目 次 1.はじめに − 偵察トレッキング報告 − 村越 昇 *参加隊員名簿 * 2.出発前の経過 * 3.行程一覧 * 4.トレッキングの記録 * 5.各係りからの報告 * 会計報告 石川邦彦 * 6.旅の思い出 * 偵察トレッキングに参加して 澤入保忠 * ヒマラヤでソーメン 栗原幸子 *
ヒマラヤのふところのように 福田和宏 * 私はインドが嫌いだ
安藤太郎 * 1.はじめに − 偵察トレッキング報告 − 村越 昇
今年の我々のトレッキングチームは、「ヒマラヤトレッキング同人」から数えて8年目12隊目のチームとなりました。昨年暮の総会で提起された、「6000m級ビークを目指す」の具体化を期しての、「偵察」を課題としつつ、トレッキングを楽しむべく出かけました。 しかし当初目標としたピークには近づけず、l足止めを余儀なくされた谷の最正面にある未踏峰に目を留め、登頂の可能性を探ってきました。そして、8/29の総括ミーティングでは、「情報不足は否めないが、6100mと予測されるそのピークを、来年夏極める準備をする」ことを決めて、例会に報告しました。 7月30日から8月13日まで15日間、トレッキング7日間、女性2人を含む9名。・・・・・・当初の目的は、86年のザンスカールトレッキングの下山の際に通ったバライ=ナラを、ダルチャから遡り、分水嶺のシンカ=ラの手前まで行く。そこの左岸、ザンスカール側の6200mのビークを仮目標とし、可能なら氷河に接近して、偵察してくるというものでした。 ザンスカル=スムドを過ぎると、スムドヘチャンを飲みに下る羊飼以外は人に会わなくなりますが、その道を3時間上った地点で、右岸からバライ=ナラに合流しているの谷の流れが、徒渉に対しての装備も、そのつもりも持たなかった私たちの足を止めました。 目標としていた地点まではまだ一日以上、地形を遠望し、地図を見直すとその先のルートにも同じような困難が十分予想される。ガイド相談の結果、それ以上の遡行を中止しました。当初から「トレッキングがてら、無理はしない可能な限りの偵察……」でしたから、当然の変更ですが、「これでいいのだろうか」、との気分も残りました。「来年偵察をやり直すか………、偵察の必要のないピークに変更するか、」などと考えていましが、われわれの足を止めた谷は、数キロ間ほぼ直線で西行し、直角にバライ=ナラに直角に合流していました。その真っ直ぐな谷のつき当たりに聳えるビークに目をつけたわけです。 5キロ程先の谷のつき当たりは、左右からの氷河の舌端が谷に突き出し、真正面は黒い岩峰、その左側には黒い岩峰の後ろ側から始まっている氷河が、幅広い緩やかな流れになっていました。その氷河か登頂ルートとして我々に道を空けていてくれる、と考えるのですが、そこに取りつくための氷食のガレた谷壁はしんどそうで、標高差ゆうに500mを超しているように見えます。ピークはなかなか現れませんでしたが、やがて岩峰上部の針峰の間から、鋭くない、白いビークを見ることができました。 結果的には、新たな目標とするビークを探り、それなりにトレッキングを楽しんで全員無事帰国して、偵察トレッキングは「成功」と言えますが、今後検討すべき点や教訓を2点ほど挙げておきます。 (1)「トレッキングがてら、無理をしない可能な限りの偵察」の目的ですが、今回は手探り状態での「登頂」計画ですからやむを得なかったとして、今後は「偵察」が必要であったら、その課題に集中しての取り組み、行動が求められると考えます。 情報を、森田千里さんの数年前の記憶だけに頼ったことは軽率でもあったし、「偵察」である以上、徒渉の準備程度は要求されることだと思います。そして「偵察」の課題があったため、「谷を歩くばかりで変化がないトレッキングルート」になってしまい、勿論楽しみはしましたが、トレッキング自体も若干魅力に欠け、初参加のメンバーの感動がイマイチだったのではないかと思います。(2)高度順化は今回も最大の関心事でした。 比較的順化に有利なコース・日程でもあり、最高点も4200mであったため、三日目以降には全員落ち着きましたが、身体が重く、行動に時間がかかる状態は例年と同じてした。難しいことではあるが、なんとか改善の必要があります。 そのなかで、7月に2回の富士山登山をして自分を観察し、現地ではキャンプに到着しても必ず100m〜200mの高度まで上るなどして、初参加ながら比較的軽症に抑えた、石川邦彦さんの行動は貴重な教訓を提供しています。 今回福田和宏君の出発が遅れ、下山時にやっと合流するハプニングがあり、メンバーは9人となったのですが、著名な登山家であるのにヒマラヤ初の沢久保忠さん・登山経験豊かな石川邦彦さん・大学に入ったばかりの本田章君の3人が初参加であり、我々のトレッキングチームに新風が吹きました。 なかでも沢入さんの参加は、「偵察」の課題の遂行に決定的な役割を果たしました。さらに、「山の自然学」、キャンプでの「素麺」、アシュラムでの岩茸料理など山の楽しみ方で学ぶことが多くありました。さすがの大先輩であります。 ベテランガイドのハッサン氏は優れたガイドであり、よく尽くしてくれました。我々の「偵察」が目標に近づけないと判
った時、「背後の山に上がると目標とする山域が見えるだろうから、明日一人で昇って写真を撮ってくる」、とまで言ってくれました。後ろの山の標高差は、1500mはありました。 森田千里さんには例年のことながら暖かく迎えていただき、アシュラムが満員なのに部屋を空けていただいたり、すっかりお世話になりました。 トレッキングビジネスが板についたサンペル君からは、「熊谷グルーブは特別、ファミリイブライスにする」のサーヴィスを受け、おかげで総費用は25万円強で済みました。また彼は、夜になると「ミヤウチ、飲もうよ」と、若いメンバーを誘い、アシュラムの屋上では深夜まで笑い声が聞こえていました。 デリーのサンジャイ氏には今年も、宿・交通機関の手配、歓迎の食事会、その他の親切を受け恐縮しました。 このように私たちは同人会員諸氏の他、在インドの多くの人々の協力、お世話を受け、なんとか目的を果たして、無事か掃ってきました。今私たちは、来年夏の「登頂」を具体化するべく準備を始めようとしています。今回の「偵察トレッキング」が、結局は半身に構えていたことで悔いが残るわけですが来年夏の「登頂」はそうはいかないことを私たちは知っております。主体的な条件を含めて、「登頂」のための万全の準備を始めます。 参加隊員名簿
*1997年秋 「1999年夏、インドヒマラヤ6000m級のピーク登頂」が話題になる。98ヒマラヤトレッキングは仮目標をきめて、BC予定地付近の偵察を…との話になる。 *1997年12月 登頂に必要な技術的な問題で沢入保忠さんに相談し、乗り気になっていただく。 *1/24〜25 第1回雪上技術講習 野地鬼面山 10名 *l/28 海外トレッキング委員会で原案検討 *Everest Viewトレッキングもでる。 *2/2 日本ヒマラヤ協会「インドヒマラヤ会議」(沢入、山崎、大嶋参加) *2/10 帰国された森田千里さんを囲んで話し合う。(沢入、山崎、藤井、村越、大嶋) 目標=BARAI NARA上流(左岸)シンカ=ラ北の6200m無名・未踏蜂ピークとする。 *2/21 第2回例会 「偵察トレッキング」提案(7/30〜8/13)、次回に具体化(サンペル君、森田千里さん参加)。 *3/20 第3回例会 参加者・参加希望者……17名(偵察以外の者を含めて) *4/1 ヒマラヤ準備会 *4/18 第4回例会 偵察トレッキング以外の計画は消える。 *4/21 来日中のMr.Sanjayと東京で会い、夏の計画の協力要請。 *5/27 第5回例会 ヒマラヤミーティング(任務分担など……6/27〜28野地温泉ミーティングを決める) *6/20 第6回例会 ボンボン山岩トレーニング *6/27〜28 野地温泉合宿ミーティング(10名)……参加10名で確定 学習:高度障害 *7/11〜12 富士山トレーニング(6名) *7/18 第7回例会 *7/20〜21 第2回富士山トレーニング(石川) *7/26 最終ミーティング *7/29 村越・宮内出発 *7/30 本隊出発 *8/5 福田出発(5日遅れ) *8/13 本隊帰国 *8/24 村越、福田、宮内帰国
