チャンドラタール隊 旅の記録
 

第1日

 

 7/31(木)

 

記録:丹野和信

行程:成田 → デリー
 

天気:曇り

7:30 京成上野駅に時間通り集合する。

7:43 成田空港に向けて出発。

9:00 成田空港第2ターミナルに着く。

10:00 チェックイン。

11:15 出国手続きをする。

↓ ロビーにて福田隊長と会う。

12:30 インドに向けて離陸する。AI307便

福田隊長は、JAL471便で離陸。

 

《日本時間15:30→インド時間12:00に変換》

 

16:20 インディラ・ガンジー空港に到着。

JAL471便は16:13に到着。

17:30 福田隊長と空港出口で合流する。

18:00 ホテル・カニシカに着く。サンジャイ氏に    挨拶する。

19:30 サンジャイ氏と次の日の打ち合わせと会計    を済ませる。

20:00 レストラン・ゲイロードへ夕食を食べに行 く。

22:00 ホテルに戻る。そして、各部屋それぞれ消 灯する。

 

・福田隊長の都合により、隊長のみJAL471便でインドに向かうことになり、残りのメンバーはAI307便で行くことになる。

・隊長をのぞくメンバー達は、何事もなく無事インドに入国。悪名高い空港の銀行での両替でもごまかされることもなかった。私が思うに、ここの銀行はお金をごまかすことで有名になりすぎたため、最近真面目に仕事をしているようだ。

・空港を出ると、隊長とサンジャイ氏の番頭のダンシィン氏が待っていた。早速タクシーに乗り込みホテルに向かう。

・ゲイロードでは、ビール・トマトスープ・マトンカレー・ホーレンソウのカレー・タンドリーチキン・ナン・チャイを飲食し、5人でしめて3000ルピー(チップを含む)。

・天気が悪いので、明日が心配だ。

 

第2日

 

 8/ 1(金)

 

記録:福田和宏

行程:デリー → マナリ
 

天気:曇り時々晴れ

5:30 起床。

6:30 ホテルカニシカ出発。デリー国内線空港へ。 タクシー。

7:45 ジャグソンエアー、チェックイン。

8:30 出発時間になるも飛行機見えず。遅れると の連絡。

↓ この間ひたすら出発ロビーで待ち続ける。   途中2回、軽食・飲み物のサービス。

13:45 飛べたとしてもダラムサラに目的地が変更になるとの連絡。キャンセルを決断。

14:30 マナリへ向け、長距離の陸路をタクシーで出発。

↓ ひたすら走り続ける。

19:50 チャンヂガールで夕食。 (ビール・フライドヌードル・フライドライス・

↓ ひたすら走り続ける。 チャパティ・カレー・チャイ しめて 900ルピー。)

翌日

6:15 クル到着。

7:50 ライサン・ブリッジ到着。

 

 早朝、外は小雨。2台のタクシーに分乗して空港へ向かうも、飛行機が飛び立てるか心配である。カウンターが開き、チェックインの手続きを済ますことができたのでちょっと安心する。預ける荷物が全体で30s程度オーバーし2200ルピー支払う。

この後、出発ロビーで6時間も待つことになる。この間の航空会社の説明は、「クル空港の視界が悪いから1時間待て・・・、もう1時間待て・・・。」と途方もなく待たせるのみであった。この間、恐縮してか、社員が愛想よく世間話に加わり、一緒の飛行機にのる予定のイギリス人夫妻も交え和気あいあいと過ごす。

 ダラムサラに目的地が変えられ、かついつ飛び立つかもはっきりしないことが明らかになったので、電話で、サンジャイ氏に相談のうえキャンセルを決断。そく、手続きを済ませ、タクシー2台で陸路マナリへ向け、デリーを発つことになった。重量オーバーの2200ルピーもしっかり返してもらった。

車は遅々とした進みではあるが、確実にマナリを目指していた。しかし、車中で寝苦しい1泊を過ごし目覚めた後、マナリを目前にして大変な事態に直面することになる。マナリへの幹線道路が大雨で決壊しており、しばらくは通れないというのである。とにかく行けるところまで行き現場を目の当たりにしたが、とんでもない状況だ。アシュラムのサンペル君に電話で連絡をとり、どうしたらよいかをたずねる。結局、ベアス川の対岸に出るしかなく、デリーからのタクシーをそこで乗り捨て、歩いて吊り橋を渡ることになった。この後、サンペル君がわざわざ対岸まで車で迎えにきてくれ何とかマナリへたどり着くことができた。

 インドに着いて早々、様々な問題に見舞われ苦労したが、私たちのインドの仲間たちには、問題が起こるたびに親身になって助けていただき、感謝感謝である。

 

 

第3日

 

 8/ 2(土)

 

記録:福地裕仁

行程:マナリ滞在
 

天気:雨

9:00 ライサン・ブリッジ出発

10:00 洪水による道路崩壊のため、アシュラム近    くの茶屋でタクシーでの移動を諦める。

10:20 茶屋を徒歩で出発。

 ↓

11:30 アシュラムに到着。

13:00 昼ごはん

21:00 夕ごはん

 

前日、飛行機が飛ばなかったため、タクシーでマナリに向かった。しかし、マナリまで残り30kmの地点で洪水による道路崩壊により、タクシーでの移動が不可能になった。

 崩壊地点を徒歩で渡るという案もでたが、歩けるという程度の崩壊ではなく、凄まじい濁流であったため断念した。

 結局、今まで乗ってきたタクシーを捨てて、アシュラムからジープを出してもらうことになった。1時間ほどライサン・ブリッジで待っていたら、サンペルさんがやって来た。橋を渡り少し崖を登り、用意してくれたジープに乗って出発した。10:00ごろ小さな茶屋の前で降ろされた。どうやらアシュラムの手前の川が氾濫したらしく、ここからは歩きとなった。

 普通の道を通って行けば10分程度の距離らしかったが、山を越えていったために、1時間強かかった。雨のおかげでトラブル続きであったが、どうにか11:30にアシュラムに到着した。

