はじめに   熊谷トレッキング同人会長  村 越 昇

 昨年までに第五集を数えた「手作りのヒマラヤ旅行」を、この第六集から「私たちの山旅」と名称を替えて発行することになりました。

 私たちは、ヒマラヤのトレッキングを楽しむことを目的として集い、学習やトレ−ニングを積んで毎年のトレッキングを成功させてきました。20才から70才までの年齢幅をもつ仲間たちが、時々は一緒に日本の山も歩きながら、ヒマラヤを中心に楽しい思いをたくさんしてきました。その中で仲間が増え、要求が高まり、ヒマラヤだけでなく日本の山を組織的に、安全に、より高く、より深く歩きたいという気運が昂じてきました。

 そして97年の正月、安全と山歩きのレベルアップを目的として「山岳会」の組織をとった山歩きの会を発足させました。名称も「熊谷ヒマラヤトレッキング同人」から、「熊谷トレッキング同人」に変え、全国組織である「労山(日本勤労者山岳連盟)」にも加入しました。

 そして約1年、「山岳会」としてみれば、つたないものであったでしょう。また散漫でさえありました。しかし十数回の会企画の山行や、毎月の例会と機関紙の発行などを続ける中で、メンバ−の山行回数は増え、新たに沢のぼりや、積雪期の稜線歩きに挑戦する仲間も出てきました。技術講習の要求も高まり、次年度は計画的にこれに取り組み、自力で救急・救助ができる体制をめざした活動に踏み出そうと考えるようになりました。  そして近い将来、そんなに高くないヒマラヤのピ−クを踏みにいこう、そのための準備をしようということさえが話題になってきています。

 このような経過で、「私たちの山旅」(第六集)では、ヒマラヤトレッキングの報告に加えて、「熊谷トレッキング同人」の山行報告を掲載致しました。この報告集が私たちの記念だけでなく、どこかで、誰かのお役に立てば幸せと考えています。

 今年のヒマラヤトレッキングは、8人の中高年の仲間が秘境スピティ地方を巡ってきました。  1994年のキンノ−ル・スピティ トレッキングの際、道路崩壊で何日も閉じ込められた結果、スピティは通過しただけになってしまいました。翌95年にはまたの道路崩壊で再訪の計画が全面変更になってしまい、この度重なる無念を晴らす意味の計画でした。

 今年も天は私たちに味方せず、小雨のなかの乾燥高地の旅となりましたが、山上のゴンパ(チベット密教寺院)やユ−ラシア大陸最高所の村を訪ね、閉鎖的な秘境の絢爛たる文化に世界認識を深めました。さらに氷河の高峰を望む谷のアンモナイトの化石の累積に歓声を上げ、事前に学習した大地形成の神秘を実感してきました。

 平均年齢が60才にちかい仲間がテント生活をしながら、3500〜4500メ−トルの高地を歩いてきましたが、今回の成果は高度の影響をほとんど受けず、健康な状態でトレッキングを楽しめたことでした。

今年もまた道路崩壊に見舞われました。8月3日夜、カザ近くの河原のキャンプでテントを叩く雨足を聞いた翌日、いたるところの道路が壊れました。急遽マナリへの帰途につきましたが、ジ−プは何か所もで石を退け、土を掘り起こしながらの進行となり、ついには35キロの道を歩いてロ−タンパスに達することになりました。結局4日間かけての、森田千里さんの山荘アシュラムへの帰還となりましたが、今年もヒマラヤの大自然の偉大さの前で我々人間の造った物の脆弱さを痛感してきました。

 しかし全員心身ともに元気に、充実した思いで帰ってきました。

 今年も多くの人のお世話になりました。森田千里さんには例年のことながらアシュラムでの快適な数日間と、適切なアドバイスをいただきました。サンペル君の具体的な手配などの支援はまったく安心でした。スピティ・トレッキングのガイドとしては、統領のリグジン氏に直接お出まし願い、おかげで困難な状況から無事、迅速に脱出することができました。デリ−のサンジャイ氏にはデリ−でのさまざまな手配、ファミリ−なお世話をいただきました。他にも大勢の皆さんにご協力いただきました。