(宮内浩志 記)
(日本時間) 6:00 熊谷出発(4名)→ 9:00 成田到着 7:00 大宮出発(3名) 9:45 全員成田到着。合流。 10:00 搭乗手続 11:15 出国手続 11:45 搭乗 12:10 AI307離陸 (インド時間(=日本時間− 3.5時間)) 16:50 着陸、入国手続、ルピー両替 17:30 村越・宮内の出迎え、合流。 18:30 カニシカ到着。サンジャイ氏と挨拶。 休憩・精算 20:30 レストラン GAYROAD 22:00 ホテルに戻り、就寝。
いよいよ出発である。まだ先だと思っているうちに、もうこの日が来た。昨日はやはり緊張であまり眠れなかった。 県北組は石川の車で成田へ。我々(沢入、本田、安藤)は大宮7時発のONライナー。首都高は渋滞でやきもきしたが、9:45 には成田着(45分遅れ)。無事合流した。 エアインディアは安いだけあって、サービスがいまひとつのようだ。沢入は食事などの対応でスチュワーデスにとても怒っていた。ものは投げてよこすし、何か頼んでも全然かえってこないのだ。 フライトは問題なく、ほぼ定刻デリーに到着。入国審査の後ルピーに両替するが、ここで本田が手持ちの T/Cをすべてルピーにしてしまった。銀行員との意志が伝わらず、$1400分が両替されてしまった。ドルの現金は持ってなかったので、ドル現金にするつもりだった。その後にドル現金をルピーにしたかったようだ。 とにかく彼は 58800ルピーもの大金を手にし、途方にくれてしまった。高荷が英語で助けようとしたが遅かった。あとはまだ両替していない人を止めて、残りはサンジャイ氏になんとか頼むことにした。 村越と宮内が空港の外に迎えに来てくれていた。ホテルに向かう道はまさにアジアの交通事情で、とにかくクラクションで自己主張しないと進むことができない。私はとても運転できないと思う。 ホテルに着き、サンジャイ氏に挨拶。いろいろ手配してくれる氏に感謝しきれない。帰りに何か一つアクセサリーを購入しようかと思った。 一服のあと、精算。本田のルピーをなんとかへらしてサンジャイ氏に支払う。その後、GAYROAD で夕食。やはり本国のカレーはちがう。日本にあるインド料理店もやはり日本人向けにしてあると感じた。大満足してホテルに戻る。明日は早起きするので、早々に寝ることにする。
4:50 起床、お茶 6:06 カニシカ出発 6:43 デリー空港到着 7:49 離陸 8:40 シムラ着陸 9:05 離陸 9:23 クル着陸 9:40 タクシー乗車 11:44 アシュラム到着 14時頃 チョップスティックで昼食 15時頃 解散 20時頃 夕食 早朝から村越に起こされ、今回もいよいよ始まった。お茶と梅干しで目を覚ます。石川が少し風邪気味のようである。 朝早かったせいか、30分もかからずに空港へ。すぐチェックインをする。一人10kgの荷物の重量制限にひっかかり、全体で53kgのオーバー。本当なら106ドル追加金として払わなければならないが、値切って70ドルになる。こういうことが公然と通用してしまうところがインドらしい。(そのうち20ドルはもちろん、彼らの手に入った。) 飛行機はDORNIERという18人乗りのプロペラ機で、こんな小さな飛行機にもスチュワーデスはちゃんといて、軽食も出た。乗客は我々の他に、二人の日本人女性旅行客と一組のインド人家族。高度 3000m位を飛行して、50分ほどでシムラへ。天気もよく、下界を見下ろしながらのフライトであった。小休止のあと、我々だけを乗せてわずか20分弱でクルへ。川すれすれをかすめて、滑走路へ着陸する。 空港からタクシー二台でアシュラムへ向かう。一台は順調にいったようだが、我々が乗った車は運ちゃんが銀行に寄ったりして、それより30分近く遅れた。でも、昼前にはアシュラムにつくことができた。こんなに順調にいくことはめったにないのではないだろうか。天気もよく、滑り出しは最高である。 森田先生の出迎えをうけ、昼間から乾杯する。いい気分になったところで昼食に街へくり出す。途中でサンペルと出会い、一部は車で送ってもらった。もちろん若者は歩きで、写真を撮りながら街まで散歩。マナリの街でチャイを飲み、チョップスティックで昼食。チキンかマトンのGYATHUK(麺)と、チキン・マトン・ベジタブルのモモ。うまい。 食後は解散となり、本田とマナリの街を歩く。温泉へ行く者もあり。 夜はまた宴会となり、おいしいカレー(マトン・ダル)などで夕食。 福田から連絡あり、マナリ到着ははやくても6日以降になるとのこと。 のんびりとした一日であった。
6:00 徐々に人が集まり、お茶 8:15 朝食(おかゆ、みそ汁、パン、卵焼き、サラダ) 9:30 森田先生、沢入、栗原、豊島、石川、宮内 計6人 山へ散歩 10:30 本田、手紙を出しに行く 13:45 村越、高荷、安藤、昼食へ出かける 17:00頃 リグジン氏、パサン、サンペル、アンドゥとともにミーティング 20:00 夕食
今日も晴れた。今日は各自のんびり気ままに過ごした。 森田先生他5名は山へ出かけ、キノコをとってきた。 それを夕食に天ぷらとしてだされた。 午後は、明日から始まるトレッキングのミーティングが開かれ、詳しい日程などを知らされた。 これから僕たちが目指そうとしている地域は、トレッキングされることが少なくて、情報がほとんどないらしい。だから、その地図もほとんどあてにならない。そこで、森田先生がおっしゃった。「作られた地図を持っていく旅じゃなくて、今回は地図を作る旅なんだよ。」僕たちは明日から、来年のための地図を作りに出かける。
5:00 村越起床。徐々に皆起き出す。日本茶、健康測定、チャイ。 7:00 朝食(フレンチトースト、炒飯、しその葉とワカメのみそ汁、トマトとキュウリのサラダ) 8:25 アシュラム出発 8:33 4台のジープに分乗、いよいよトレッキング開始 9:45-10:16 マリー(3300m)、ティータイム 10:36-11:58 ロータンパス手前のお花畑にて、大撮影会 12:22 ロータンパス通過 12:25-12:42 チャンドラ川北側のラホール山群を一望、カメラにおさめる。 13:29-14:25 コクサール。パスポートチェック。昼食(豆カレー、パン、ヨーグルト、チャイ) 15:08-15:20 シス村。小休止。 16:18-16:24 ジープ給油。チャンドラ川とバーガ川合流点手前。 16:45-17:22 キーロン(3190m)。ティータイム。対岸にカルダンゴンパを望む茶店。ガイドのパサン氏から、カルダンゴンパを経由して山越えする一日コースがおすすめとの話を聞く。 18:13 ジスパのキャンプサイト着。 20:00 夕食(チキンスープ、焼きそば、カスタードフルーツ入り、チャイ) 22:00 就寝
昨晩は一時雨音が激しくなり、目を覚ましたが、また5時過ぎまで気持ちよく眠れた。「お茶ができたぞー」の声に、テラスに行って梅干しと日本茶をいただく。その後、めいめい出発の準備。朝食をしっかりとった。 8時過ぎ、これからのトレッキングをささえてくれるガイドのパサン氏をはじめとするスタッフに迎えに来てもらい、ジープに分乗して出発。徐々に高度を上げていく。まわりの美しい景観が続く。 マリーを出て、標高差で100m位上がったところの斜面に広がるお花畑で、大撮影会となる。今回は、ブルーポピーのさかりの時期がやや過ぎてしまったということだったが、それでも皆、夢中になって色とりどりの花を撮りまくる。あっという間に一時間以上たっていた。 ロータン峠を過ぎて、北側に出ると、ラホール山群が雄姿をあらわす。ここで、また20分くらい写真タイムとなる。さすがに風が強く、寒くなってきたところでコクサールの検問所へ。昼食。外国人トレッカーが多く、パスポートのチェックにやや時間がかかった。 この後は、チャンドラ川をはさんで両側に5000mを超える山が連なる谷間を進む。遠く氷河から流れ出た白濁した激流は、今も浸食を続けているように見える。深くえぐられていく谷、はるか上方の雪渓から流れ落ちる滝が続々と現れ、水量をますます増大させていく。街道は、濁流から時には数十センチ上をすれすれに、時には数百メートル高い断崖の上を続く。我々を乗せたこの小さな四輪駆動車ジプシー(日本のジムニー)は、いつまでもこの道を走り続けていくような錯覚にとらわれた。 トレッキング初日、まだ徒歩での行程には至っていない。明日からのメンバー全員の健康と安全を祈りつつ、寝ることにしよう。