 森田さんから、チャイとビールのおもてなしを受け、各自3部屋に分かれて、ようやく一息ついた。部屋は、増田・福田先輩、福地・丹野先輩、福田直也。その後、洗濯したり、風呂に入ったしてのんびりと過ごす。

13:00 に昼飯。久しぶりに白いご飯と、ダルカレーとカレー風味の野菜炒め、生野菜、洋梨。洋梨は、見かけによらずさくっとしていておいしかった。

昼飯後はフリー・タイムとなり、丹野・増田両者は16:30頃付近の散策へ出かけた。私は雨に濡れるのはコリゴリだったため、アシュラムで昼寝した。昨日、車中泊だったので、ベットで寝られるのが嬉しかった。

 21:〇〇 夕ごはんを食べる。蕨市で教員をやっておられる女性の方と、その娘さん(美大の3年生)と同席。チキンカレーがおいしかった。

 23:00頃みな寝る。

 

 

第4日

 

8/ 3(水)

 

記録:福田直也

行程:マナリにて停滞
 

天気:曇り 気温15度

7:30 起床。   8:50 朝食。

10:00 各自フリータイム。

13:15 マナリ中心街へ出発。

14:25 レストランにて昼食。

13:30 買い物。

17:35 アシュラムへ出発。

18:50 温泉へ入りに行く。

19:40 アシュラムに戻る。

20:00 夕食。

21:20 ミーティング。

23:30 学生の語らい。

 

 外はまだぐずついている天候。目覚めにおいしいチャイをいただいて気分爽快。朝食には味噌汁がでた。パンと味噌汁というのは初めての試みだったが、とにかく具のミツバとシソの味に感激。卵焼き、生野菜もおいしい。食後には日本茶まで出て至れり尽くせり。森田先生と今後の行動について話し合うが、どうやら無理との事。各自部屋に戻って自由に時間を過ごす。寝るものあり。手紙をかくものあり。読書にいそしむものあり。

 マナリの町は遠い。途中ぬかるみや急登がいくつもありスムーズに進めない。サンダルや素足で通行する現地人は何者かと思う。アスファルトの道路に出てくると、車がやたらにいばっているので極めて不快。インドの人はよく耐えている。橋から下を流れる川を見ると、昨日よりはやや水量が減っている。もしかしたら見通しは明るいかも。時々小雨が降る。マナリの町は人通りも多く、にぎやか。店にある品々も目をひくものばかり。行きつけというレストランに入ると、すでに昼食時は過ぎていると思われたがほぼ満席。ヨーロッパ人観光客も多い。森田さん達にも会う。福田先輩が顔見知りの店員にまずビールを注文。今までアルコール抜きという食事はなかった気がする。初めて食べたモモなるものはビールとの相性がぴったりであった。ヤキギョウザよりもずっと餃子であった。食事を終えてから土産物を見て回るが、結局直也が買ったものはメモ帳1冊のみ。帽子や指輪を買っていたものもいたが。まだ下の舗装路は不通とのことなので、またうんざりするような道を帰る。途中立ち寄った土産屋で福地は欲しくもないものを買わされてしまう。

 アシュラムから少し登ったところの温泉に行くと、ほんの2か月前にできたばっかりという新しい風呂にはいることができた。これは素晴らしい。ひと風呂浴びた後は例に漏れずビールで乾杯。食事中、われわれがチャンドラタール行きを断念せざるを得ない事がはっきりする。せっかくここまできたのに…と無念であったが、明日からの新し

いプランに希望を託し、せめて太陽だけでもみたいなと思いつつ1日を終わる。

 

 

第 5日

 

8/ 4(水)

 

記録:増田直之

行程:マナリ → パンド・ロパ
 

天気:晴れ

6:15 起床。

8:30 朝食。

11:30 ポーター、ガイド到着。

12:00 アシュラム出発。

12:50 2465m で1本 (〜13:05)。

13:33 滝で1本 (〜13:50)。

14:15 2855m で1本 (〜14:35)。

15:00 3065m で1本 (〜15:20)。

15:55 3295m で1本 (〜16:50)。

17:05 3370m でポーターを待つ (〜18:20)

18:50 Pandu Ropa到着。

20:50 夕食。

22:00 就寝。

 

 雨ばかりの日が続いていたが、ついに晴れる。アシュラムから見える周りの景色はとにかく凄い。万年雪の白、空の青、木々の緑、インドにいるというより、ヨーロッパアルプスの写真を見ているようだ。

 朝食を食べながら、チャンドラ・タールをあきらめブリグ・レイクを目指す事を知る。馬もジープも無く、ポーターと自分の力でトレッキングというのもいいかも知れない。予定とは全く違ったトレッキングにそう期待する。しかしアシュラムから見える登山道は羊が通る道のためか、かなり急で大変そうだ。

 10:00 出発予定がポーターの都合で、11:30 に到着。到着するとすぐに荷造り、装備分けを始めた。年が若い人はやはり荷物が少ないようだ。ポーターが装備分けをしている中、私たちとガイドのネギさんは先発する。バシストの町を通過し、登山道に入る。道には動物の糞があちこちにあり臭う。やはり羊の道なんだ、と実感する。行動中は高度順化を兼ねてゆっくり登り、休みを多く取りつつ登る。登り出すと皆無口。

 途中ポーターを待つため写真を撮ったり、昼寝をしたり、日焼けしたり適当に過ごす。このあたりから福地が下痢で苦しむ。

 テン場は草原が広がり、その中を小川が流れ、ロバが草を食べ、という夢の中のようなところだ。目の前には万年雪を被った山脈が横たわっている。こんな風景は日本にはない。だれもが見入っている。

 美味しいがとても食べ切らない夕食の後、外に出ると満天の星。プラネタリウムなんてものじゃない。流れ星もまた凄いもので、彗星という感じだ。流れ星に福地の下痢が直るように「下痢、下痢、下痢」と3回唱えたが、「なおして」と言ってないから反対にもっと酷くならないだろうか?と心配したが、俺のことじゃないし、まぁいいか。