 この皆さんのご支援はいずれも非常に心温まるものであり、おかげで私たちは元気で、快適に今年のヒマラヤの山旅をすることができました。  最後に、準備の段階でヒマラヤの形成の楽しい地学の講義をしていただいた小林典夫さんと、協力いただいた会員の皆さんにお礼申し上げます。


T 基礎講座 堆積物から地史を読み取る    小 林 典 夫

1 はじめに

 石や地層、地形などの自然の事物をみると、その土地の過去から現在までの時間の流れが少しずつ見えてきます。自分では口をきけない、自然界にあるモノが、あるときには非常に雄弁に私たちに語りかけてきます。その言い分を聴いて理解するには、直接モノとつき合い、触れあうことがどうしても必要なようです。ヒマラヤの岩石や地形をまのあたりに見て、触れてこられたみなさんにも、そのようなモノとのつき合い方の一例をご紹介し、ヒマラヤの堆積物についてもこれまでに公表されているものを手がかりにして、少し触れようと思います。

2 崖の地層が語っていること

 まず、岩石・地層をどう見ていくかの話から始めましょう。これらが露出しているところを露頭と言います。崖で植物があまり生えていなければ、石や地層の重なりのようすがつかめます。どんな岩石でできているか、どんな重なり方や構造をしているかを見て、なぜこれらのものが今ここにあるのかを露頭の前で考えるのです。

関東山地などを調査するとき、里山〜低山ですと露頭をさがす時間の方があんがい長くなってしまいます。秩父の奥の方へ行くと、川沿いに地層がよく露出してきます。石を割り、観察し、ノートして、採集し、ナンバーを打ってそれを地図に記してと、なかなか前へ進めなくなりますが、ヒマラヤのように目に見える全ての風景が露岩・露頭の場合には、いったいどうなるでしょう。ひとつの露頭の前で考えこんで、日が暮れてしまうような気がします。

 岩石を見るとき、堆積岩〜火成岩〜変成岩の3つに区分して話を進めることが多いのですが、よほど典型的、標準的なものでないと初対面の石にこのような判断はくだせません。たとえば、火山の火口から出てきてすぐ近くにたまったものは、堆積岩と火成岩の両方のように見えますし、堆積岩が変成岩になるときは、同じ一連の変成作用を受けても、その程度に応じて途中のいろんな段階の中間的なものができてしまいます。できたときの温度・圧力の違いや、化学成分の出入りがあるためです。たとえが適切でないですが、鍋料理などで、いっぺんに食材を放り込んでしまうと、クタクタのや、ちょうどいいのや、生煮えのができてしまいます。味の染みたのやら、ダシが出てしまうのがあるのにも似ています。

 また、固まる前の地層なのか、岩石が風化してぽろぽろ、さらさらしてしまったのか、ながめているだけでは判断できません。遠くの崖、登れない場所、忙しく通りすぎるだけの場合などよけいにむずかしくなります。でも、そばに近寄り、手に取って見るところを想像するのもまた楽し、です。私も、トレッキングの後で見せていただく写真から、この想像やら予想をして、みなさんが歩かれた地域の地質のようすを思い描いています。

 石の名前がわからない、判断がつかないときでも、とりあえずその石に名前を付けます。あとで室内研究などの成果を加えて正規の分類名にすればいいので、とりあえずは何でもいいのです。色に注目してもいいし、質感からでも、身近なものや食べ物でも、商品でも、特徴が似ていたり何かを連想するようなものでもいいと思います。早い話が「あだ名」です。地質調査の方ではこれをフィールドネームといいます。次にいくつか実例をあげますが、みなさんはその名からどんな地層や岩石を想像しますか。ちょっと考えてみてください。