5:30 起床、お茶、健康測定 7:20 朝食(オムレツ、パン、コーヒー) 8:22 出発 8:33-9:00 ダルチャ(パスポートチェック) 9:24 車を降りる (3630m) 9:38 トレッキング開始 9:53-10:00 チッカ 10:50-11:00 休憩 (3650m) 11:25 パラモ (3660m)、昼食 13:21 パラモ出発 14:07-14:16 休憩 (3710m) 14:55 ザンスカール隊の最終キャンプ地通過 15:16-15:41 休憩 (3770m) 16:10 テント場到着 (3790m) 19:00 夕食(トマトスープ、サラダ、マトンカレー、炒飯、インゲン胡麻和え、バナナのカスタードづけ)
5時半前に目が覚めたので、他の人を起こしてみる。たまにはこういうのもいいものかと思ったが、眠いだけであった。 本田の下痢がひどく、頭痛も少しあるらしい。高荷も下痢気味。 出発してすぐ、ダルチャへ。一昨年は山から下りてきて、ダルチャが大都会に見えたが、今回は本当に小さな村だと思った。帰るときには大都会に見えるのだろうか。ここでしばらく休み、それぞれ買い物をしたりする。 車はチッカの手前までしか入れなかった。運転手達とはしばしのお別れとなる。大きな荷物は後から来る馬にまかせて、先に我々のみ出発。 最初はゆっくり歩く。チッカでは子供達の写真を撮る。沢入が快調に先頭をきる。 パラモで、荷物待ちのため大休止。パラモとは、lady god、すなわち、女性の神の意であるそうだ。ちなみに、この奥のシンゴ・ラの「シンゴ」とは、雪豹の意とのこと。かつてこの辺りには(10から15年前)、雪豹がたくさんいたそうである(パサン談)。 我々のガイドのパサンは、一見若いが37歳で、ガイドも18年もやっていて経験も豊富。 ようやく我々の荷を乗せた馬が到着し、我々も出発する。この調子ではザンスカールスムドまでは行けない。その手前になるだろう。 高度も上がり、皆のペースもおちはじめ、ようやく今日のキャンプ地へ到着。 レモンティーと濃い日本茶で一息入れた後、しばしの自由時間。本田は調子が悪く、寝ている。 豊島、石川、安藤、宮内の4名は、高度順化のためテン場より100m以上高いところまで上った。お花畑がきれいであった。 7時前にパサンが来て、明日からの詳しい行程について話し合う。高荷の通訳のもと、明日はザンスカールスムドより先まで、明後日は、行ければ氷河の先端まで往復、ということになるが、さすがのパサンもザンスカールスムドより先は途中までしか行ったことはないらしく、その先は「Nobody knows. (誰も知らない)」と言っていた。予定もこれではたてづらい。日程とのかね合いが難しいところである。 夕食はマトンカレーがとてもおいしかった。栗原が作ってくれたインゲンのごま和えもうまかった。本田は寝ており、彼には特別食(おかゆ、みそ汁etc.)が提供された。 明るい月明かりのもと、9時過ぎに就寝。
6:00 お茶 6:30 チャイ 7:00 朝食(チャパティ、たまご、コンビーフもどきのもの) 8:25 トレッキング開始(ザンスカールスムドまでコースタイム1.5時間) 9:05 休憩 10:10 3900m地点(最初の峰の沢) 10:55 ザンスカールスムド着 (3925m) 昼食とコース状況の確認 12:10 ザンスカールスムド出発 (茶屋での情報から、左岸のルートを行く) 12:50 3960m 地点 二つ目の沢を左手にして、そのまま北西に進む 13:10-13:50 4つ目の峰のところで休憩 14:15-14:40 一つ目の池あり、二つ目の池で休憩 15:15-15:30 中州状のテント場に到着(4100m、気温28度) 18:15-20:45 夕食(ライス、ダル、サラダ、シーチキン、カリフラワーとポテトの炒め物)
昨夜は、夜間になって気温がかなり低くなったようである。夜中にシャツとカッパを着込んだ。朝、温度計を見ると8度であった。温度が低いがさわやかな朝である。ただし、腹痛は相変わらずおさまらないが・・・。 本田も体調は回復していないようであり、私(高荷)も相変わらず腹痛に悩まされている。 テン場からザンスカールスムドまでコースタイムは1時間30分だとガイドのパサンの話だが、実際2時間30分程度かかっている。途中に小さな沢があり、約10m程度だが、徒渉せねばならず、かなり冷たい思いをした。しかも、その前に用便をした場所にウエストポーチを置き忘れ、2度も渡らねばならなかった。 ザンスカールスムドでは、この先のコース状況のチェックをしながら昼食をとる。お茶を飲みながら、多少ゆったり時間をとる。 メドウを過ぎたところに池が2つあり、2つ目の池のところで休憩をとりながら、しばし風景を楽しむ。ここは、日本なら必ずキャンプ場になっているだろうと思わせる。 モレーンを渡り進んでいくと、川の分岐の中州状になったところに、先に来た馬とテントが見える。 到着後は、それぞれ自由に過ごす。石川・安藤・宮内の3人は高度順化と称し高台を散策する。沢入・村越は馬方と雑談をする。また、沢入がお茶をたて、馬方達に味見させたが、渋い顔をしていた。 日本から持ってきたもちを栗原達が焼いてくれ、久々に日本食を味わい、元気が出た。 今日は夕食の配膳にずいぶん時間がかかり、結局20:45までかかってしまった。 ◎ ルート状況について 森田先生の話では右ルートが良いということだったが、馬方や羊飼い達の話では右ルートはここ2,3年荒れているということである。左ルートを行けば徒渉があるが、今年は雪が多いので、楽であるとのことである。 いずれにしても、左右どちらのルートが良いかザンスカールスムドの茶屋で確認することにして出発する。茶屋での情報では、右ルートは落石が多く、馬の通行は無理とのことである。左ルートが良く、2〜2.5時間先に左側から大きな川が流れ込んでいて、水深は腰程度である。早朝に渡るのが良く、10〜11時以降には水量が増えるので不可能とのこと。別ルートでは氷河を越えていく方法もあるが、登り2時間、横断1時間、下り2時間と5時間もかかる。 ◎ 徒渉について とにかくテン場の川まで行って判断しようということになる。現地で見る限りにおいては、水深はそれほどでなく、腿か腰程度だろうが、流れが激しく、今回の準備では不可能に思える。夕食後、ガイドと相談・打ち合わせをするが、結局、朝の様子次第となる。打ち合わせ後の話では、あえて無理をせず、氷河を見物しに行く程度が無難であろうという方向になる。
6:00 起床、お茶・計測 オキシの値を上げようと努力するもの多い 天気は高曇り 村越は徒渉点でパサンと打ち合わせ 7:10 朝食(インド風ラーメン インゲン、玉ねぎ、トマト入り) 9:05 ハイキング出発 栗原は停滞 沢入・豊島は写真撮影などしながらゆっくり、石川・宮内不調 9:35 休憩 (4150m) 以後、休憩数知れず 11:45-12:25 昼食 (4250m) 氷河の舌端が間近に迫ってきた 高荷・安藤・本田の3人がパサンと氷河に向かう 村越・石川・宮内は下り、途中沢入・豊島と会い、各々、ゆっくり遊びながら下る。(「野だて」も楽しむ) 氷河に向かった3人は速いピッチで往復し、ゆっくり組を追い越してキャンプへ 15:45 全員がキャンプに おやつ(ベンガルポテトのフライ、栗原が準備した日本食) 「ゆとりの時間」 疲れが出てくる時期で、テントで寝ている人が多い 19:30 夕食(スープ、美味しいモモ(スチーム))
