トレッキング記録    熊谷トレッキング同人

2002 インドヒマラヤ


目次
 A隊行程一覧
  A隊行動記録
  食料係報告
  会計報告
 B隊行程一覧
  B隊行動記録
  会計報告
 医療係報告  高山病体験記


<私のヒマラヤ>
プジャ  −散骨に寄せて−
   吉田 享子    
初めてのインド・チャンドラタール    逸見 一恵      
今年インドで考えたこと     滝沢 健次 
チャンドタールからのメッセージ    福田 和宏
チャンドラタール散策    豊島 千恵子 
15年ぶりのインド行きで感じたこと     宮田 幸男 
インドの旅を終えて思うこと    浅見 政人 
インドはとってもおもしろい    井上 貴裕
インド・ヒマラヤ旅行記     村越 亘

医療係報告
高山病体験記
                井上 貴裕
 トレッキング第1日目8月4日の夜中、何度か便意を催してトイレに向かうがここ数日便秘気味で何も出ない。8月5日の明け方5時頃、同じように便意を催してテントを出た時、急に吐き気がし、吐いてしまった。その直後強烈な便意がし、トイレに駆け込むと激しい下痢をしてしまった。別に頭痛も強い吐き気もなく、すぐには高度障害だとは思わなかった。初日の夜に唐辛子をさやごとたべたせいだと思っていた。
 朝食は全く食欲が無く、テントの中で寝ていた。この頃から腹痛が始まり、序々に強くなってくる。結局一口も食べないままクンザンラに向かうジープに乗った。乗ってすぐに下痢がきたが、自分のせいで遅らせるのは悪いと思い、脂汗をかきながら耐えていた。その様子を察してか同じジープの滝沢先生がジープを止めてくれて、岩陰に隠れて用を足した。その後、クンザンラまで横になっていたためか幾分か体調が良くなった。それでも食欲は全然湧いてこない。
 トレッキングが始まってから、またしても下痢と嘔吐に悩まされた。かのダライ・ラマが座ったとされる椅子からはすばらしい景色が見られたが、自分はそれどころではなく、岩陰に身をひそめて用を足していた。
 最高地点で昼食になった時も、一人腹痛に苦しみ、頭を垂れていた。滝沢先生にマンゴージュースをもらったが、これがさらに腹痛を増加させてしまった。昼食が終わり、10歩いや20歩くらい歩いたところで足がフラフラになっていると指摘され、腰を下ろした。と、腹がものすごく痛くなり、吐いた。食うから、飲むから出るんだと思いこみ、何も飲まず食わずで来たが(そもそも食欲なんて全然なかったのだが…)、それは大きな間違いらしい。すくなくとも下痢をしたら水分をとらなくては干からびてしまう。脱水症状の一歩手前まできてその大きな過ちに気がついた。隊長にポカリを作ってもらい、ガイドにザックを持ってもらい、自分は空身で、片手にポカリ、もう一方の手にはトイレットペーパーというなんとも情けない姿で歩いていた。意識はしっかりしていたが、そこからチャンドラタールまでどうやって歩いたのかあまり記憶にない。自分の前と後ろが誰だったのかも憶えていない。
 チャンドラタールに着いてから頭痛に襲われた。Tea timeの時も一人横になっていた。
 夕食の時は顔を出したがまだ食欲はない。腹痛は収まったが頭が痛い。食べ物を見るのも嫌だった。食後、ボルタレン3錠、正露丸3錠、ダイヤモックス1錠を飲んだ。だが、ボルタレンは1錠だけ飲めばよかったらしく、皆を心配させてしまった。頭痛に悩まされながらその日は就寝。
 8月6日、ボルタレン3錠が効いたのか、起きてみてケロッしていた。体が高度になれたおかげで頭痛も腹痛も吐き気も下痢も止まっていた。
 インドに来てからウマイ、ウマイと言って暴食を繰り返していたツケがここで出たのだろう。高山病にかかってから、自分の体が細くなったのを感じた。


<私のヒマラヤ>
プジャ  −散骨に寄せて−
            吉田 享子
 先生!先生が愛してやまない、そして夢をこの地に求め、ずっと居たかったでしょうインドヒマラヤ・チャンドラタールにご一緒に参りました。