  1 ゴマシオ    2 3色アイス      3 ウワバミ    4 こんにゃくチャート  5 太陽サンド  6 タメゴロー

 1、2、3 はかつて、関東ローム研究会の一連の研究で層序の目印になった火山灰層のあだ名で、古典的かつ著名なものです。 1 は質感、2 はみかけの色とその組み合せから、3 は、火山灰層が崖でうねってみえるようすから名付けられたといわれます。

 4 は秩父古生層の硬いチャート(珪岩)ですが、ルーペで見るとまるでコンニャクでした。後で調べたら、この種のチャートにはコノドントという不思議な化石が多く入っていることがわかってきました。1ミリの半分にも満たない化石ですが、それが一見、コンニャクの中によくある黒い点々のように見えたのでした。

 5 はその砂岩(英語でサンドストーン)が露出していた崖に、ダイナマイトの発破のあとが、まるで岡本太郎制作の「太陽の塔」の顔のように(若い諸君にわかるでしょうか?)なまなましくついていたので。 4、5 とも仲間うちだけで使っていたもの。

 最後の 6 は、丹沢山地の研究グループが、調査の初期に正式に命名できないでやむなくつけたもので、実に奇妙な岩石でした。本当に言い表しようのない色、組織で、今から考えると、おそらく雲仙のような火砕流の堆積物が、さらに圧砕・変質したもののような気がします。室内研究が進んだあかつきにはきっとこれまでにない、驚くような岩石となるに違いない、ということで、当時の流行語、ハナ肇の「あっと驚くタメゴロー」から。これも古くて恐縮です。

 だんだん話がそれてしまいそうですが、ともかく、初めて行った所で出くわした岩石には、親しみをこめてフィールドネームを付けてしまいましょう。そしてその石が、次に寄った場所に、はたして再び出てくるか、予想して臨むのです。もし同じその岩石・地層が再び露出していれば、ずーっとその地層が連続していたと仮に考えるのです。もしそれが現れていなかったなら、その原因をあれこれ考えその証拠さがしをします。はじめて見た場所にだけ、堆積した可能性もあるし、あったものがその後に侵食されて無くなったのかもしれない。断層で別の場所へ移動したかも知れない、などと推測はできますが証拠はなかなか見つからないものです。このために観察を点や線からどうしても面に広げてゆく必要がでてきます。しかし限られた時間や経路で余裕がない場合には、そこの場所にはこれこれが露出していた、という記述だけでも貴重な資料になります。その点ヒマラヤですと特定の地層の続きぐあいを、崖に沿って目で追って行けるかもしれません。

3 地層の硬さについて

 地層の硬さは、その地層が古いか新しいかでだいたい決まってきます。地層として落ち着く前には、どろや砂・れきだったわけで、それらがたいへんな長い時間の経過ののち、コンクリートのように固まっていくと考えてください。

 でも、なぜもともと砂だけだったものがコチコチの砂岩になっていくのでしょう。ごはんのようにねばりが出てくるのだろうか。(砂岩というのは、おもに砂からできている堆積岩で、ふつうの家の基礎の部分や犬走りに使われているコンクリート(モルタル)のような感じのものです)おにぎりならば、ぎゅっとにぎれば形ができますが、さらさらの砂が硬くなるのにいったいどれほどの時間が必要なのでしょう。

 成田空港付近では、20万〜30万年前の古東京湾に堆積した成田層群が、水田や畑より一段高い台地をつくっています。こんど成田から飛び立つときに注意してみてください。ここからは貝化石がざくざくと出ます。採集にはハンマーの代わりにスコップで、段ボール箱にすくいこめるくらいの砂でできています。秩父盆地の小鹿野の東に化石の有名な産地、通称ヨウバケという所があります。二枚貝やカニが地層の中からたくさん出てきますが、ここだと割るのにハンマーやたがねが必要になります。みなさんは秩父中古生層という名を耳にされたことがありますか。関東山地だけでなく、日本列島のあちこちに 1.5 〜 4 億年前に海底にたまった地層があり、その総称になっています。このくらい古くなりますと、泥や砂でもハンマーで思いきりたたかないと割れないくらい硬く固結しています。