◎ 朝、徒渉してバルシナラを溯り偵察目的を遂行することを、断念する。全く不可能ではないが、費やされる労力に比して、メリットは少ない。午後の徒渉は困難だし、上流のスノーブリッジを越えるのも並大抵のことではない。 ◎ 我々の行く手を阻んでいる谷を溯り、氷河の舌端を目指す。 ガイドのパサンは2〜3時間といっているが、とてもそれではすみそうもない。 ピクニック気分で、ゆっくり。沢入・豊島は花を撮り、お茶を楽しみながら超ゆっくり上る。 右岸のモレーンのはり出した石ころの道をたどるが、岩の間・砂の中にも、高山植物が美しい。 結局3グループに分かれ、各々、氷河ピクニックを楽しんだ。石川・宮内はつらそう、最年少の本田は回復し元気。 ◎ 偵察、課題について 目標にある山域・ピークの偵察は達成されなかった! きちんとした偵察の体制をとって取り組まなければ、偵察すらさせてもらえない山だったのだろう。 今後どうするのがいいのか・・・、出発前よりは情報量も増えたから、偵察なしでも実行は不可能ではないだろうが、日数は大幅に増加されなければならぬだろう。または、偵察をやり直すか・・・。 ◎ 今日、谷を進みながら、沢入が真正面に立ちはだかる山の登頂プランを考えていた。村越も見上げながら、そんなことを考えていた。 パサンの情報では、「イージー」と。パサンだと、このキャンプ地から3日で登れる(C1,C2)。我々にはとても無理だとしても、氷河の舌端(今日3人が到達した)にABC、ザレを登りC1、大きな氷河の上部にC2。現在地をBCにして、一週間くらいで可能ではないか、などと考えた。標高は6150mだという。 ◎ このキャンプ場はいい。清潔な、ある程度の広さを持った短い緑の草地、その間を小さな清流がいくつか流れる。砂ぼこりもほとんどない。 東に、バライナラをはさんで巨大な赤い壁をもった岩山。ガスの合間に、上部の氷れきが見える。 北東に、マッターホルンのような、三角の真っ白なピーク。 西には支流の真正面に、左に大氷河をひかえた黒いリッジが、朝夕白くかすむ。 13日の月が、こうこうとあたりをてらしている。
6:00 起床、お茶、計測 本田が完全復調して、茶坊主役を務めている。宮内不調、発熱・頭痛。 7:30 朝食(チャパティ、ウインナーソーセージ、ゆで卵) 9:40 出発 10:40 休憩 11:20 キャンプ地とスムドーの中間点 ザンスカールスムドの橋が見えた 12:20 ザンスカールスムド着 昼食 13:00 石川・安藤・本田の3人、ザンスカール街道の登り道へと出発。他は休養。 16:20 3人が戻ってくる。300mほど登り、対岸(バライナラ右岸)の奥の氷河、美しい山を見てきた。 17:00 栗原特製のラーメンを食す。非常に美味。 18:20 夕食(チベット風ラーメン コックの手作りの麺)
今日の行動は、ザンスカールスムドまで下るだけ。スタスタ歩けば60〜90分だろうが、3時間かけて、と歩き出す。 すぐにモレーンの上部に上がり、赤い猫のしっぽの先のような花の大群落の中を歩く。 沢入・豊島・栗原はすぐにカメラを構えてしゃがみ込む。 左手はバライナラの白濁した激流、対岸の羊の群が起きだし、犬が我々に向かって吠えている。5〜600mはあろうに。 安藤は鳥を見つけ、その足跡を撮影している。 本田は「ジャコウソウ」を掘ってきて、日本に持ち帰るという。 沢入の「お手前」で、村越・栗原・高荷・豊島は優雅な時間を過ごす。不調で寝ていた宮内も快復して合流、のんびり過ごす。 夕方、3人も戻り、全員でのんびり。栗原特製のラーメン、元気が出る。一時はぱらついた雨もやみ、すっかり青空になった。
6:00 村越のいつもの呼び声で起床 6:20 チャイと緑茶 7:00 ガランパニでたまごスープ、測定。 7:40 朝食(ヌードル、パンケーキ) 9:00 出発 9:40 徒渉 10:20 休憩 本田がサングラスを忘れて、徒渉点まで戻る 11:50-12:30 3720m地点、昼食(パンケーキ) 13:05 休憩 14:50 パラモ着 15:30 めいめい洗濯 16:00 沢入、そうめん作成。栗原・豊島手伝い。 18:00 夕食(スープ、サラダ、チキンカレー、チーズとグリーンピースの煮物)
6時、村越の茶坊主への呼び声がかかる。スベアの調子が昨日から今一つで、宮内が苦労している。ここへ来てスベアも高山病だろうか。 今日も快晴である。茶坊主の緑茶よりチャイが先に来た。 羊飼いの犬が慣れて寄ってきた。パンやカロリーメイトを与えると食べた。 朝食は、コックがかなり慎重なのか塩味が薄いが、好評で空になるまで食べた。 体調の悪い人も、沢入の咳と高荷の腹具合程度で、ほぼ全員が復調している。 徒渉ポイントの水量は、やはり前回より時間が早いせいか、幾分少ない。それでも充分な量なので5名とパサンは靴を脱いで渡った。高荷・安藤・宮内・本田は靴のまま。宮内はかなり濡れたが、高荷は良く場所を選び、安藤はスパッツを付けたのであまり濡れなかった。 昼食はパサンがパンケーキをしょってきて、一枚ずつチーズと蜂蜜をつけてくれた。とても日差しが強くて暑い。 今日はチッカまで行く予定であったが、馬方の希望(馬のエサとなる草がない)と、テント場がない(道の上になる)とのことで、パラモ泊まりとなる。明日も一時間程度歩かなければならないが、今日の到着時間を考えるとパラモで余裕をとった方がよいと決まる。 パラモのキャンプ場は畑の石垣に囲まれた中で、水路が通してあり、水もそんなに冷たくないので、めいめい洗濯などして過ごす。沢入がそうめんをキッチンでゆで(栗原と豊島が手伝う)、パサンやコック達にふるまっていた。その後、酒盛りが始まった。が、少量ですぐに酔いがきたようで、すぐに終わった。 宮内が近くの畑で、地元の姉妹をナンパした。姉は20歳、妹は8歳。言葉は全く通じていないがかなり気に入られたらしく、ずーっと宮内のそばを離れず、暗くなるから帰るようにしむけてもずっとそばにいる。日本に連れて帰ったらと冗談を言っていた。宮内から離れたら、今度はキッチンに座って見学していた。その後もあまり遠くへ行かない。どうやらこの近くに住んでいるようだ。 夕食は、外でマットを広げての青空茶会となった。沢入も食欲のないところを、おいしくカレーを食べた。この場所は往来らしく、牛や地元の人が食事中の我々の横を通っていく。夕焼けがすばらしく、写真撮影会となった。あと、またさっきの下の妹が宮内のそばにきている。宮内は姉の方だったらいいのに、としょうがないことを言っている。来年もここに来るようであれば、実に楽しみである。
5:00 モーニングコール 5:25 チャイ、緑茶、計測 6:00 荷物パッキング、朝食(野菜入りヌードル、ゆで卵、チャイ) 6:50 テン場出発 7:20-7:25 休憩 8:00 ジープが見える。福田の姿が見えた。 8:53 出発 9:15-9:33 ダルチャ、チェックポイント 12:35-13:20 コクサール、チェックポイント 昼食 15:10-15:40 マリーの茶屋、チャイを飲む 16:55 アシュラム到着 18:00 ヴァシスト 19:30 洗濯 20:40 夕食 21:30 おやすみ
夜中からテントをたたく雨の音で目が覚める。道路が心配になる。 8時までにチッカまで行くので、早めに出発することになり、雨の少し降る中、外で食事をとる。テントをたたみ、でかける。道路が崩れていて大変だった。歩くのは今日一時間くらいで終わるので、気持ちはとても楽だった。 皆さんに迷惑をかけないよう、私なりにがんばったつもり。 ジープに乗り、マリーの茶屋で昨年のドライバーに会ったら、覚えていてくれた。 アシュラムに着くとほっとし、気持ちが楽になり、夕食も日本食に近いものでおいしくいただいた。 夜は皆それぞれにビールなど飲んで、話をし、楽しんだ。