 10余年前先生と出会い、「ブルーポピーを見に行きませんか」のお誘いに、誰もが外国旅行に出かけるようになっていたとはいえ、私には夢のまた夢であり、最初は半信半疑でした。「夢を持ちましょう、そして実現させましょう」と熱っぽく語る先生の言葉にぐんぐん引き込まれ、半年後には実現させてしまいました。それは平凡な一主婦の人生を大きく変えるものでした。
 5年前の山岳会設立とともに、「より高く、より険しく、より深く」をかかげ、初級雪山に、初級岩登りに、初級沢登りにと、私の山体験は加速していきました。正月の西穂高岳や奥多摩のシャワー・クライミングは還暦を迎えてからの体験でした。その時の先生は、「特別なことではないんだよ、その行動が若い者への刺激になり貢献することなんだよ」と勇気づけてくださいました。いつもどこかに居場所を作ってくださり、ポンと背中を押して出番を与えてくださったり、沢山のことを教えてくださいました。すばらしい仲間と出会う事もできました。この大きな、沢山の財産を皆さんと少しでも受けつぎ、伝えて行きたいと思っております。それが先生のご恩におこたえすることと思っております。
 どうぞ安らかにお眠りください。 合掌
 <解説>インドヒマラヤ・トレッキング第3日目、チャンドラ=タールを見下ろす丘の上に村越先生のケルンを作り、散骨・追悼のセレモニーを行ないました。この時の同人会長・吉田さんの「追悼の言葉」を吉田さんに文章化していただきました。


初めてのインド・チャンドラタール
                 逸見 一恵
 インドヒマラヤトレッキングに誘っていただいた時とても嬉しかったが、今回のトレッキングはいつもと違い村越先生の大切なセレモニーが主目的と聞いていたので、入会して日の浅い私が本当にご一緒してよいのだろうかと随分迷った。
 3年前、入会して間もない私に「逸見さん、インドに行きませんか」と誘って下さった村越先生の声を思い出した。その時は都合が悪くて参加することが出来なかったが、今回は行ける。行きたい、行きたい、行きたいが先に立ち、参加を決意した。行くと決めたら今度は次々に不安が襲いかかってきた。高度障害は大丈夫だろうか、皆さんに迷惑を掛けたらどうしよう。富士山の一泊訓練も都合がつかず行けなかった。そんな不安といっぱいの期待を乗せてインドへ旅発った。
 不安は一緒に行った人たちが次々に取り払ってくれた。アシュラムのりんご畑を渡ってくる風が優しく心をつつんでくれた。森田先生夫妻の笑顔、初めての私にも優しく、嬉しかった。憧れのブルーポピーにも会えた。夢中でカメラのシャッターを押した。花好きの友人にも見せてやりたいと思った。遠くから眺めたチャンドラタールの青い湖面、あそこまで歩いていけるのかという不安を胸に一歩一歩歩いた砂埃の道、湖を前にしたときの感激は言葉にならない。自然のスケールの大きさに、ただ黙っている他はなかった。みんなで一つ一つ石を積み築いたケルン、そのケルンに寄り添っていた羊飼いの穏やかな顔、さっそく先生の話し相手ができたようで嬉しかった。
 オールドマナリへも、タージマハルへも行くことが出来た。目一杯インドを楽しむことが出来たのも、村越先生、一緒に行って下さった人たち、森田先生夫妻、プラカッシュさんをはじめサポートして下さった方々のおかげだ。本当に有り難うございました。言葉では言い尽くせないほどの親切をいっぱいいただいて、私はなんて幸せなんだろう。また、いつの日かインドへ行けることを夢見て、これからも元気で過ごしていきたいと思っている。


今年インドで考えたこと
                       滝沢 健次
 今年インドのヒマラヤの山中を歩きながら考えた。
 我々が歩いている場所は4500mの峠:クンザンラからチャンドラタール(湖)への山道である。細い道の右側はゆるやかに盛り上がり、その先で高い岩峰へと連なっている。左側は岩屑が緩やかに落ちてその先で200m下の谷底へと落ち込んでいる。谷底を流れるチャンドラ川はここでは広い河原を作り、そこを水が網の目のように流れ下っている。川の源流は遥か左前方に見えるムルキラ峰の下側である。その手前に我々の目的地、チャンドラ湖の青い水面がよく見える。