 このように、日本の地層でいうと、新生代の第四紀のものならまだ固まっていないものがほとんどです。ということは、日本ですと百〜2百万年くらい前までだと固まらないでいるようです。もう少し前の、第三紀の終りころの地層では、固まっていたとしても、スコップでくずれる程度でしょう。第三紀も中ごろの、1千万年くらい前になりますと、割るのにハンマーが必要になってくるのが一般的です。

 では、時間さえ経てばすべて硬くなるかというと、必ずしもそうならないで、英国などでは、5億年も前の泥岩から、三葉虫の化石が出るらしいのですが、日本のどの地層よりも古いにもかかわらず、指でほじくり出せるところがあるそうですから日本の地層の第四紀層なみです。おそらく、時間の長さだけでなく、その上に積み重なる地層の量や、別な原因による圧力、さらには造山運動を経てきたかどうか、あるいは地中での成分の変化などがからみ合っているものと思われます。

4 堆積物・堆積岩を見分ける

 堆積物は、まず、粒子の大きさで分類をします。大まかには、

 礫(れき)……2ミリメートル以上       固まると「れき岩」

 砂    ……16分の1ミリメートル以上 固まると「砂 岩」

 泥(どろ): シルト ……256分の1ミリメートル以上

固まると「泥 岩」

  〃   : 粘土  ……256分の1ミリメー トル以下  固まると「泥 岩」

の4つに区分し、この順で粒が小さくなります。これらが固まったものがそれぞれ、れき岩、砂岩、(シルト岩、粘土岩はあまり区別できずに)泥岩です。

 れきは目で見て大きさが判断できますから、どのくらいの直径のれきから成り立っているかが重要です。小さいれきからできているものですと、塀のブロックだとか、固まったザラメのようですし、大きくなると大浴場によくある丸いタイルのような感じです。含まれているれきが粒ぞろいか、ふぞろいかでも印象ががらっと変わります。れきが巨大すぎてひとつの崖では、れき岩と判断できないこともあります。さらには、れきそのものがどんな種類の岩石から成り立っているかを調べて、そこから大変重要な情報を得ることがあります。昔、私が調査していた地域で、ある特定の層準にのみに産出するれき岩だけを調べて卒論にまとめた後輩がいました。れきの大きさ、種類、形、摩耗のされ方など、得られる情報量の多さには驚かされます。

 砂岩の場合、粒子が小さいので見分けにくくなります。それでも、「雷おこし」のようなのか、和室の京壁の感じか、瓦の割れた面の感じなのか、いろいろ異なりますので、いよいよハンマーを取り出して、割って、新鮮な断面を見る必要があります。ルーペも使ってれきのときのように粒子の大きさや種類を見ます。

 泥岩になると粒が細かくてルーペでもお手上げです。が、色や質感で、陶器のようなのか、磁器の方か、タイルの目地のようか、割れやすさ・はがれやすさはどうかなど、ともかく形容語を自分で作るくらいのつもりで観察します。

 堆積岩の大半は以上のような、れき・砂・どろが固結したものに属しますが、これらの中には生物の遺骸、つまり化石が含まれている可能性が大きくなります。ヒマラヤを形づくるものの中には、生物起源の地層もあります。なかでも珪質岩のチャート(水晶と同じ成分で、鋼鉄よりも硬い)や炭酸塩岩(カルシウムを含む石灰岩や、マグネシウムを含むドロマイト)が多く、以下のような生物の遺骸からできています。

 原生動物: 放散虫(珪質の殻を持ったプラン クトン)・・集まると「チャート」

 原生動物: 有孔虫(石灰質の殻を持ったプラ      ンクトン)・・集まると「石灰岩」

  〃  : 大形有孔虫(かへい石)