5:00頃からお茶 7:00モーニングチャイ 8:00起きている人で最後の健康チェック 8:15リグジン氏・ロキシーを持って現れる 8:30朝食(ニラ入りオムレツ・紫蘇入りチャーハン・トマトスープ・サラダ・トースト) 10:00マナリの町へ出発(石川は釣りへ)古いゴンパにそろってお参り。ショール屋、香料屋で買い物。(日曜のせいか休みが多い) 12:40少し早いが(13:00集合)Chop Stickでビール。三々五々集まってくる。(チリポテト・チリチーズ・特製スープ・マトンとチキンのモモ・揚げモモ・チキンロースト・マトンロースト)あまりの量にモモお持ち帰り。 14:00またまた買い物 15:50アシュラム着。沢入、宮内はそのまま床屋へ 17:00頃から沢入のうどんづくり始まる。お湯が沸かず苦労する。 20:00やっと完成。夕食(沢入特製うどん・サラダ・ライス・マトンカレー・ポテトカレー・いんげんカレー・スープ)食後集金。一人$400〜410・Rs300。反省ミーティング日程を決定。明日早い出発なので、それぞれパッキング、就寝。
最後の健康チェック。深呼吸しなくても全員酸素濃度90以上。ほぼ全員快調(高荷いまだ後遺症あり) 日曜日のせいか、マナリの町は休みの店が多い。いつもの骨董屋も閉まっている。それでもショール、香料・・・昼食を挟んでまたも買い物。fixed priceと書いてあっても値切り交渉に熱が入る。 リグジン氏が届けてくれたロキシーは、澄んでいてさらりとした美味。朝食前にくさやでロキシーを味わう。 石川の釣りは、トレッキング前に出かけた滝のコース途中の蛇社付近。ウグイが釣れたとのこと。ただこの川も大変汚れていたそうだ。 沢入と宮内が床屋へ行った。マナリの町中ではなく、バシストの床屋。宮内はほとんど変化なし。沢入は見違えるほど紳士に。みんなあっと驚く。 沢入のうどんづくり、塩ビパイプの麺棒と足のぐらつく机を板にして始まる。力強く、手際よく、なにも手伝いできないが見ていてとてもおもしろい。お湯がなかなか沸かず、サッと茹でられなかったので会心の出来とは行かなかったようだが、みんなすごい勢いで食べてしまった。ともかく、とてもおもしろかった。(インドの粉は日本のより良いうどんが出来るそうだ)
5:45起床 6:00お茶 6:30朝食(おかゆ・パン・サラダ) 7:15クルへ向け、車出発 8:42クル到着 11:20搭乗手続開始 12:27クル離陸 13:44デリー空港着陸 14:06デリー空港発 14:50カニシカ到着 21:00GINZAにて夕食(中華など) 23:10カニシカに戻る
夜半から雨が降り続いている。早めの朝食を済ませ、飛行機が飛ぶことを祈りつつ、雨の中タクシーでクルへ向かう。今回も森田先生には大変お世話になり、どうも有り難うございました。飛行機は案の定、まだ来ていないらしく、フライトも未定とのこと。読書をしたりして気長に待つ。いつの間にか陽もあたりだして、11時頃デリーからのフライトが到着した。飛行機でデリーに行けることが確定し、皆一様に安心したようである。今回は、20キロを超えた荷物の別料金を、請求されることはなかった。ただし後からチップを要求されたが、この辺は柔軟に(?)出来ているようである。 飛行機は往きと同じ18人乗りの小型機で、クルの谷を旋回して上空にあがった。普段なら谷に沿って行くところなのだが、やはり雲のせいであろう、この後も雲を迂回して、シムラへは寄らずにデリーへ向かった。機内食はサンドウィッチとビスケット、甘いケーキ、日本のおっとっとのようなお菓子。 デリー空港にはアルワリアさんが迎えに来ていてくれ、バスでカニシカへと向かう。小・中学生くらいの生徒がたくさんいたので(日本なら夏休み)尋ねると、インドの夏休み(?)は4月・5月の2ヶ月間だそうである。その時期が一番暑いせいであろう。また、9月の終わりから10月にかけての10日間は、お祭りのために休みになるそうである。カニシカに到着し、福田の誕生日のお祝いも兼ねて、ビールと日本酒で乾杯。大いに盛り上がった。 夕食はサンジャイ氏のおごりでコンノートプレースのGINZAへ。名前とは違って中国料理の店である。めいめいが好きなものを注文する。サンジャイ氏の店で働いているマヘーシュ君も一緒に来た。食後は、サンジャイ氏曰く、デリーで一番おいしいアイスクリームの店、Nirula’sでデザート。満足と満腹でカニシカへ戻った。
デリー滞在コース 8:00朝食 Parm court Shopping ABC Carpet Singhvi Jewellers Central Cottage など 昼食は IMPELIALの中華レストラン 17:30ロビー集合 インド門→レッドフォート→ラージガート→シルクの店→ダンスホール→Chor Bizarre(インド料理)→レッドフォート(光と音のショー) 22:15カニシカ着
アグラ観光コース(石川・安藤・本田) 6:00カニシカ出発 10:30アグラ着 ガイドが乗ってくる 11:00タージ・マハル 12:30カーペット屋に連れて行かれる 13:30昼食 14:00アグラ出発 大雨 14:30途中の建物 18:40ダンスホール(滞在組と合流)
それぞれの選択によりデリー・アグラでの休日を過ごす。 デリー滞在組は午前中ショッピングを楽しみ、ついつい財布の紐をゆるめて購入してしまう事しばしば・・・。帰りの飛行機の重量制限は大丈夫だろうか? いつも帰りはスマートに成田へ戻りたいと思うのに、毎年背中、おなか、両手に荷物があふれる。今年も例外ではなさそうだ。 午後はデリーの市内観光。マイクロバスで市内の数カ所を巡り、写真におさめる。インドの文化に触れたダンスやショーは、うっとりしてついつい眠りに落ちることしばしば・・・。それにしてもサンジャイ氏の財布の中身は大丈夫だろうか。いつもお世話になっている上に、支払いを持ってくれていて、総勢10人におごるなんてそうできることではない。今後長いおつきあいになるので、give and takeの関係がきちんと成り立っていけばいいと思う。 アグラ組は暑さと喧噪の中でお疲れのことだろう。ダンスホールで合流したが、その後の“ 光と音のショー”まで含めると、朝から夜まで約16時間もの長旅。さすがにカニシカに着いたときはホッとしたことであろう。あすはデリー最終日。また来る日までやり残しのないよう、それぞれ精力的な一日となるであろう。
8:15朝食(Palm court) 会計後、各自自由な時間を過ごす 16:00自由時間終了 17:15ホテルカニシカ出発 18:00デリー空港着 村越・福田・宮内は後からシンガポール航空でシンガポールへ出発 20:20他の7人はエアインディアに搭乗 21:20離陸
インドにいることが出来るのも今日だけとなると、やっぱり寂しい感じがする。私は残された時間を有効に使おうと、6時間一人デリー観光ツアーの計画を立てた。 ホテル→郵便局→ニューデリー駅→駅前のバザール→オールドデリー駅→駅周辺観光→ホテル 以上が私の立てた計画だったが、ニューデリー駅前のバザールまでは順調だった。というのも宮内が一緒にいたからである。別れて一人になると、ひどく心細くなってしまった。オールドデリーまで行くようにリキシャの運ちゃんに言った。しかしいかにもインドらしい格好をしたその運ちゃんは、私をあるデパートに連れていき、ここだと言った。だまされたと思い、私は逃げようとしたが、しつこくついてくる。結局、無言でいたらどこかへ行ってしまった。地図を持っていないため、此処はどこであるかわからず、売店の人に聞いたらえきから5kmであるとのこと。私は疲れがどっとでて、ホテルまで急いで帰った。 こうして私の一人観光ツアーは失敗に終わり、がっくりと肩を落とした。 16:00になるとパッキングが終わった人もいて、いよいよ帰るんだなと実感がわいてきた。サンジャイさんに礼を言って、ホテルを出発。陽が落ちてやや暗くなった頃空港に到着。村越・福田・宮内のお三人さんは我々のあとシンガポールへ。7人はガラガラのエアーインディアで日本に戻った。