 やっと始まったトレッキングの初日を終え、充実した気分でテントに入った。

 

 

第6日

 

 8/ 5(火)

 

記録:丹野和信

行程:バンドゥ・ロバ→ブリグ・レイク下
 

天気:晴れのち曇り、霧、雨

6:00 起床。

7:00 朝食。チャパティ、パン、ジャム、タマゴ    焼き、ソーセージ、ジャガイモ、サラダ、    スープ、チャイ。

8:23 出発。

 ↓ 15分に1回の小休止。30分に1回の休    憩のペースで登る。

 ↓ 途中、西の方にハヌマン・チィバ(19,45     0ft≒6500m)がよく見える。

11:05 ブリグ・レイクに着く。約4100m。今日の キャンプサイト予定地。

    昼食(チョコ、アメ、ゆで卵、ジュース) を食べたり、あたりを散策したりして思い 思いの時間を過ごす。

15:00 ポーター達が別のキャンプサイトに向かっ てしまったらしく、急遽湖を離れ、下り始 める。

30分に1回休憩のペースで下る。

16:43 次のキャンプサイトに着く。ネギ氏がポー ターを捜し始める。

17:30 かなり上の尾根でポーター達を発見。

19:00 ポーター全員が、降り終わる。

20:20 夕食。マッシュルーム カレー、ツナと野 菜のいため物、サラダ、トマトスープ、チ ョーメン、ライス、コーヒー。

22:00 就寝。

 

・朝起きると、かすかに頭が痛い。早速、高山病の初期症状が現れ始めた。これから先が思いやられる。

・天気は、ほぼ快晴。小さな花が咲き乱れる草原地帯を登って行く。眺めもよく、歩いていて大変気持ちがいい。あたりには雪で覆われた山々がよく見え、ガイドのネギ氏は、その中の1つ、ハヌマン・チィバ山へ2度登頂したことがあるそうである。

・いくら待ってもポーター達が来ない。ネギ氏があたりを捜しに行き、羊飼いの少年よりポーター達が下に降りていったとの情報を得て、我々も下り始める。しかし、ポーター達がいると思われた別のキャンプサイトには誰もいない。このあたりをネギ氏が捜し始めてからしばらくすると、山の上の方に人影が見える。ネギ氏が口笛を吹いて合図しているところを見ると、どうやらあれがポーター達のようである。我々一同、ホッとする。1時間ほどすると、雨と霧のひどい中をポーター達が続々降りてきた。(このころ、ほとんどのメンバーから高山病の症状が出始める。)後で聞いた話によると、ポーター達が教えられていたコースが違っていたようである。

・スタッフのみなさん、今日は大変ご苦労様でした。

 

第7日

 

 8/ 6(水)

 

記録:福田和宏

行程:ブリグレイク下→コティ
 

天気:晴れ 時々曇り

6:40 起床。

7:20 朝食。(チャパティ・スープ・ジャガイモ   ・サラダ・ツナ・ゆで卵)

9:00 出発。

10:26 マナリからロータンパスへの幹線道路に合   流。

11:45 ショートカットのコースをたどりコティに   到着。

12:00 1回目の昼食。(ジャガイモ・ナッツ・チ   ョコ・ジュース)

13:30 2回目の昼食。(カレーヌードル)

↓ 日光浴を楽しむ。

15:30 おやつ。(フライドポテト・チャイ)

↓ 引き続き日光浴を楽しむ。

18:00 夕食。(スープ・サラダ・ライス・ダルカ   レー・チキンカレー・ジャガイモのジャム   あえ・ゼリー・チャイの豪華メニュー。)

20:00 就寝。

 

 青空がのぞいており、今日の行程も心配無さそう。起床から 2時間20分で全てのテントを撤収し荷分けまでして出発準備を完了する。なかなか手際がよい。ガイドのネギ氏、コックのカルー氏、11人のポーター諸氏と我々5名で和気あいあいと記念撮影をしていざ出発。 草原の道を快適にひたすら下って行く。20分に1度の小休止、50分ごとの休憩のペースはあいかわらず。途中羊飼いのテントを2つ通過する。子どもたちが物珍しげに出て来てながめては、手を振ったりする。

 歩くこと1時間半弱、マナリ〜ロータンパスの幹線道路に合流。茶店の脇にて休憩。3日前までの大雨による道路不通も一部開通した様子。TATA製の大型トラックが勢いよくけたたましいクラクションをひっきりなしに鳴らしながら下ってくる。

我々はここからショートカットコースをたどることになる。つるつる滑りやすい山道であるが、車道を行けば10qはあるであろうが、かなりカットして1時間余りでコティへ到着。

キャンプサイトは緑の草原で気持ちいい。お昼前にはすっかりくつろぎ態勢ができあがる。日の光を体中にいっぱいあびながら思い思いの午後の休日を充分に堪能する。我々のスタッフ諸氏も皆陽気に過ごしている。途中、羊飼いのペルラムというとっつあんがそばへよってきて右腕に日本語で自分の名前を書いてくれといい、書いてあげたら大喜び。気を好くして今度は反対の左腕手首に時計を書いてくれという。申し訳無さげにボールペンでにわかづくりのSEIKOの時計の絵を描いたらこれまた大満足。しきりに今何時か聞いてくれとせがむ。そこで、今何時だいとたずねると、うれしそうに時計の絵をみながらいいかげんな時間を言ってはおおはしゃぎをしていた。

 明日、マナリで冷たいビールが飲めることを楽しみにシュラフにもぐりこんだ。

 

 

第8日

 

 8/ 7(木)

 

記録:福地裕仁

行程:コティ → アシュラム
 

天気:晴れ

6:30 起床

7:15 朝食

8:35 アシュラムへ向かってコチを出発。

 ↓

9:00 小休止

9:25 舗装道路に入る

 ↓

11:30 アシュラムに到着

↓ フリー・タイム

20:30 夕食

21:00 ミーティング

 