          ・・  集まると 「石灰岩」

節足動物: 三葉虫        集まると「石灰岩や石灰質泥岩」

軟体動物: 腕足類        集まると「 〃 」

〃 : 頭足類(アンモナイト)      集まると「 〃 」

〃 : 腹足類(巻貝)    集まると「 〃 」

〃 : 斧足類(二枚貝)      集まると「 〃 」

らん藻植物 : 分泌したものの集積で   「ストロマトライト・ドロマイト」

5 ヒマラヤならではの個性的な堆積物

 これらの堆積物や化石がいつの時代に・どこで堆積し、今、ヒマラヤのどこに露出しているかからみていきましょう。大まかにいいますと、長さ2,400キロ、幅300キロの帯状の地域内で割合に一定の規則性をもって、分布していることが明らかになっています。さらにこの中が、5〜6の細長い地域に裂かれたように断層で区切られています。ヒマラヤの地質を説明した本を見るとこれらの区分の説明あたりから、あの独特の名称がつぎつぎ飛び出してきて、頭を混乱させます。高ヒマラヤ、低ヒマラヤ、亜ヒマラヤ、小ヒマラヤ、トランスヒマラヤ、サブヒマラヤ、レッサーヒマラヤ、ヒマラヤ本体?  ・・・ 何とかしてくれ!! さらに、「低ヒマラヤ帯の南縁を限るのがマハバラート山脈であり、ミッドランドの南部が隆起してこの山脈をつくっている。」−『ヒマラヤはどこから来たか』より−のような記述が続くと閉口します。

 そこで、表にしたり、図を書いてみたり、紙で簡単なモデルを作って記入してみたり、細かい所をはしょったとすれば、大枠として何が残るかとか、いろいろやっているうち、だんだん私の頭の中にヒマラヤが「隆起」し始めてきました。

 これらの名称が使われている文献を読むときには、何を区分した名称かを確認しながら見ていかないと意味が取れなくなることがありますから、つぎに少し整理してみましょう。

A 地形によって区分された領域(北から南へ)

トランスヒマラヤ  *チベットヒマラヤ帯  (=チベット周辺山脈)

 *高ヒマラヤ帯  *低ヒマラヤ(=ミッ   ドランド)帯   *亜ヒマラヤ帯

B 固有の地形の名、ないしは特定の部分を指す  言い方 (ほぼ北から南へ)

ヒマラヤ主稜   マハバラート山脈     シワリク山地 など

C 地質による区分 (北から南へ)

  C-1 地質構造的に区分された領域を指すこと     ば

    インダス−ツァンポ縫合帯

*テチス堆積物帯 *ヒマラヤ片麻岩帯    *低ヒマラヤ堆積物帯  *シワリク堆 積物帯   ガンジス沖積帯

  C-2 地層(堆積物)・岩石の区分(地層・岩 石そのものを指すことば)

    *テチス堆積物  *ヒマラヤ片麻岩類   *低ヒマラヤ堆積物

    *ゴンドワナ堆積物 *シワリク堆積物    ガンジス沖積層

カトマンズ・カシミール山間盆地湖成堆 積物   段丘堆積物

氷河堆積物

 *印を付けたのは特に重要なものです。Aの地形区分と C-1 の構造区分は、ともに地図上においてある面積を持った領域として示すことができます。両者が一致していれば、楽ですが、一箇所くいちがいがあります。地質から区分されたテチス堆積物帯が、地形上のチベットヒマラヤ帯だけに収まらずに、南の高ヒマラヤ帯にまでくいこんでいることです。くどくなりますが、逆の言い方をしますと、地形上の高ヒマラヤ帯は地質から見ると、ヒマラヤ片麻岩帯およびテチス堆積物帯の南縁部という二つの地質体で構成されているといえます。