(日本時間)8:10着陸 9:15解散(乗用車4名・ONライナー2名・電車1名)
お疲れ様でした。
澤入保忠 * 第1課題 当初の目的(第1案) 1999年夏、インドヒマラヤ6000m級の登頂を目指して、目標山域をBarsi(barai)Nala上流のShingkaLa(?)付近の6200m無名峰に設定。その登頂に予定するBC地点及び、可能であれば登はんルートの概要資料の収集とした。 我々が、このような計画に至った経緯は、10年ほど前、Manali滞在の森田氏がMiyarNala側からBarasiNala側へのShingkaLa越えの時、望見した「比較的緩傾斜の氷河雪原の奥にある6000m峰」との情報が発端である。 そして、8月1日トレッキング出発前のミーティングでは、森田氏のコースを逆にたどりJankar(Zhangkal)SumudoからBarsiNalaの左岸をたどり目的のBC地点へのトレッキングが決定した。 しかし、8月4日 Jankar (Zhangkal)Sumudoで得た情報によるとBarsiNalaの左岸ルートは、ここ2・3年荒れていて落石が多く羊はともかく馬の通行は困難である。右岸ルートならば2〜3時間先の、左から流れ込む大きな川の渡渉(水深は、腰まで位−早朝ならばもう少し浅い)さえ注意すれば後は楽なコースであるとのことからJankar(Zhangkal)Sumudoから先のコースを右岸ルートに変更した。 この変更は、BarsiNalaに合流する川の馬での渡渉を妨げ、結果的に当初の目的とした山域の偵察を断念せざるを得ないものにしてしまった。
代案としての登山山域の提案 * 第2課題(第2案)の台頭 8月5日渡渉をあきらめ(早朝の渡渉は可能であったが偵察後、午後の渡渉の難度を考えて)この谷の左岸沿いに氷河舌端までのピクニックを行う。 谷の最奥までの見通しはないが、氷河舌端の位置と思われるところから上部に 300m〜400mの堆石帯を経て一見気になる氷河(ブラック氷河混じりの)があり、その氷河の覆雪部分を拾いながらアタックすれば比較的容易に登頂できそうに思われる山に気がついた。 「目標の山の偵察が駄目ならその代わりに登れそうな山を見つけてくることも偵察の仕事」と言うことで、早速豊島に写真を撮ってもらう。その後先行していた村越、ガイドのパサンにそのことを話すと、パサンの情報としては「イージー」だ、「現在のキャンプ地をベースにして2〜3日で登頂可能、標高は6150m位であろう」とのことである。 彼の話をそのまま受け取らないにしても、氷河舌端付近にABC(Advanced Base Camp)、堆石帯上部の上部氷河にC1、状況よっては更にC2を5600m付近に設置すれば1週間程度で登頂可能であろうと思われる。 ただし、望遠した状況から限りでは、当初のShingkaLaに続く氷河からの無名峰の登頂と比較するとアタック技術は多少難度が上がることも予想される。 しかし、今回の偵察行のように馬が渡渉できないため、目的とするBCまでの荷物運搬を人力で行うことも予想される第1案の山域案と比較して、ABCまでの隊荷運搬を馬で行えることは、計画実行の日数、労力から考えて大きな利点があると思われる。
* 結論 以上のことから、1999年夏のインドヒマラヤ登山はBarsiNala右岸支流の左岸の無名峰6150mとすることを提案する。 ただし、第1案は棄却することなく 2000年以降の実施に向けて更に情報収集につとめる(1999年実施の登山に平行して偵察も可能)。
* 実施に至るまでの課題 1.詳細計画の検討、登山許可申請のための地域特定可能な地図の入手(森田経由でManali登山学校から入手可能) 2.登山計画書の作成。 3.登山許可申請のための情報取得と許可申請。 4.アタックに必要な諸登山技術の習得
* まとめ 今回の偵察トレッキングは十分の成果を得たものとは言えないが、第2案に限り入下山に必要な情報は隊として実体験できた。また、登頂すべきピークのイメージも各人の脳裏に焼き付けてくることができた。 以下は私見ですが、いつの登山でも、そのパイオニアワークと言われるものの多くが未知への挑戦、探検的要素含んでの活動であったことを考えると、会として来年度計画実施する価値は十分にあると思う。登頂への展望は参加者各人の相互協力によって切り開いてゆくべきものではないだろうか。
安藤太郎
(1) 団体装備 1) 石油コンロ 1台 村越より借用 *トレッキング後半から不調 圧はかかるがガスが出てこない 来年の遠征時にはある程度の補修パーツ必要 2) コッフェル 1組 村越より借用 *日本茶を自分たちで煎れるために連日使用 飲料水用のガランパニはキッチンより充分供給された 3) 電気コンロ 2台 村越・福田より借用 *福田は合流が遅れたので実質1台の使用だった 今回の人数に1台は充分だったがフル稼働 4) 酸素ボンベ・吸入器具 森田氏(アシュラム)より借用 *使用せず 5) ガムテープ・マジック 各1 購入 *預け荷物の梱包に少々利用 アシュラムに寄付 インドのガムテープは質が悪いとのことで喜ばれた 6) 高度計 2個 高荷・村越より借用 ほか各個人の腕時計 *各器で少々誤差が出るので宮内所持のものをオフィシャルとする 腕時計のものも充分信用し得るものであった 7) 血圧計・パルスオキシメーター 豊島・同人より借用 *予定より早く電池交換をした 皆が何度も計測し直したため 測定方法・数値読みとりのタイミングに一考の余地あり 8) その他 *GPS(石川所有)を持参すべきだったか? *登攀・徒渉用具の充実?→偵察が大前提ではなかった もし用意していれば無理にでも行きたくなっただろう
(2) おみやげ 1) サンジャイ氏へ 奥さん用にオーデコロン 2) 森田氏へ おかかパック・味噌2キロなど 日本食 3) サンペル氏へ ジーンズ一着 マイルドセブン1カートン 4) その他 酒 アシュラム(森田氏)へ たばこ スタッフたちへの心付けなどに
(3)装備分担について 今回後発の福田に、電気コンロとおみやげの味噌、それに団体食料の梅干しを分担したが、トレッキングの出発に間に合わなかった。梅干しは各自、特に栗原が多めに持参していたのでそれで間に合ったが、参加者がもっと多く、また日本食を切望するような状況であったとすれば不足したかもしれない。今回は行動に致命的となるものはなかったが、今後、特に遠征時は慎重に準備をすすめたい。
(4)個人装備 @登山靴・運動靴など→サンダルは観光に向かなかった A衣類・・・セーター・長袖シャツ・Tシャツ・ズボン・着替え・靴下など→半袖で歩くことも多かったので襟付きが必要・下着は新素材が良い B雨具・防寒具→ゴアテックスなどの透湿防水素材が良いだろう Cザック・ザックカバー→メインザックは70L以上・ザックカバーは必要(馬やジープの屋根にくくる保護に)・サブザックは20〜40L D水筒→1〜1.5L・お湯を入れても大丈夫なもの E他の行動用具・・・ヘッドランプ(予備電池・電球)・サングラス・ゴーグル・軍手・地図・磁石・カメラ(予備電池・三脚・ブロア)・フィルム・ウェストポーチなど F洗面洗濯用具・・・タオル・シャンプー・歯磨き・爪切り・とげ抜き・化粧品・日焼け止め・石鹸・洗濯ばさみ・ロープ・裁縫セットなど G個人医薬品・・・体温計・目薬・風邪薬・胃腸薬・頭痛薬・のどの薬・バンドエイド・包帯・テーピング・リップクリーム・マスクなど H生活用具・・・手帳・住所録・筆記用具・参考資料・辞書・食器・カップ・ナイフ・はし・ライター(マッチ)・ティッシュ・ウェットティッシュ・トレぺ・ビニール袋など I食料(嗜好)品・・・ピンチ食(カロリーメイト等行動用)・梅干し・酒・つまみなど J貴重品・・・パスポート(コピーも)・現金・T/C(番号控え)・クレジットカード・予備写真・電卓・航空券・キャッシュベルト