 寒くもなく、青空の見える朝だ。トレッキングの最終日にすばらしい天候に恵まれ、気持ちよい朝を迎えられるはずであった。しかし、私は昨日日焼けし過ぎて、肩のあたりがひりひりしてよく眠れなかった。みんなも日焼けに悩まされた様子で、テントから出てきて、朝食となる。トマト・スープ、生野菜、スクランブルエッグ、ポテト、マグロフレーク、チャパティをテントの外で食べる。私は、日に日に食欲が落ちてきていて、今朝もあまり食べられなかったが、せめてジャガイモだけでもと思い、ムリヤリ3つ食べた。

 朝の健康状態は皆良好、高血圧・高体温の丹野先輩もなぜか人並み状態に落ち着いていた。

 8:35ごろコチを出発。今日は帰れると思ってか、ポーターの人たちは楽しそうに走ったり、声を上げたりしている。それとは対照的に、日焼け組はつらそうな顔をして歩いている。1時間ほど山あいを行くが、今回のトレッキング中で最も歩きにくい道だ。急坂のぬかるみを下るため、皆つるつるよく滑っていた。

 9:30頃から舗装道路に入り、てくてく歩く。途中バシストの1つ手前の村から白い犬と黒い犬がついてくる。途中の道路が崩壊したところで、人が固まっていた。我々も現地の人と同じように少し登ってクリアした。白い犬はまだついてくる。

 11:30ついについにアシュラムに到着。森田さんの笑い声と、冷えたビールに迎えられる。やっぱりビールはうまい。トレッキングを終えた開放感と安心感からかグイグイ飲んでしまった。気持ちいいなあ。結局、白い犬はアシュラムまでやってきてしまった。

 その後、フリー・タイムとなり、マナリの町へ行く人、温泉へ行く人、日焼けで動けないため昼寝をする人、各自好きに遊んだ。私は温泉にいったが、思った通り日焼けにしみて痛かった。犬は居心地よさそうにアシュラムの庭に昼寝していた。近づいてみると思いっきりしっぽを振ってきて、なかなか愛嬌のある犬だった。

 辛かったトレッキングも終わってみると寂しいもので、ついこの間の苦労も忘れて、また行きたくなった。

 今回は行けなかったが、いつか行ってやるぞ、秘境チャンドラタール。

 

 

第9日

 

 8/ 8(金)

 

記録:福田直也

行程: マナリ滞在
 

天気:曇り

8:30 チャイチャイ

9:15 朝食

10:20 福田直也、増田、福地3人でマナリの町へ。

12:15

↓ レストラン・チョップスティックにて会食。

14:30

16:00 福田隊長デリーへ出発。

16:40 福田直、増田は温泉へ

18:30 夕食

19:00 マナリの町へ再び出発。

19:30 ダンス・フェスティバルの会場に到着。

22:00 リキシャをつかまえてバシストへ。

22:30 アシュラムに到着。

23:30 就寝

 

・久しぶりに朝寝坊しておいしいチャイをいただく。筆者もふくめて日焼けの跡がひりひりするもの、複数。丹野先輩は歩くのも辛そうだ。

・朝食には、ぬわんと納豆がお目見え。日本製の醤油もあって、おいしくいただけた。アシュラムでの食事はいつもおいしい。

・先輩たちは一足早くマナリの街に向かう。下の舗装路は大雨の傷跡がまだ生々しい。リクシャーは拾えなかった。その後、街で福地はゲーセンに入り、福田(直)と増田はおみやげを見て回る。3日に来た時より開いている店が多く。道路が開通したということでバス・ターミナルもにぎやかだった。

・昼にレストラン・チョップスティックにてトレッキング中にお世話になった人たちと会食。集まったのは我々5人の他に、Mr.ネギ、Mr.カール、Mr.ジャニーズ、Mr.なんとか(名前を忘れた)の4人。明るい話題でもり上がり、2時間があっという間に。やっぱりモモはおいしい。ビールも際限なく飲んでしまった。「チキン・スキヤキ」はどう味わっても決してすき焼きではなかった。最後に、小さく切ったフルーツの上にあつあつのチョコレートがかかった、ものすごいデザートが出た。

・食後再び土産物屋を見て回る。筆者もいくつか買い求めたが、バシスト村と違ってここマナリでは値段交渉(値切り)が一度も通用しなかった。それでも増田のようにボラれなかっただけましか。

・ここまで我々を引率してくださった福田先輩をお見送り。いろいろお疲れさまでした。同じ福田でも何もしなかった直也とは大違いで、非常にうまく隊をまとめてくださいました。二度目の挑戦だったチャンドラタール、またしても逃してしまいましたね。でも今度こそ大丈夫。三度目の正直ということで来年(?)必ずや美しい湖を見ることができると思います。今年と同じ、いやほぼ同じメンバーで‥‥‥‥‥。

・バシスト温泉で一人用個室に入ろうと思ったが、うまく丸め込まれてデラックスに2人で入る羽目に。あのラテンおやじ。

・ダンス・フェスティバルを見るために早めに夕食を済ませ、街へと向かう。が、会場がどこであるかわからず、とある店で尋ねる。ダンス・フェスティバルがどこかはわかったが、引き替えに日本語をいくつか教えなければならなくなる。買い物に用いる日本語を4種類も紙に書いて教える。

・ダンス・フェスティバルは大いに盛り上がっていた。公園の特設会場には軽く1000人以上の人が集まり、外国人観光客も多数混じっていた。インド人は映画や芝居が好きだと聞いていたが、それも納得できた。ステージいの音楽に合わせて客席で勝手に踊りだすやばいおやじさんもいた。

・帰りのリクシャーはバシスト温泉までで40ルピー。2台に分かれて乗った。筆者の乗った方の運転手はなんとまだ16歳。しかしやたらと社交的で大人相手にも強気だった。運転もすごい。インドの少年の素朴なたくましさを見せつけられた気がした。日本人の16歳で、こんなたくましい奴なんているんだろうか。いるわけないか‥‥‥‥‥。