 眼下のチャンドラ川の広い河原はなぜ出来たのか。ここでは明らかに川の堆積作用によって大量の砂礫が堆積しているのだ。ヒマラヤ山脈は今も隆起を続けているから、川は浸食作用を続けているというなら解るが、堆積しているので納得がいかない。この疑問は2日後に湖から帰る時に解けた。川の下流のバタルに橋が架かっているが、ここで谷が極端に狭まっている。この個所で土砂はせき止められて上流では堆積しているのだ。いつの日か、バタルのくびれ部分が崩壊すれば堆積した土砂は一気に流れ落ちるに違いない。
 登山道の右側の土壌の中に、丸石が見られる。これらは河原で水の流れが浸食して角をとった物であり、決して氷河が生みだしたものではない。すると今の登山道よりも上の位置に河床があったことは確かなことだ。何回目かの間氷期にはこの位置で川は雄大に流れ下っていたのだ。現在の河床は200m下にあるから、1年で1mmずつ隆起したとしても、20万年以上前のことである。
 丸石を含む厚さ数mの土壌はどうだ。土壌は普通岩が砕けた細かな砂と有機物から出来る。この厚い土壌もかつて有機物の堆積がなければ生まれなかったはずだ。数十万年の間に標高が低かった時代か、今よりも温暖であった時代にここは大森林に覆われていたのかも知れない。その時の遺産がこの土壌ではないのか。
 ヒマラヤ山脈の隆起が5億年前から始まり、激しい隆起は最近の100万年のことという。この間に1万数千m隆起してその半分が浸食されて、ムルキラは今6000m峰なのだ。そう考えるとエベレストの頂上直下に海成層の黄色いベルトがあるのもうなずけるし、スピッティの河原にアンモニアの化石が出土するのもわかる。ヒマラヤの地殻変動は雄大なのだ。 
 ときに人間はどうだ。福田さんのザックの上ぶたに村越先生の遺骨を入れての旅だから、人の生死の問題に嫌でも考えが行き着く。
 村越先生が亡くなってから、唯物論者にとっての死というものについて、私は考えざるをえなかった。唯物論者にとっての死は簡単明瞭でいい。死亡すればそれで終わりである。来世や霊魂を信仰しないから、自分が天国に行けるか地獄に堕ちるかを心配する必要はない。考えてみると、そもそも来世や霊を本気で信仰する人が本当にいるのかというと曖昧だ。空海なども宗教者としては偉大であるが、かなり怪しい。即身成仏=人は生きたまま仏陀となることができるだの、浄土はこの世にあるなどという言い方を見ると、来世など信じていなかったのではないか。日蓮なども聡明であったから、見もしないものを本気で信じていたとは思えない。ただ、古代・中世という時代的制約のもとで、独自の世界観を仏教に託したのではないか、そう思えてくる。
 マルクスは生物の生命活動はタンパク質の一つのあり方だといったが、今の科学でこのことはますます明らかになってきている。今や生命作用も分子レベルで明らかになりつつある。記憶も思考も、脳の中での弱い電気信号とある種の物質のやりとりであって、神秘的なものは何もなかったのだ。
 亡くなった人はもういない。ただ我々、残された者の脳の中の記憶として生きているだけだ。だから、死にゆく人は阿弥陀仏にすがるのではなくて、大いなる人間の歴史を信頼し、人間の無限の叡知を信頼し、なおも生き続ける仲間を信頼しつつ、安心を獲得しなければならない。
 村越先生がそういう信頼を私たち寄せて亡くなったのなら、私たちはそれに応えて生き続けなければならない。しかしその記憶も我々が死ねば脳中から失われる。そうなるまでは、故人のことは忘れないでいたい。
 福田さんのザックに入っている遺骨はどうなるのだろうか。
 かつて村越先生の身体を構成し、運動や思考を支えていたこれらのものは、酸化されたカルシウムと何種類かの金属類だ。生前、食物や薬品として胃や腸から摂取されたに違いない。私たちがこれらのものを特別なものと考える理由は、かつて村越先生の身体を構成していた物質であるという点である。日本人は独特の死生観で遺骨に対する思い入れが強いが、インドの人たちは淡泊だ。彼らは、個人を荼毘に付してその魂が天空に達した後は、遺骨を母なるガンガーの流れに流して、個人の天界への解脱を祈るのだ。 