*体温計の持参が少なく(持っていても出さない?)、共同医薬品のものを順番で使用したため、測定に時間がかかった *森田氏から頂いたシルクのスカーフはとても有効に使わせていただいた *沢入はアシュラムからストックを借りていった→徒渉に有効であるし、骨折の副木や松葉杖などにも転用できるので是非装備したい
(5) 総括
特に問題となるような忘れ物・用意しなかったものはなかった。それよりもなにを減らせるかが課題である。着替えの枚数・過剰な防寒用具など、検討する余地は充分にある。今後の遠征時にはさらに増える登攀用具と生活用具の駆け引きが重要になるであろう。
豊島智恵子
標高2150mのマナリから最初のキャンプ地3320mのJISPAまでジープだったが,マリーの上のエイトモール(約3400〜3500m)で花を撮ったり、ロータンパス(3900m)で山を撮ったりと、ゆっくり楽しみながら着いたので多少高度順化に役立ったのではないか。 JISPAの夕方から9人中4人が軽い頭痛、胃痛、下痢などの症状を訴えたが、その内3人はマナリ出発からの不調が重なっていたようだ。 特に症状が顕著だったH.Aは、4日目には完全に回復し、今回の最高地点4400mの氷河舌端まで行けた3人の内の1人。 また、ずっと下痢の続いていたT.Nも下痢以外は多少の発熱程度で至極元気、やはり最高地点に立った1人。 パルスオキシメーターについては、計測のし方で、何回か深呼吸してから計るか、自然のまま計るか決めておかなかった為、多少ばらつきがでてしまった。それでもその時の標高や体調を概ね反映した値が出ている。血中酸素飽和度(SpO2) が80%を切ってしまう値もあったが、数回の腹式呼吸で改善されるので、まだまだ大丈夫と安心していた。 全体的には、それほど重くはなっかたが1人を除いて全員に高度障害と思われる症状が現れた。 比較的軽かったのは(個人差はあるがガマンの範囲)、一日の標高差が300m以内と少なく、行動時間も長くなっかたからかと思われる。
しかし、事前のトレーニングや現地の高度順化が、意識的に充分行はれればもっと改善できるのではないか。 栗原幸子
品 名 個数 単価 合計 備 考 *体調の優れない者にアルファ米を雑炊風にして供した。 *ラーメンは明星の「中華三昧」がノンフライなので好評だった。 *しょうゆはアシュラムでのうどんのつゆに残り全てを使ったので、トレッキング中の使用量はそれほどでもない。 *他に沢入のソーメンをはじめ、多数個人持ちの日本食が供用された。 *ポカリ・エネルゲンの残数は合算である。 *日本茶を水筒に(水出しで)携行したのも好評であった。 会計報告 石川邦彦
1人当たり(7月30日出発の本体7名)の費用
澤入保忠
現役教師退職以来10数年ぶりのロングツアーでした。しかも、老齢に加えて膝蓋骨骨折の予後1年のビハビリテーションを経過したとは言うものの、再起後初めてのツアーには若干不安でもありました。 でも、行ってしまえばどうにかなるさ式の生来の癖と怠惰な習慣から何の準備もなしに参加してしまいました。 出発前から、初めてのインドなのに行くぞという気負いもなく、インドに入国してからもトレッキング中もあまり実感が湧いてこなかったのは不思議です。 そのために、出発前に拝聴した高度障害にも比較的鈍感で、朝軽い頭痛と、軽い目眩を感じたくらいで行動中はそんなことすっかり忘れていました。 しかし、そんな私でもトレッキング中の谷の大きな景観は、日本の山とは違うものを感じていました、でも、昔からこんな所にいたような気になってしまっていたようです。 あのような山が性に会っているのかなと思います。 さて、来年の計画について、鈍感で、全てにスロースタートの私ですが、久しぶりに燃えてみようかなという気のなってきました。 それにしても、年のせいか本当に怠惰で億劫がりやなので、口先だけになってしまうかも知れません、その点お含みの上よろしくお願いします。 おわりに、今回のトレッキングでは、皆さんに大変お世話になりました。有り難うございました。
栗原幸子
沢入先生、安藤君の希望で持っていったソーメンを食べる事になった。前もうどんの話があったのを、水にさらす事が出来ないのであきらめたのだが、今回は温かいのを食べようという事になり、1s入りを茹であげる。 トレッキングも明日で終わりという日の4時頃から、沢入・豊島・栗原の三人でキッチンテントに入り、まず沢入先生が汁を作る。だし、砂糖を入れ、味見をする。大きな鍋に湯をたっぷり沸かし、ソーメンを入れる。3660mの高地で沸点が低いので、平地よりも少し長めに茹でる。日本から持っていったすりゴマ、森田先生から戴いたわさびなど薬味を用意し、茹であがるのを待つ。 「出来上がりー」の声で鍋の周りに全員集まり、スルスルーっと皆食べ始める。「うまいー」「おいしー」。パサン、コックも一緒に食べ、「グー」。でも馬方さんの口には合わないようだ。宮内君は声をかけても彼女の所から動かない。安藤君は記録を書いていて来ない。そのうち鍋は空になり、二人はとうとう食べられなかった。食べた人は満足、満腹、幸せいっぱい。 今までの考えを改めた。高度があっても、水にさらさなくてもうどんは食べられるのだ。山に入ると日中は暑くても、3時を過ぎるとひんやりしてくるので、釜あげがとてもおいしい。そして麺はソーメンに限る。ソーメンはこしが強いので、多めのお湯で茹でれば高地でも問題ない。次に機会があれば、そのために色々と準備をしていこう。楽しみがひとつ増えた。
豊島智恵子
今回のトレッキングは、「来年6000mを目指そう」のための下見を兼ねたもの。私は休みも取れず、せいぜいBCまでと思っていたせいか今一つ前向きな準備ができなかった。 今回の任務分担は医療。事前の高山病学習は全くの消化不良だったり、使い方に自信のない薬品を前に「医療係りに頼らず自己管理を!!」などと訴えたり… そんなこんなのまま出発してしまった。 いざ歩き出すと、チッカの集落を過ぎて、聖なる流れの石橋を渡り、馬待ちの長い休憩のころには96年の長くうんざりした河原歩きがうそのように、のどかなトレッキングを楽しんでいた。 しかし、標高差が少ないとは言え登り道、テント場に着くころにはいつものとおりへとへと(トレーニング不足を後悔するばかり)。 毎日こんな調子で、朝は頭痛と、お決まりのトレッキング症状。これで医療係りなのだからなかなかしんどいこともある。 取りあえず、適当な時間に「健康チェックをしまーす。」と、みんなに声を掛けなければならない。宮内君も居たし、そう頑張ったわけでもないが、「『まあいいや』としてしまってはだめだぞ」とは思いつづけていた。 それでも、最終キャンプ地ではたくさん花の写真を撮り、沢入先生のいれる野立てをいただき、ゆっくりゆっくり散策を楽しんだ。 今考えると、医療係の任務で私も元気になっていたようだ。「元気ですかー」なんて声を掛けているうちに自分の頭痛を忘れていた。 結構トレッキングを楽しめたのもこのおかげかも知れない。
石川邦彦
2回の富士登山 7月11,12日、高所訓練のため富士山に登り、山頂小屋にて一泊した。11日は、夕食後より、頭痛がひどくなり、夜半より吐き気も。一晩中寝れず、意識して深い呼吸を繰り返した。朝になっても、起きて活動する気になれず、下山するまで布団の中にいた。 2度目の7月20,21日は、息子と2人の山行になった。頭痛、吐き気の症状が1回目の時よりも早く出たが、夜中の3時頃に嘘のように頭痛が収まった。結構眠り、翌朝、お鉢巡りもできた。初回より、高所に慣れてきたようだった。 トレッキング本番 初日、ジープにてロータンパス付近(3900m)にて順化後、ジスパ(3200m)へ。2日目からは3600mから最高4200m位まで、徐々に高度を上げていった。1日ごとの高度差が200〜300m、行程も比較的短距離であったため、疲労の蓄積も少なく、高度順化もスムーズに出来たように思う。ただ、さすがに最高到達地点の3日目、4日目は吐き気、倦怠感におそわれた。 さらに、この上2000mも高度を上げることなど、全く想像できない。このヤワな体で可能なのだろうかを思う。