 

 

第10日

 

8/ 9(土)

 

記録:増田直之

行程:マナリ滞在
 

天気:曇り時々晴れ

7:20 起床。

9:10 朝食。

11:30 買い物と昼食のためマナリへ出発。

18:00 アシュラムへ戻る。

18:30 ビールで宴会。

20:00 夕食。

 

 午前中はいつも通りの過ごし方で、買い物と昼食のためマナリにでかけることに決定。デリーの国内線空港で会った、イギリス婦人から聞いたお勧めの料理があるMay Flower Hotel に行くが、閑散としていて営業している様子が全く無い。受付の人に尋ねてみるがやはりやっていない。しかたなく、そこから市街地のほうへ焼きトウモロコシをかじりながら歩く。途中のお菓子屋で、おっかなびっくりケーキを食べる。食べる前はみんな下痢を心配してか、ためらっていた。だが、ひとくち食べると久し振りの甘いお菓子を口にいれたこと、予想以上に旨い事もあって、後はもくもくと食べていた。その後、森田さんの紹介のショールの店でみやげを買った。

 市街地に戻って来て、モナリザというホテルで昼食にしようということになったが、これまた怪しい。そこで、1人100 ルピーで各自昼にしようという事になり、私と福地、丹野先輩とナオヤで別行動をとることになった。私たちはチョップスティックでビールとつまみで乾杯し、結局二人で280 ルピーかかり、足が出てしまった。

 食事にも満足し、いろいろ土産物を買う。この後私の購入した“キャッツアイ”をめぐってStory が展開されるが、それはまたページをあらためて。

 

第11日

 

 8/10(日)

 

記録:丹野和信

行程:マナリ → デリー
 

天気:晴れのち曇り

7:45 チャイがくる。

10:00 朝食。

13:00

 ↓  昼食とショッピング。

15:30

16:00 マナリ出発。

17:10 ライサン橋にて、A/Cタクシーに乗り換 える。

20:45 夕食。

翌日

3:00 チャンディガールを過ぎたガソリン・スタ ンドで休憩する。

7:30 ホテル・カニシカに着く。

 

・いつも通り、「チャーイ」の声とともに一回起きるが、また寝てしまう。

・最後のマナリの休日を楽しもうとするが、午前中はアシュラムで過ごしてしまう。

・この前、デリー空港で知り合ったヤスミンという女性に教えてもらったチベッタン料理屋に食べに行く。お薦めのヌードルは大変おいしく、デザートのケーキもかなりいけている。

・森田さんに別れの挨拶をして、タクシーに乗る。崩れた道がまだ直っていないので、ライサン橋でA/Cタクシーに乗り換える。このタクシーの運ちゃんは、かなり飛ばし屋らしく、もやがかかり雨で濡れている夜の山道を、120Km/hで走って行く。

・途中、5時頃うとうとしていると、「今から、ディンジャラス・タイムなので、話し相手になってくれ。」という。今ぐらいの時間が、一番事故を起こしやすい時間帯なのであろう。しかし、助手席に座っていた筆者は、1時間もしないうち睡魔におそわれ、寝てしまった。全く役立たずである。

・運ちゃんが宣言したとおり、7:30にホテル・カニシカに着く。


 

夢を残して 1997 チャンドラタール隊 報告  福田 和宏

 大学生を中心とした5名(内3名は初のインド)のメンバーからなる私たちの隊は、ヒマラヤ山脈のふところ、チャンドラタールへの旅を目標に1月に発足しました。

 「チャンドラタールはいいぞ。チャンドラタールは、標高4300Mにある氷河湖のことでなあ、この湖からの眺めは目ん玉がとろけるほどだ。5000Mを越える氷河を抱くヒマラヤ主脈の山々が一望でき、この世のまさに桃源郷だ。湖のほとりの草原にテントを張り、寝っ転がりながら行き交う羊たちを横目に、この自然の中でゆったり過ごすと人生観が変わるぞっ。もっとも高度障害もひとしおだがな・・・。」

 1993年にすでに訪れたことのある村越先生を始め諸先輩方の話を聞くにつけ、自分たちも行ってこの目で・・・。“青い湖、緑のジュータンそしてそそり立つ白い峰々。夜は夜で満天の星空、飛び交う流れ星、光の糸を引くかのような人工衛星・・・。”夢をふくらませ計画をあたためてきたという次第です。おまけに1995年にこの地を目指したものの、道路決壊に伴い入山地までのルートが断たれ計画を泣く泣く変更したいきさつもあり、ますますその魅力にとりつかれていたのです。

 飛行機の飛び立つ瞬間のあのワクワクする思いが実に好きなんです。まして異国の地へ向かうとなればなおさらです。7月31日、夢や期待をいっぱいのせ今年こそはと日本を後にしたのでしたが・・・。

 日頃の行いが悪いのか、楽しみは後にとっておいて倍増させてやろうというまたまた暖か〜い配慮なのか、いやはや・・・。もう笑うしかありません。今年もチャンドラタールはついに夢に終わったというのが結論です。モンスーンの影響による大雨で、私たちが登山の基地としているマナリから、はや数qの地点より道路が至るところで崩壊しており、この先にある村々が陸の孤島と化しているというのです。もっとも今年の場合、マナリまで行くことからしてトラブル続きでした。飛行機がまともに飛ばず(もっとも有視界飛行の為天気が悪いとすぐ欠航になるので驚くまでもないのだが・・・。)、デリーでタクシーをチャーターし17時間の耐久ドライブの末に着いた所がマナリの手前10数q地点。ここでもはや既に道路脇のベアス川が氾濫し、決壊となっていたのです。デリーからのタクシーに別れを告げ、吊り橋を歩いて対岸へ渡り、何とかマナリへ文字通り転げるようにしてたどり着いたまではよかったのですが・・・。