 これらの物質は、ヒマラヤ山中で散骨された後どうなるのか。ケルンのもとで幾星霜、陽に照らされ、雨にたたられ、雪に埋もれ、霜に凍り、細かく風化していく。何百年の後には、土に混じり、そのまた何十倍かの時間をかけて、次第に水に溶けていくだろう。この長い時間の経過の中では、一方ではヒマラヤは隆起し、地形を変え、岩は割れ、ケルンは崩れ、土壌は押し流されていく。話は再び地殻の変動のレベルになるのだ。その時の人類の未来など考えようがない。
 水に溶解するということは、分子化したということだから、かつての遺骨はやっと本来の基本形に戻ったことを意味する。人体を構成する原子は約25種類といわれるが、世界を構成する原子は92種類あるそうだ。現代の宇宙論によれば、これらの原子は宇宙の歴史とともに生成された。150億年前に起きた宇宙の始まり、「ビッグ バン」はその拡大とともに最も軽い元素・水素をつくりだした。水素は天体をつくりだして、核融合の結果ヘリウムに変わる。何十億年かの後、中心部の温度は上がり巨大化して赤色巨星になると、中心部では2億度にまで温度が上がり、ヘリウムは融合をはじめ炭素ができる。これが蓄積し、さらに温度があがると酸素ができる。赤色巨星はここで反応が終わり、崩壊をはじめる。
 酸素よりも重い原子は、太陽よりも何百倍も巨大な星の成長と崩壊の中でつくられるそうだ。酸素が主要成分となった巨大星は、7億度になるとマグネシウムができ、30億度でケイ素、イオウ、アルゴン、カルシウムができ、50億度となって鉄ができる。さらにこの星は大爆発(超新星爆発)をして、このとき鉄よりも重い60種の原子ができる……。この天体爆発が繰り返されて、原子のチリがばら撒かれ、これによって太陽系が生まれ、緑なす地球ができ、生物が生まれたわけだ。
 チリの塊によって人間ができているなら、死んだら土に還るどころか、宇宙のチリに還らなければならない。今から数十億年か後、太陽が終末を迎え崩壊をした時に、地球の物質は文字通り宇宙のチリになるだろう。古代インド人は「輪廻転生」の思想を発明し、それはヒンドゥ教、仏教に受け継がれているが、この法則は案外に正しくて、宇宙の物質のレベルでは貫徹しているということができるかもしれない。
 やっぱりインド人が偉大だなという結論に到達した時、チャンドラタールの青い湖面が近づいた。


チャンドタールからのメッセージ
                 福田 和宏
 ヒマラヤの奥深く、標高4300mに位置する湖“チャンドラタール”。そして6517m峰“ムルキラ”をも望める丘の上。ここが、今年2月15日に亡くなられてしまったが、今でも私たちにとってかけがえのない存在であり続けていることに変わらない、メンバーそれぞれの人生の師である「村越先生」のケルンを、みんなで積んできた地である。
 先生の葬儀に際し、その遺影を見た時、今回の旅が決定的になったように感じます。その遺影は、村越先生ご自身が数多くあるであろう写真の中から選ばれていたものであること。かつて、この地“チャンドラタール”を訪れた時に同行していた橋本先生がシャッターを切られたものであること。
 思い起せば、昨年の夏は村越先生が隊長で、チャンドラタール・トレッキングの準備を先頭切って整えてくれていたにもかかわらず、出発直前になって体調が悪化し、まさかの突然のキャンセル。私たちのみで、この地を訪れたことがよみがえります。そして、その時、あたり前のように思っていたこと。それは、「来年には、先生も元気になるだろうから、チャンドラタールに、みんなでまた来よう。」それがまさか、その後半年後にお亡くなりになられてしまうとは・・・。でも、その思いをどうしても果たしたかったこの夏、おあずかりした遺骨と遺影を抱いて、チャンドラタールに共にやってくることができました。多くの仲間たちと一緒に。また、先生の息子さんと一緒に。
 村越先生の遺影、先生がどんな思いでこの写真を選ばれていたのか?いつもこの写真を見ると考えます。参加したメンバーそれぞれが、行きたくても都合がつかなかった仲間たちを代表して、村越先生のケルンを積み、村越先生が築かれてきた足跡の一つを形としてきたことは、今後、この地を訪れ続けることにより仲間の絆を深めていけるに違いないと感じました。さらに、これまた沢山のインドの仲間たちとの交流も、今回を機にさらに深い友情が積み上げられていくであろうことを実感しました。仲間をつなぐことに心配りをされ続けていらっしゃった先生のことだから、きっとこれからも・・・。そう願ってはるかチャンドラタールの地からメッセージを送り続けてくれているように思えるんです。実際どうなのかは村越先生に聞かなくちゃわからないけど。先生、来年の夏、ビールもって聞きに行くから教えてねっ。