 C-2 の地層の区分に並んでいるものは、地表面(地図上)にある広がりをもって分布するのは当然ですが、さらに地質体として空間的にも広がりをもつものです。地下にもぐっている部分が、他の地質体とどう接しているか、すでに侵食されて現実にはなくなっているとしても、空中へどう延びていたかを考慮しながら論じられる必要があるものです。

 これらの地質構造上の意義や堆積物の特徴は、すでに学習会等で読まれている本に詳しいのですが、ここでも4つの重要な地質体を取り上げてみます。

ア テチス堆積物  古生代の初めから古第三紀までのおよそ5億年にわたる堆積物。厚さ1万メートル以上。ゴンドワナ大陸の一部だった古インド大陸とアンガラ大陸(今はチベット以北のユーラシア)との間に、東西方向にのびていた海、テチス海があった。この海に堆積したもの。層をなした砂岩、泥岩(頁岩)、石灰岩からなり、暖かな海に棲んでいた動物の化石−三葉虫、有孔虫、アンモナイト、貝類−が多い。古生代末に一度陸化し、シダの化石や氷河によるモレーンなど、陸域だった証拠も地層中に残されている。エベレストの山頂付近にある地層は、テチス海のごく早い時期、いまから5億年前に堆積したものとみなされている(図1参照)。

イ  ヒマラヤ片麻岩類  地下深部の、最高で約1.2万気圧・750℃の場所でできた片麻岩や、結晶片岩。大陸が衝突する際にサンドイッチ状にはさまれて地下深くに運ばれ、2千万年前に地殻の中ほどまで一度上昇、1千万年前にさらに上昇してきた。北から南におおいかぶさるように移動し、ちぎれて根なし地塊になっているところもある(図2参照)。

ウ 低ヒマラヤ堆積物  6億年以上前の先カンブリア時代に堆積したもの。藻類がつくったストロマトライト石灰岩、石英の粒ばかりからできているオーソコーツァイトという砂岩などから、大陸近くのごく浅い海の堆積物らしい。

 ネパールヒマラヤ中部の地層から運び出した 40 トンのストロマトライトの岩塊が、箱根火山の入口にオープンした神奈川県立生命の星・地球博物館に展示されているとのこと。

エ シワリク堆積物  ヒマラヤが隆起を始めてから南側のふもとにたまった堆積物。兄弟分が北側にも山脈内の山間盆地にも堆積し、山脈の隆起の時期を決める手がかりになる。古典的な造山運動の図式の中でも、モラッセという名でよく使われた概念に相当する。隆起する山脈が激しく侵食を受け、その両側に河岸段丘や扇状地としてたまる、粒の粗い多量の堆積物。1.5千万年前から百万年前の間に6千メートルもの厚さになり、その後この堆積物自身が1千メートルもの隆起、褶曲、はては地層逆転までおこし、ここ百万年の地殻変動の激しさを物語る。

 ウマ、ゾウなどの大型哺乳類化石に加え、湿地を示すワニ、さらには人類の祖先の化石も多く見つかっている。

6 堆積物の分布と地質構造

 荒っぽい言い方をしますと、これらの地質体が順に北から南に細長い帯のように並んでいるのがヒマラヤ山脈です(図3参照)。ただ、横並びだけでなくあるものの上に、覆いかぶさるものもあるので、侵食が深くまでおよんだところでは、より深部の地層が顔を出してきますので平面的な分布も複雑になります。さきに述べたいろいろな堆積物がどう変形して今ある場所に来たか、という構造発達史こそ、ヒマラヤの高さの謎にいっそう近づく内容になるはずですが、もう少し勉強してからにしたいと思います。

7 おわりに

 熊谷ヒマラヤトレッキング同人のみなさんには、これまでに2度も、つたない話につき合っていただきました。さらに今度はこの「手づくりのヒマラヤ旅行」に載せるので地学の事を、と村越先生に言われ、またまたみなさんにこのようなものを読んでいただくことになってしまいました。現地を訪れた人でなければ書けない貴重な記録の収められた中にこのようなもので、なんだか申し訳ない気持ちが正直なところであります。