福田和宏
安藤太郎 私はインドが嫌いだ。核実験を強行する国家。いまだに残るカースト。200%ありそうな湿度。あるのかないのかわからない交通ルール。表面だけのニューデリーの街並。しつこい客引、すぐふっかけてくるリキシャ、土産屋。一番解せないのは欠落している公衆衛生への認識。街の真ん中にあるゴミの山。色とりどりのビニールが流れ着く大小すべての河川。あっても無駄なトイレ。信用できない上水道・・・・・対照的に素晴らしい景観のヒマラヤ、カラコルムの嶺々。素晴らしき、尊敬すべき仲間。きっとまた、再び訪れるであろう。私はインドが嫌いだ。 _
食べ物と飲み物でみる、インド・シンガポール・マレーシア・マダガスカルの旅 宮内 浩志
デリーのカレーとタンドリーチキン(インド) デリーでの夕食といえば、ゲイ・ロードというのは、我々のグループではごく当たり前のコースである。今回も、本隊が日本から到着したその日に、ゲイ・ロードへ向かった。 正直言って、今までこの店にあまりいい思い出はなかった。というのも、いつも腹十二分目ぐらいまで食べすぎてしまい、ちゃんと味わって食べたことがないのである。だいたい、僕が参加したときはいつも(もちろん若者たちのためであろうが)、たくさん頼みすぎてしまって、その余りは僕らにまわってくるのであった。こんな高級なものを食べ残すわけにはいかない、そういう変な使命感に燃えた若者たちは、まさに食い地獄の餓鬼となって食べまくるのであった。 しかし今回は、違っていた。若者は、大学院生の僕を含めてもわずか2名である。ロシア風スープから始まり、ナン、タンドリーチキン、チキンカレー、マトンカレー、ほうれん草のカレー、どれをとってもうまい。もちろん、それ以上にはいかない。ゲイ・ロードって、こんなにうまい店だったっけ? と思ってしまった。 でも、もしかしたら、本田は満腹感で死にそうになっていたのかもしれない。
マナリのビール(インド) 無事にアシュラムに戻ってきて、ほっとしていた。約一週間ぶりに風呂に入って、くつろいでいた。洗濯も終わったし、そろそろ寝るか、と布団に入った途端、サンペルの「みやうちー、のもうよー」の声。いやー、まってました。 福田先輩、安藤先輩、本田を引き入れて、サンペル、去年のガイドのネギ氏、他ガイド1名の計7名で飲む。森田先生も途中参加。冷えたビールはうまい。福田先輩が、日本のおつまみを出してくれる。疲れも手伝って、酔いの回りも速い。何の話をしたかは覚えていないが、かなり盛り上がった。盛り上がりすぎて、うるさいといわれて解散したのである。 次の日の夜も、もちろん飲んだ。 サンペルが日本に来たら、またみんなで飲みに行きましょう(日本の飲み方で)。
マラッカのスチームボート(マレーシア) シンガポールから高速道路をとばして、バスで4時間ほどでマラッカへ。かつては貿易港として、繁栄をきわめた港町である。イスラム教の、頭髪を隠した女性たちが特徴的である。 昼間にマラッカ海峡や博物館などを見物し、夜には村越先生が食べたがっていたスチームボート(海鮮鍋)を食べにマラッカ・ラヤという地域へ向かう。8時くらいですでにほとんど人気もなくなっていたなか、なんとか一軒の高級中華料理店を見つける。しゃぶしゃぶの容器のようなものに、白身魚やエビ、カキ、魚のだんご、鶏肉、豆腐、野菜などを入れて、火が通ったところで食べる。真夏の鍋であったが、とてもうまく、ビールがすすんだ。店員の態度もよく、デザートまで頼んだ。酔いも回って、とってもいい気持ちでホテルへ戻る。 次の日、朝からビールをかっ喰らっていた我々(特に宮内・福田)は、マラッカ海峡の潮風とスチームボートのおいしさだけを思い出に、マレーシアを後にしたのであった。
シンガポールの蛙(シンガポール) シンガポールは、東京のようである。 街並みがきれいある。高層ビル群が屹立している。港には、大量のコンテナが整然と並んでいる。タクシーも、普通はメーターで走る。その車内では、気のきいたFMも流れている。もちろん物価もそれなりで、ビールの大瓶が一本 500円もする(総じてし好品は高いようだ)。セントーサ島という観光地など、入場料だけで1000円近くもする。 そんななかで、ここでの楽しみは、食事であろう。。 我々の滞在したホテルの前には大きなビルがあり、そこの半地下のようなところには 100軒近い小さな食堂が並んでいる(ホーカーズという)。店の前には、机と椅子がおいてあり、そこで自由に食べることができる。自分の好きな店で、好きな物を選んで食べられる。例えば、ある店でスープを頼んで、別の店でおかずを頼むなんてこともできる。店もさまざまで、中華料理から、タイ料理、日本食、ハンバーガーショップまでなんでもござれ。値段は一品数百円から。店にもよるが、そこそこいける味である。 マラッカから戻ってきたその足で、我々はそこに向かった。夕食時でとても混んでおり、空いているテーブルを探すのにも一苦労である。前に顔見知りになった海鮮料理の店に行った。店の横の水槽の中には、生きた蛙が何十匹も入っている。僕は、蛙のからあげともう一品を頼んだ。 家訓で蛙を食べてはならないという福田先輩を横目に、蛙のからあげを口に入れた。初めての蛙の味は、意外と淡白で、白身魚のようであり、けっこういけた。 やはり、ここは東京ではなかった。
アンタナナリボのフランス料理(マダガスカル) 熱帯雨林で原猿と写真も撮った。中央高地では、農業の様子や市場などを垣間見ることができた。夕日に輝くバオバブも見たし、モザンビーク海峡でのリゾート気分もほんのちょっと味わった。おみやげも、思っていた以上に買うことができた。 こんなマダガスカルでの満足した気分をさらに盛り上げようと、マダガスカル最後の夜、フランス料理の店に足を運んだ。 マダガスカルで困ったことの一つに、食堂のメニューがフランス語で書いてあるということがある。この店のボーイもとても感じはいいのだが、あいにく英語は話せない。身振り手振りも交えて悪戦苦闘しながら、なんとか注文する。 さっそくビールで乾杯。しばらくして、スープ、サラダが運ばれてくる。塩辛かったスープは取り替えてくれる。他の客も少しずつ入ってきて、ピアノと弦楽器の生演奏が始まった。一人一皿で注文したつもりのステーキが全部で一皿しかこなかったので、もう一皿、ステーキを追加する。ワインでもう一度乾杯。最初はおとなしかった我々も、雰囲気にも酔い、だんだんにぎやかになってくる。奏者は、おそらく数少ない、日本の曲のレパートリーを披露してくれる。そのうち、直接奏者のところに行ってリクエストを始める者もでてくる。時間も忘れて、皆、心から楽しむ。まさに、最後の夜にふさわしい宴であった。(村越先生、ごちそうさまでした) 次の日、ちょっと二日酔いになったのはいうまでもない。
本田 章
ヒマラヤの山は人間を歓迎していないかのように見える。だからといって拒絶しているわけでもなさそうだ。来る者拒まず去る者追わずといった感じだろうか。何も標識もないし、どこを歩いていいのだか分からない場合が多い。しかも、頭痛が伴うためいつも快適に歩けるとは限らない。それでも世界中の人達がヒマラヤに集まる。 僕もその一人だが、ヒマラヤに行けたことは実にラッキーだったと思う。一人ではなかなか行けるものではない。みんながいるから大胆な行動ができるし、いろんな情報が出てくる。今回徒渉を断念したのもそれによるもので、もし僕一人であったならば迷わず渡っていたと思う。そして流されてしまったかもしれない。生きて帰れるかどうかはそのパーティーの力量によるものだと痛感した。
(終) |