 マナリの山荘アシュラムの森田先生が豪快に笑いながら言います。「何が起こるかわからないのがヒマラヤさっ。ワッハッハッ。チャンドラタールは逃げないよ。いいところは他にもいっぱいあるから・・・。それにしても二度あることは三度あるっていうからなあ。まあ気長に待てや、そのうち行けるさっ。ワッハッハッ・・・。」

 最後の言葉にちょっとひっかかりながらもそう妙に納得させられ、当初の計画を変更し、ブリグレイクトレッキング(マナリを基地とした4日間のトレッキングコース・アシュラムの東側急斜面からとりつき、標高4200Mのブリグレイクを経由しコチへ抜けるもの)という新たなルートのアドバイスを得た私たち5名は、落胆している暇も無く次の準備へと取り掛かったのでした。

このトレッキングでは、アシュラム(1900M)に2日滞在したうえに、自分たちの足で高度を少しずつかせいでいったため、心配されていた高度障害も行動に影響を及ぼすようなものは無くすみました。体調がいいこともあって、またコック長であるカルー氏の心づくしの料理でもあり山の中でもおいしいものをいっぱい食べました。トレッキング中は天気もよかったです。雄大な山並みも心に刻みました。満天の星空に感動もしてきました。行程にゆとりがあったためか元気に歩いたためかテント場に早く着いてしまうので、心苦しいのですが我々の大荷物をかつぎ上げてくれているスタッフの到着を待つ間、大草原でのお昼寝もたくさん楽しみました。ガイドのネギ氏を始めスタッフ諸氏の私たちにいい思いをしてもらおうという心配りもたくさん感じました。短い日程ではあったけれど、ヒマラヤにやってこれたことを実感できる魅力的なトレッキングを5名がそれぞれの役割を果たし協力するなかで達成し充実感を得ることができました。

 「計画はその通り果たせなかったけれども、行ってよかった。次に機会をつくってまた行こう!」これが私たち5名の共通の思いです。いい思いをいっぱいしてきました。おまけに、またいつかチャンドラタールへという夢を残してきたようで・・・。これからもますます夢を広げていけそうです。

振り返ると、今回の旅ではトラブルがいっぱいありました。でも妙なものです。それが心地よかったりするんです。そのトラブルを解決しようと一生懸命になる。それがいいのかもしれない。まして、そういうときに私たちには不思議なくらい暖かい現地の人々の手がさしのべられるんです。人々との交流を楽しみながら一つ一つ前進していく・・・。計画と実際でこんなに違ってしまっていいんだろうかと思うくらい、いきあたりばったりになってしまうのです。でもちゃんとなんとかなっている。“自分の旅の実力かな”なんて思い上がってみたりもしましたが、そうでないことがよ〜くわかりました。

 こうした旅ができる背景に、今までの多年にわたる村越先生を初めとした諸先輩方が築いてきてくださった現地の人たちとの信頼関係があるということを。われわれ若いメンバーも諸先輩方に感謝し敬意を表しつつ、また、さらに今後ヒマラヤをめざすより若い仲間たちにその蓄積を引き継いでいけるよう努力していく決意を胸に刻みました。

自分は、今現在すごく恵まれた環境の中にいることを痛感します。私のまわりの仲間たちのおかげで、現時点で私にとって最高の人生をおくっている、そう誇りに思います。

数々の自分を高めてくれる仲間との出会いを生んできてくれた“山”にも感謝の気持ちを込めつつ今回の報告と致します。

 

 

飲んべぇ4人組の北インド旅行       福田 直也

 トレッキングの変更から、思わずアシュラムに3連泊となった我々は、「食う・寝る・飲む」の毎日を過ごし、心身共に荒廃していた。特に筆者は相当の重症で、その後予定されていた楽しいはずの観光旅行も多少ではあるが、嫌気が差していた。かと言って日本に帰りたいわけでもないし。なんだかこう、自分が何のために生きているのか、訳が分からなくなってしまっていた。まさかインドにまできてこんな状態に陥るとは。

 そんな悶々たる筆者には一向構わず、ハードスケジュールの観光旅行は始まってしまった。体のだらけまくっていた我々(筆者だけか?)はデリーまでのタクシーで異常に消耗した。しかもデリーについてサンジャイ氏のもとへ行ってみれば案の定、ここで合流するはずの高荷氏はまだ到着していないという。日本に国際電話をかけてみたところ、存在は確認できたがそのときは留守。皆の怒りが頂点に達した。(実はこの高荷氏、エアチケットが取れず足止めを食らっていたのである。もちろんそんな事は我々の知るところではなかった)

 カニシカでの休憩をカットするようサンジャイ氏に言われ、すぐ出発。ガイドとして知人のアルワリアが派遣されて来た。このアルワリアという男、外見は岡田眞澄をうさんくさくしたようなインド人で、ふてぶてしい事この上ないといったタイプだったのだがどこか憎めない、お茶目なところを持っていた。彼が生まれて初めてイカの塩辛を口にしたときの顔を、筆者は忘れる事ができない。

 アフリカのサバンナを思わせるような大地を、タクシーは快走する。道路はあまりにも単調で、飽きてしまう。すると、アルが車を止め、道端の店に入っていく。あれっと思ったら、ビールをどっさり買ってきたではないか。この頃から、我々の旅は酒浸りの飲んべぇ旅行になっていった。なんせその後はずっと車内で、ホテルで、レストランでとビールづくしだったのだ。冷房のきいたタクシーに冷えたビール。蒸し暑いインドでは最高の贅沢なのだろう。しかし、両方一度にギンギンにされては、ちょっと辛いものがある。