参考

「ヒマラヤはどこからきたか」木崎甲子郎

中央公論社

「朝日小事典 ヒマラヤ」川喜田二郎編    朝日新聞社

「ヒマラヤはなぜ高い」 在田ー則

青木書店

「世界の変動帯」 上田誠也・杉村新   岩波書店

「南の海からきた丹沢」神奈川県立博物館  有隣新書

「世界の地質」岩波講座地球科学16

都城秋穂 岩波書店

「エベレスト直下のデタッチメント断層と そのヒマラヤ造山運動におけるテクトニ ックな意義」酒井治孝

地質学雑誌103巻3号,1997年3月

(以下略)

図1 エベレスト山頂付近の地質断面

 

図2 ネパールヒマラヤ西部のほぼ南北方向の断面(概念)図

 

図3 ヒマラヤの構造区分にもとづく地質概略図

 

 

トランスヒマラヤ深成岩類

インダス−ツァンポ縫合帯

ラダック複合岩体

テチス堆積物帯

西部チベット デタッチメント断層系 (STDS)

ヒマラヤ片麻岩帯

主中央衝上断層 Main Central Thrust (MCT)

低ヒマラヤ堆積物帯

主境界断層 Main Boundary Thrust (MBT)

シワリク堆積物帯

  トランスヒマラヤ  *チベットヒマラヤ帯(=チベット周辺山脈)

 *高ヒマラヤ帯  *低ヒマラヤ(=ミッドランド)帯  *亜ヒマラヤ帯

  インダス−ツァンポ縫合帯 *テチス堆積物帯  *ヒマラヤ片麻岩帯     *低ヒマラヤ堆積物帯  *シワリク堆積物帯   ガンジス沖積帯

  学校用にできてしまった地学よりも、自然と対話できる地学を

 私が今高校生に教えている地学という教科は、じつにいろいろな分野がもりこまれています。教科書をみても、各社が競って大学受験に使える中身になるように、改訂に改訂を重ねていますから、ミクロの結晶構造から、大陸、海洋、地球の内部構造から光の速さで百億年もかかる宇宙のかなたのことまで論じられています。

 それらの教科書の中から毎年33問くらいの問題が作られて、大学入試センター試験という名の「ふるい」の網の材料になっている現実があります。だから、これらの多彩な地学的話題にひととおり通じていて、多少パターン化された問いに答える(答は選択肢で用意されている!)ことができれば、勉強したかいがあった、地学の力がついたということとなります。

 しかし、私たちがある対象に疑問を感じたり、感心したりするときのことをよく考えてみると、やはり、自分で出向いていって、向き合ったモノが出発点になります。川はどうやって山を削るのだろう、山がどうしてあの高さに、谷はどうしてあの形になっているのか、などということは教科書をいくらながめてもなかなか出てきません。

ひとつには、村越先生のお話を聞くようになってからますますそう考えるようになったのですが……。とくに「山の隆起と川の侵食作用が争って、今のような山脈を切ってくる谷が存在する。」・・・首が痛くなるほど上に見える氷河のある峰と見下ろすだけでも恐ろしくなるという深い谷とのはざまを歩いてこられてのお話を聞きますとすばらしい歴史をきざんだ地層も、ただのがけにしか見えません。 ヒマラヤで見られる岩石はこれまでの研究で、堆積岩、変成岩が多く、火成岩はわずかのようです。温泉はあっても構造的な弱線に沿うものらしく、新しい火山が見られないので溶岩がない。1億年くらい前の海底火山のなごりが地層の中にはさまってくるくらいです。

 私も、以前でしたら参考文献をたどり、優れた研究者の書いた論文や教科書に学べば、それだけ力がつく、と考えて自分でもそうしようとしていたこともあるのですが、どうもこのごろ少し違うふうにも考えるようになりました。