チャンドラタール散策
                豊島 千恵子
村越先生のケルンを造り終え湖畔の茶屋で遅い昼食を済ませた後、宮田君、逸見さん、井上君と私は、残って湖巡りを楽しんだ。 湖の流出口から右回りに半周。チャンドラタールを前景に先生のケルンのある丘、その向こうにCB山群。何度か訪れたが東側の岸から眺めたのは初めてだ。ずいぶん開放的で明るく感じられる。おそらく観光客にはこの景色がお勧めなのだろう、ベストポイントには休憩できる大きな石が設置してあり遊歩道もきちんと整備されている。
半周の三分の二ほど巡った岸辺に、小さなケルンがいくつも水に洗われて立っていた。その中の比較的大きいものには白い布が巻かれている。羊飼いのものか、トレッカーのものか、誰の為のものなのか、どんな願いが込められているのか…。今はまぶしい光の中にある写真を撮りながら、厳冬の結氷した岸辺に林立する様子を想像していた。
先を行く3人に追いついて、93年にテントを張った最上流を通り、湖の西の丘に登った。宮田君の先導で、湖側ではなくチャンドラ川に面したルートを行く。はるか下方の濁流と、深く複雑に刻まれた谷壁、わずかな緑に群れる羊。旧約聖書の世界に引き込まれた様で何度も何度も立ち尽くす。
写真としては、まだまだ真上の太陽にどうしようもないが、シャッターを切らずには居られない。気が付くとムルキラは、氷河とともに光の中に飛んでいた。
何となく近づいてきた羊飼いと後先になりながら先生のケルンを目指す。体力限界の私は、バララチャ・ラへの道が見える第2ケルンへ登る3人と別れ、一足先にチャンドラタールを見下ろす最初のケルンへ向かった。
ケルンの前に座り込み暫し読書。ふと目を上げると、さっきの羊飼いが現れケルンの横にふわっと座ってしまった。あまりにも自然に、そして真っ直ぐ見詰められた。何とも不思議であいまいに笑い返すしかなかった。暫くそのそのまま二人で座っていた。そう言えば93年のロータン・パスで氷河の山に向かって並んで座り込む羊飼いと先生のシルエットを撮ったことがあった。
第2ケルンから降りてきた3人はこの様子に思わず笑ってしまう。みんなが来てくれてほっとしたものの少し残念。後は当然記念撮影。先生のケルンと羊飼いを囲み和やかに写真に収まる。
名残は尽きないが、そろそろテント場に戻らないと他のメンバーが心配するだろう。  「羊飼さん、この辺りがあなたのエリアなら何度もここへ来てくださいね。」


15年ぶりのインド行きで感じたこと
                 宮田 幸男
 1987年に初めて行った異国の地がインドであった。高校時代に、村越先生からの「30万円貯めてインドヒマラヤへ行こう!」と夢のようなホラを真面目に受け止め、約束を従順に守った他のOB6人らと訪れて以来である。その時は、前半の2週間をハムタパス・トレッキングに、後半の1週間をアジャンタ&エローラの遺跡群やジャイプール、アグラのタージマハル観光をOB達で旅行した。初めての海外旅行が幸か不幸かインドであったが(絶対幸です)、よく云われている「カルチャーショックを受け2度と行くことはない人と、はまって何度も行ってしまう人」であれば自分は後者の方である。でも、インドにはその後行くことはなかった。学生時代のその後はネパールに通い、社会人となってからはカナディアン・ロッキーやトルコ・インスタンブール、モロッコのマラケッシュと一人で自由気ままな旅行を楽しんでいたからである。
 15年ぶりに、しかも生後3ヶ月含む2人の子持ちの身でありながらインド行きを決意した訳は、村越先生にほかならない(妻の理解が得られたのも先生だからである)。今年2月に残念ながら他界された先生の遺影の地がチャンドラタールであったことや、湖のほとりで散骨式をすること、それに亡くなる直前の11月に、先生から「俺が死んだら、この写真を遺影に使ってくれ。宮田が承知していてくれればいい」と頼まれていたことが心に残っていたからである。「定年したら世界中の山を歩きまくってやる」とうれしそうに語っていた先生。「70歳を越えてもお前達と冬山を登り続ける」と言っていた先生。本当に残念です。先生との想い出は、あとの章で書かせていただく。