 午後、日も傾きかけた頃にとある城へ到着。駐車場からは何と象に乗って城の中庭まで行くという心憎い演出。荷台のついた背中の高さと歩くときの大きな揺れに感激。中庭では色とりどりのサリーを身にまとったおおぜいの女性と子供達がくつろぎの時間を過ごしていた。中庭から出て帰ろうとすると、子供達がぞろぞろとくっついてきた。そしてカメラをぶら下げた増田と福地に群がって先を争うように写真を撮ってもらおうとする。中には「私を妹にしてよ」なんていう女の子がいてみたりしたもんだから、2人はとんだ勘違いをしたらしい。とくに増田なんか「いやぁ、参ったなあ、俺、モテモテだよ。やっぱ子供には分かるんだねえ、俺の人柄が」なんてホクホク顔。おいおい増田、子供達が興味を示しているのは単にそのカメラだけだぜ。お兄ちゃんになるのはだれでもいいんだ。

 ひとしきり写真を撮ってもらうと、子供達は逃げるようにその場を離れていった。時折こちらを振り返っては「天誅、天誅」と叫んでいた。どうやらありがとうといっているらしかった。

 11日の夕刻にタクシーはジャイプルの町に入った。「Pink City」というのがその別名である。なるほど、通りに面した建物は皆ピンク色をしている。ちょっと腹ごしらえにインド版ファーストフードショップに入り、サモサなどのスナックを食べる。当然全部カレー味。しかし不思議と飽きることがなかった。

 本日の宿は市街地を抜けた別の草原にそびえたっていた。名をホテル・クラーク。日本で手配したら学生には到底手の届かないような超高級ホテルである。サンジャイ氏に感謝。プールのあるホテルなんて生まれて初めてだったので絶対入ろうと思っていたが、増田はいまいちのりきでない。福地は入りたがっていたが、持ってきた水着はあの熊高ブーメランパンツだという。こいつはデリカシーというものがないのだろうか。

 12日は昼までジャイプル観光である。町のシンボルとして有名な「風の宮殿」、その他の建物をみて回った。中でも風の宮殿から見下ろした市街地は異国情緒たっぷりで、「今、インドにいます」というポストカードでもできそうな、本当に絵になる光景だった。筆者個人的には、タージマハールよりインドらしいと思う。

 今夜の宿泊地、アグラに到着する前に辺りは真っ暗になった。友人たちと一緒とはいえ、異国の夜は心細い。しかも人気のない平原を走っているというだけあって、光を放つものはたまに擦れ違う対向車のライトと夜空の星だけである。

 アグラのホテルはこれまたクラーク・グループの超高級ホテルで、ロビーにはいかにも金持ちという外国人がうようよしていた。ホテルに入る際、箱ごと買ってしまったビールをいかにして持ち込むかで悩んで、結局皆手荷物に可能な限り詰め込むことにした。ホテルに入ることはできたが、どうやらばれていたらしい。全員のバッグからビール瓶の頭がニョキニョキはみでていたのだ。そして、当然の事ながらこんなケチを働いている客はどう見ても我々だけであった。

 13日はまるごと1日アグラの観光である。アグラにきたからにはまず何と言ってもタージマハールを見物することになる。それからアグラ城などへ行くのがお決まりのコースとなっている。さらにアグラにはじゅうたんや宝石といった高価な土産物を売る店が多く、観光客がだまされることもあるという。

 タージマハールの入り口は手荷物チェックが異常に厳しかった。筆者のバッグの中にはアシュラムで取ったリンゴが入っていたのだが、それが理由で入れてもらえなかった。どうも生物は禁止らしい。どうしたものかと思っていたら、アルがそのリンゴをいきなり食べ始めた。おい、それは俺のだぞ…というまもなく小さなリンゴは細い芯になった。なんてふてぶてしいやつだ。しかし結果としてチェックをパスする事ができた。

 タージマハールというと玉葱型のドーム建造物の両脇に計4本の尖頭が横一線にならんでいると筆者は思っていたのだが、じつはそうではなかった。この尖頭は建物の下層にある四角い部分の四隅だったのだ。我々は玉葱を見上げながら、尖頭に囲まれた部分を一周してみた。裸足で歩くと大理石の感触が何とも心地好かった。

 とあるレストランで美味しいチキンカレーを食べた後、アグラ城へ向かう。赤茶色のレンガと真っ白な大理石で作られたこの城は頑丈でありながら優美でもあるという極めて調和の取れたものとなっていた。大理石造りのテラスの隣には空中庭園もあり、往年の華やいだ宮廷生活が容易に想像された。またみずうみのようにひろがる大河の向こう側には、先ほどのタージマハールがおもちゃのように置かれていた。

 インドの旅はやはり鉄道に限る、と言い切る人達がいる。「人の森」と形容されるインドの、ナマの姿を見る事ができるからだろう。筆者もアグラの駅までやってきて、そう思った。今考えると、あの駅で夜汽車が来るまで佇んでいた時間はこの旅行中でも最高のものだったのではないか。雑然としたプラットホームではそれこそありとあらゆる人々が思い思いの時間を過ごしていたが、真夏の月の光に照らされて、それらはすべて絵になっていた。

 冷房のききすぎた寝台車で一夜を過ごし、バラナシに到着したのは7時頃だった。チャイやチャパティを売る声がそこら中に響き渡っていた。インドの朝は人々の熱気が物凄い。こんな中にいると一旅行者の筆者までよし、買ってやる。食ってやる。意地でもやってやる。何がなんでも生き抜いて見せる、という意欲がふつふつと沸いてくる。不思議な国だ。

 夕方近くなってから、リクシャーでガンガへ向かった。リクシャーを降りた場所から川のほとりまでの通りは、今まで旅してきた中で最も賑やかで、華やかだった。これならごく普通の日本人観光客も喜ぶのではないか。

 大河ガンガは黄土色の水をたたえ流れていた。さすがにインド亜大陸の川はスケールが違う。川幅も軽く500mはありそうである。夕方なのであまり多くなかったが、水浴びをする女性たちがいる。昔写真で見た光景そのものであった。もう少し下流には火葬場があるらしい。曜日によっては何体もの死体が流れていくのを目にすることができるという。人間活動のすべてをのみこんで流れる川、ガンガ。本当に聖なるものは、実は庶民の足元にあるのではないか、筆者はそんな事を考えていた。 翌15日、午前中に再びガンガを訪れ手漕ぎ舟での遡行を楽しんだ後、釈迦が悟りを開いた地へ向かった。そこでは広い敷地に建物の基礎部分のみが遺跡として残っており、想像力を大いにかきたてられた。しかし、バラナシで雇ったガイドの英語が全く理解できないので退屈してしまった筆者はガイドの話を聞き流し、近くに集まっていた子供達と一緒にクリケットをして遊んだ。

