インドへのお礼

                        高野忠夫  

 今年も三度目のインド旅行に出掛けた。私の念願である“ヒマラヤの山々を目のあたりにしたい”という思いが、必ず達成出来るだろうという仲間の声に励まされ、4月から山歩きを始めた。高度障害対策として、7月12日から2泊で富士登山にも挑戦してきた。そのかいあってか、三度目正直で私の願いを叶えることが出来た。

 聞くところによると、ネパールからエベレストを眺めながら中国へ抜ける道に“ヒマラヤ街道”なる名称があるということだ。 しかし、今回私たちが行ったザンスカールの道は、4000m の高地をつらぬき、5000mから6000m 、そして 7000m級のヌン・クン峰まで、行く先々に白銀の高峰が連なっているのである。  私は、これこそ“ヒマラヤ街道”と呼ぶべきではないかと思ったほどである。

 本隊と別れた私たち60代、4人のジープは、往路に1日で突っ走った道を、2泊3日かけて、パタムからカルギルへの道をたどった。素晴らしいヒマラヤの景観を写真に撮りながらの旅であった。  万年雪をかぶった峰々、足もとまで押し出してきている氷河の流れ------。 何十回 「ストップ」の声をかけて、ジープを止めたことだろう。

 しかし、今回も私の失敗は繰り返された。最初はデリーからレーへの飛行機の中のことだ。初めて空から俯瞰するヒマラヤのやまなみ「なんと雄大なんだろう!」と感激し ているうちにレー空港へ着陸------飛行機から降り立った時は、すでに帽子をどこかに忘 れて来てしまった。  翌日、後発隊を待つ間、ゴンパ巡りだったのだが、無帽のまま 3500mの高所を一日中歩き廻った。そのあげくが、日射病になり、その夜は発熱し、翌日は昼頃から下痢がはじまり、高所障害をおこしはじめた。

 次の日、高度 2500mのカルギルに降って、やっと平常に戻ることができ、再びカルギルに戻るまで順調に過ごすことができた。  これが最初の躓きであった。次はカルギルからレーへの帰り道のことである。朝から数時間車に揺られ、やっとラマユルで昼食となった。ランチボックスと共にカメラを茶店に持ち込み、そのまま忘れてきてしまった。  せっかく撮ってやったキッチンボーイの写真もフイになってしまった。このカメラは北欧の旅から、三度のインド旅行にとつきあってくれたものであり、しかも、甥の贈ってくれたものだった。少々どころか、たいへん残念な思いだった。  ようやく私の念願を果たしたことでもあり、これでインド旅行ともお別れのしるしとして、インドに捧げたこととしよう。