 あのインドもこれだけ変わったのか。率直な感想である。15年前のインドは、とにかく貧しかった。着ている服も、持っている物も、走っている車も、あらゆるものすべてが。今年のインドでまず驚いたことは、デリー空港に降り立ち機外に出ても、あの何とも言えないような得体のしれない‘インドの匂い’がなかったことだ。空港を出ても、我々に視線を注ぐあの人だかりもない…。
 街を走る車が数倍というか爆発的に増えた。アグラ往復の時に朝夕ラッシュアワーにぶつかったが、交通渋滞はまるでバンコクのようだった。信号を置かない独特の丸い交差点はパンク寸前であった。自動車は格段に進歩した。以前は、このサスペンションて何?と感じさせるアンバサターや、スズキとは名ばかりのインド製マルチスズキ軽カーぐらいしかなかった。今は、インド製のTATAブランドもヨーロッパを彷彿させる立派な外観デザインで、ずいぶんと洗練された印象となった。排気量も大きくなり走りもアップした。ただ、左側ドアミラーが最初から取り付けられていないのは、左後方車との安全距離はお構いなし?と、法律で決められているのか。これはいかにもインドらしいが。外国車もずいぶんと見かけるようになり、日本のアコードやコロナ、ランクルプラドもあったし、韓国のヒュンダイも特に多かった。鎖国政策を転換して、外国資本に開放した結果であろう。
 開放政策とインド人の数学、英語能力と相まって、インドは世界に注目されるコンピュータソフトの先進国になったらしいが、町中にもインターネット・カフェやISDなる国際電話屋があふれていた。私もマナリから自宅に電話したが、驚くほど早く接続しクリヤな音声であった。ヒマラヤの田舎町から国際電話がこんなに気軽にかけられるなんて、出発前は考えてもいなかったことだ。それに、ビジネスの世界では携帯電話が普通になりつつある。情報通信分野の発展は、目を見張るばかりである。自動車もそうであったが、パソコンも韓国製サムソンが幅を利かせていた。インドで見かけたアジア人も、ほとんどはコリアであった。経済交流を含めて、今後は韓国が台頭してくるのかもしれない。
 街をいく人もずいぶんとおとなしくなった。日本人観光客と分かれば、ドサッと「ジャパニーズ、ミンナトモダチ」と囲まれたものだが、それもなく普通に街を歩けた。ニューデリー駅に電車の写真撮影に出掛けたが、デリーにもついにメトロ工事が始まり、駅舎は取り壊されていた。駅前は舗装された大駐車場があり、係員がしっかり駐車料金を徴収している。物乞いや駅で寝泊まりをしていたあの数百人の人達はどこへ行ったのだろうか。物乞いまで豊かになったのだろうか。それとも、政府がどこかへ連れていったのだろうか。
 ヒマラヤも変わった。マナリの活況ぶりには驚かされた。1987年の写真を見たら、メイン通りにも店は数軒しかなかった。今は、色華やかな装飾をほどこした店が軒をかまえ、買い物を楽しむ人もいた。ポップコーンも売っていた。周辺の人口もずいぶんと増えたのだろう。ロータンパス下のマリの茶店もずいぶんと増えたし、休む人やドライバーでにぎやかだった。ロータンパスを越えていくバスやトラック、乗用車も多く、今後は、植物に悪影響を及ぼすかもしれない。
 チャンドラタールで、マナリから来たという中学生ほどの男女20人位と遭遇した。ジープをチャーターして、学校行事でピクニックに来たという。彼らは、オートフォーカスのコンパクトカメラを持っていた。ただ、高度障害で頭痛に悩まされていた夕刻に、響き渡っていた元気な彼らの歌声には心を和まされた。
 もちろん、変わらないものもあった。空港職員や政府関係者の無愛想ぶりは相変わらずである。聖なる牛も、堂々と車道を歩いていた。オートリクシャも、非力なエンジンで山道を駆け上がっていた。チャンドラタールで放牧をしていた羊飼いも、9月になったら2週間かけてマナリまで帰るという。‘ジープ道を落とした’スピティ・ロサール村の人達のチャンドラタールを汚されないように残しておきたいとする気持ちも。
