいは両方の家族が一緒のこともあった。先生の奥さんとも1度だけご一緒した。80年の文化の日に、私の妻もまじえて4人で秩父御岳に登った時である。冬型の強風の吹く快晴の日であった。先生は風を避けながら一心に自慢のホエーブスを操られた。日頃の言動から柿沼先生がたとえようもなく愛していられることが察せられたお嬢さんとも一緒に谷川に登った。83年7月のことである。帰り道を西黒尾根に取った。このルートは通る人が少なく、少々荒れており、先頭を歩いていたお嬢さんが誤って蜂の巣を弾いてしまった。種類ははっきりしない小型の蜂であったが、2番目を歩いていた私もあっという間に手の甲を数箇所刺されてしまった。針を突き刺したままへばりついている。夢中で引きはがした。お嬢さんはふくらはぎ下部を刺されたらしく、恐怖心もあって泣いておられた。柿沼先生は必死にそこを吸っておられた。85年の1月には私と先生2人だけで、雪の丹沢山系を縦走した。2人の意地の張り合いで登り続け、若い筈の私が先に音を上げた。雪に覆われた丹沢山の「みやま山荘」で一泊、厳寒の中で相客と酔っぱらって夜を過ごした。

酒といえば、山行帰りなど良く付あっていただいた。他の人が1〜2名入ることもあったが、基本的には大勢での飲み会は性に合わないらしく、思い出の中では2人で看板まで話しに熱中して過ごした光景ばかりが浮かぶ。当時の先生の年齢になってみて、それがいかに体力を要することかわかり、改めて感心している。飲みながらの話は常に人生論であり、哲学であり、読書論であった。本物の生き方は何かを論語を駆使しながら語られた。内村鑑三の「後世への最大遺物」、「ソクラテスの弁明」などが先生の座右の書であった。旧制と新制の違いはあったが、二人とも母校を同じくしたこともあって、先生の青春時代の苦労話も良く伺った。錬金術の例を引いて、「子供が純粋だというのは嘘であって、人は磨きに磨いてようやく純粋に到達できるのだ」というのも、先生の十八番であった。あるいはソクラテスのように議論を仕掛けることによって、後輩たちに真実を伝えることを自らの義務とされていたのかも知れない。思いがけないほど辛辣な皮肉を口にされることもあった。しかし本質はやさしく、人を傷つけることには臆病であった。先生は15以上も歳が違うのに、私には寛大で対等の友人として遇してくれた。いい気になってご無礼を申し上げたこともあるかも知れないと、今になって忸怩たる思いがする。

先生は「無協会派」クリスチャンを自称されていたが、禁欲的ではなかったかも知れない。芯のところはしっかと一本通していたが、同時に色々なものに対して限りなく興味を旺盛にされた。高価なカメラもたくさん持っていたし、旅行も買い物も大好きであった。柿沼流の豊かな人生を常に追求して止まないところがあった。手を染めたことはモノにしてしまうだけの能力を持たれ、また努力もされた。インドでは時間を意に介さず貪欲に写真を撮られ、集合に遅れることもあったと記憶している。生徒の山行でも同じで、移動中であっても撮りたい花が見つかると、黙ってじっと撮られ、行方不明になられた。そしていつのまにか、涼しい顔で列に復帰しておられるのであった。

先生と最後にお会いしたのは、5年ほど前、インドで何度もお世話になったシェルパの長男サンペル君がガイドの修業に来日した時である。村越さんたちの誘いで、私も少年時代から知っているこの若者に会いに熊谷を訪れた。そこで久しぶりに柿沼先生とお話しすることが出来たのである。今や隊列を離れてしまった後輩に対して、先生は限りなく優しかった。

私の手元に先生の作品が2点残された。1つは焼き物を始められた直後に作られたビールのジョッキである。それは既に完璧と思える完成度の伸びやかさと艶やかなうわぐすりのタッチを見せていると私には思える。もう1点は、5年前の再会でわざわざ準備して贈って下さった1組の夫婦茶碗である。外側が素焼きの味わいを残しており、その中にしっとり輝く白いデヴァナーガリ文字が浮かんでいる。それはもう何年も前、語学担当の私が怪しげなまま先生にお教えしたヒンディー語なのであった。