 マナリのアシュラムを出発して以来、唯一ゆっくりできたのがここバラナシだった。子供と仲良くなったり、露店のフレッシュジュースに挑戦したり、怪しい笛を売り付けるおじさんにつきまとわれたり、といい思い出がたくさんできた。

 バラナシからデリーへ走る夜汽車はまたしても凍えるような寒さだった。

 最終日、我々はインドとの別れを惜しみつつ帰国の準備へはいった。昨日までのバラナシとは異なり、デリーは幾分乾燥していて快適である。買い物を一通り済ませた後、皆で最後のインド料理を食べに行く。ここのタンドリーチキンが絶品だった。日本ではまず食べられないのではないか。カレーは一週間以上食べ続けてきたが、もっと食べたいくらいだった。やはり9億人の人口に支持されている食べ物の実力といったところなのだろうか。

 荷物をまとめて空港へ。丹野先輩とバラナシで合流した高荷氏に見送られて中へ入る。丹野先輩、お疲れ様でした。初めてのインド旅行となった3人を引率しては、いろいろと気苦労も多かった事と思います。今度こそは気ままな独り旅を思う存分楽しんでください。

 リーダーと分かれた我々は試行錯誤を繰り返しながらもチェックイン、出国と順調に手続きを済ませ、あとは離陸を待つばかりとなった。ところが搭乗直前に筆者と増田が手荷物検査に引っ掛かるというハプニングが起き、一時は出国が危うくなった。結局は危険物と判断された物がただの乾電池だと判明してことなきを得た。もともと疑われる理由など無かったのだから当然だ。

 成田空港へ戻ってきた我々は、しばらくの間うろたえてしまった。建物が異常に清潔で、広くて無味乾燥だったからである。怪しい笛をしつこく売りつけるおじさんの姿は、もうない。空港内を移動する長い長い動く歩道に乗っているうちに、旅行中常に感じていた意欲がどんどんなくなってくるのにきづいた。外国人の目に映る日本人の姿を垣間見たようでもあった。インド人の生き生きとしていた顔が懐かしい。あれだけ差別や偏見そして貧富の差の激しい国でも良くあそこまで人間らしく明るく生きていられるなと思う。物質的に満ち足りた日本人の多くはまず得られない違う豊かさがインドにはごろごろしていた。「人の森」と呼ばれるあの国が、僕の真の心のよりどころとなる日も近いのではないか。例年よりもずっと涼しい日本でそんなことを思った。

 

 

夏合宿の地は北海道よりインド        増田 直之

 私は大学でもワンダーフォーゲル部に所属しているため夏合宿が当然ある。それも夏休みに。そうなると、インドには行けない。それで去年は行けなかった(ちなみに行ったところは私が高校3年の時についていった北アで、コースも同じ)。しかし2年にもなったし、サボってもいいかな、インドにもいきたいし、と感じ念願のインド行きを決心したのである。だが、ワンゲルの夏合宿は何と北海道。そっちにも行きたいが、やっぱりインドもいいし…としばらく心が揺れていたが、やはりインドには勝てなかった。

 夏休み前は落ち着かなかった。足りない装備や、病気を心配して薬を買ったり、注射を打っていったほうがいいかな?と心配したり、まるで小学校のときの遠足に行く前の夜のようだった。しかし親にはいつも通り、「交通事故で死ぬより、やりたいことをやって死んだほうがいい」と納得させた。

 「初めての海外旅行がインドとは俺も変わってるかな」と感じずにはいられなかったが、やはり成田につくと「インドもあとすこしか」と次第に期待が高まっていった。だがその期待も飛行機のカレー臭さによって打ち消された。初の国際線では飲んで、食って、寝てという素晴らしい時間を過ごし(この3原則がマナリでも続くとは…)、あっというまにインドへ。まとわりつくような空気、人々のぎらついた目、何の効果もなさそうな天井のファン、すべてが新鮮だった。臭くて、落書きされてる紙幣さえも。

 幾つかのトラブルがあったが、なんとかマナリまで来た。だがここでもトラブル発生。チャンドラタールトレッキングを断念せざるを得ないようだ。途中の道路が何箇所も崩壊しているためだ。予定変更して、近くにあるブリグレイクへ行くことにした。登山道は羊の通り道のためか、糞だらけ。だが景色は凄いの一言。木々の中に滝あり、草原の中に色とりどりの花あり、初日から満足できるトレッキングだった。食事も美味しい上に、たべ切らない量だった。

 尾根上を歩くから、周りの風景も一望できる。近くに目をやれば、草原の上を馬がゆっくりと移動し、遠くに目を移すと、雪を被った山脈。初めの予定を急に変更したため少し心配していたが、「来て良かった」本当にそう思った。高校から山を続けていたため最近マンネリ化していたが、久々に疲れているが、満足できるという山だ。氷河を見たり、砂漠には行けなかったが、私にとっては十分すぎた。

 インドに来ていろいろ感じる事はあった。でも私はインドに来る前に難しく考える事はよそう、そのまま受け止めればいいじゃないか、そう決めていた。そのためか、久々に素直になれた気がする。「もう一度、ここにきてみたい」、初めて旅行や山をやっていてそう感じた。インドだけでなく、いろいろの国へ旅してみたくなった。

 しかし、私一人では一生かかってもこの計画を立てることはできないだろう。トレッキングにしても、観光旅行にしても、村越先生や森田先生、サンジャイさん、そしてアルワリアの皆さんには本当にお世話になった。やはりこの貴重な機会を逃さないで(北海道に参加しなくて)良かったと思う。とにかく、ありがとうございました。