 マナリで暖かく迎えてくださった森田先生ご夫妻やサンペル君とアンドゥ君、それにミスター・リグジン。トレッキングで行動を共にしてくれたガイドのプラカッシュやスタッフ達も、我々グループの安全を確保しようと気を使ってくれた。デリーでは、ミスター・サンジャイとアルワリア、ボビー達が、楽しい旅をしてもらおうとする態度には申し訳ないくらいであった。同人のインドヒマラヤトレッキングが十数年も無事に続けてこれたのも、これらの現地の人達に支えられてこそである。村越先生をはじめ先輩方が築かれたこの財産を、今後も大事にしていかねばならないと切に感じさせられた。
 ‘憧れのチャンドラタール’標高4200mに突然と現れる高山湖。周りは5000m級の砂礫の岩山が取り囲み、チャンドラリバー越しに氷河をいただく6000m超のCB山群を望められる。しかも、そのほとりでキャンプも出来る。長年憧れていたそのチャンドラタールに行くことが出来た。夢のような幸せな時を過ごせた12日間であった。
 ‘想い出のチャンドラタール’村越先生には、チャンドラタール行きと暖かいインドのたくさんの人々と触れ合う機会を与えてくれて、心からありがとうとお礼を言いたい。そして、またいつかMURAKOSHIケルンに会いに行くことを約束したい。


インドの旅を終えて思うこと
浅見 政人
 
私が熊谷トレッキング同人に入会したのは3年前、1999年のインドヒマラヤ無名峰遠征の半年後くらいだと思います。入会した当時、山スキーが盛んな会に入れたことがうれしくて、冬から春にかけてあちこちの山を滑っていました。しかし、正直言って、ヒマラヤ・トレッキングや夏の山にはあまり興味がなかったのです。
 例会で、村越先生が「同人としての海外トレッキングは毎年インドヒマラヤへ行く」とおっしゃっていたのを聞いて、モンスーンの影響を受けにくいからインドなのかと思いながらも、ヨーロッパでもアンデスでもカナダでもいいんじゃないかなと思っていました。 そんな私ですが、同人の仲間と山行や学習を重ねるうちに、この会の一番の魅力は山を通した人のつながりなんだと思うようになりました。村越先生や多くの先輩たちが、長い時間をかけて築いてきた、人と人のつながり、その仲間に入れてもらったことの喜びは、山に行く機会が増えたこと以上にうれしいことでした。
 今回、はじめてインドを訪れ、森田先生御夫妻、サンペル君、サンジャイさん、アルワリアさん、そして多くのインドの友人たちに支えられて無事トレッキングを終了できました。もちろん、福田隊長、亘君、そしてA(先発)隊の皆さんにもたいへんお世話になりました。あらためて、熊谷トレッキング同人とインドの間に太い信頼の絆があることを実感する旅でした。村越先生の言葉が自分の胸の中にじわりと染みとおった気がします。先生の遺志は福田隊長にしっかりと継承され、これからも多くの仲間がインドを訪れることでしょう。先生が、インドヒマラヤに魅せられ、同時に自由に世界中を歩いたように、私たちもインドとのつながりを大切にしながら、山の楽しみを広げていきたいと思います。次は氷河を登ってみたいな・・。


インドはとってもおもしろい
                 井上 貴裕
 高校生の時、沢木耕太郎著の「深夜特急」という旅行記を読んだ事がある。香港からバスを乗り継いでヨーロッパまで行くというものだ。そのなかで特に東南アジアやインドのところがおもしろくて何度も読み返した記憶がある。いつかはそんな場所に行ってみたいなぁ…、なんて想いを抱いていた。なにもできないまま(しないまま?)大学4年生になってしまった。来年から就職するため、長期の休みは今年しかない。ラストチャンスだと思い、熊トレに入会し、念願のインドへの切符を手に入れた。村越先生が亡くなり、K先輩にインドで先生の散骨をするから是非行ってくれといわれた事も、インド行きを決意した要因の一つだ。
 そんなわけでインドに行く事が決まり、さて、インドについて何か勉強しようと思った。民族の事、言語の事、インド人の性格、歴史…。知りたい事はたくさんあったが、何からやっていいのか全く分からなかった。とうとう8月1日になり、結局ほとんど勉強しないままインドに向かった。でもそれが逆に変な偏見を持たずにすんだため、よかったのかもしれない。
 初めての海外で、たくさんのインド人にじろじろ見られて正直恐かった。治安が悪いと聞いていたので常に周りを警戒していた。でもサンジャイ氏やアルワリア氏と話しているうちにその警戒が緩み、逆にインドの人々と話すのがおもしろくなってきた。マナリの街で一人行く当てもなくブラブラしていても、その喧騒さが楽しくて、何度も同じ場所をぐるぐる歩いていた気がする…。時にはタバコや本をディスカウントしてもらおうと交渉して店の人に怪訝な顔をされた。後になって、タバコや本がディスカウントできない事を知り、その時必死になって値切ろうとした自分の滑稽さがなんとも愉快であった。ただ、唯一、楽しくなかったというか、悲しくなったのが、ハシシ(麻薬の一種)をすすめられたことだった。中学生くらいの子にいきなり「Are you smoking?」と聞かれたので「Yes,I am smoker.」と答えたら、なんとハシシをすすめられた。ハシシは麻薬だと知っていたので断ったが、よくよく考えてみるとそんな簡単に麻薬が入手できてしまうことが、妙に悲しくなった。ハシシの植物も自生しているし、それを簡単に手に入れられる…。なんか悲しかったが、それがインドなんだと強引に自分を納得させた。
 ロータン・パスを越えると目の前には見たことの無いような風景が広がっていた。赤褐色の緑のない山肌、下の見えない深い峡谷、白い氷河…。日本では決して見ることの出来ない風景を目の当たりにして心が踊った。写真でしか見たことのないヒマラヤに今、自分がいる…。今でも目を閉じるとその乾燥した山肌が脳裏にうかんでくる。世界の山は果てしなく広くて大きい…、と感じた。
 しかし、2日目に体調を崩した。ただの食いすぎなのかは分からないが、ひどい下痢と嘔吐に見舞われた。食欲もなく、写真を撮る余裕もない。遥か彼方にある緑色をした湖に向かってフラフラになりながら歩いた。当初、チャンドラ・タルに着いても「やっと着いた…。」と思っただけで、それ以外の感情を持てなかった。お腹が痛くて頭痛もしてきた。早く楽になりたい…。そればかり思っていた。
 若さ故なのか、翌日はもうすっかり治っていてケロッとしていた。チャンドラ・タルはやはり美しかった。前日みた時とは全然違っていた。体調がいいときに山を歩くのは最高に気持ちがいい。
 村越先生のケルンを建てている時、なぜか目頭が熱くなった。今回のメンバーの中で村越先生と過ごした時間は僕が一番短いかもしれないが、高校生の時にいろんな事を教わった事や、先生のホラ話を聞いて笑った事や、山で怒られた事…、様々な事が一度に記憶の中から浮かんできた。村越先生と一緒にインドに行きたいなぁ、と思っても、もうそれは叶わない。先生はもういない…。でも、チャンドラ・タルに来ればまた会える。そう思って涙を流すのをこらえた。
 今回はトレッキングも遅滞なく終わり、飛行機も無事に飛び、大きなトラブルもありませんでした。そのおかげでマナリの街をブラブラすることができたし、タージ・マハルにも行く事ができました。この海外初心者である自分がこうして無事に帰ってこれたのも、インドがものすごく好きになったのも、隊長をはじめとするすべてのメンバーの皆様や、サンジャイ氏、アルワリア氏、ボビー氏などのインドの友人達、森田先生をはじめとするアシュラムの皆様のおかげです。また近いうちに絶対にインドに行きます。その時はまたインドのおいしいお店や楽しみ方を教えてくださいね。
 

インド・ヒマラヤ旅行記     
                           村越 亘
 実は、昨年の夏にも僕は福田さんとインドに行っている。昨年の旅行中、福田さんと飲んだくれのマハラジャ旅行に満足しながらも、「早く日本に帰りてぇ」「もう二度とインドには来ないぞ」と、思ってた。でも、1・2ヶ月たつとその思いは忘れていき、しかもインド料理屋に行きインドへの懐かしさに慕っていたりもした。そんなことだから、「今年はヒマラヤに行こう!」という、福田さんの一声にOK!してしまった。
 デリーからマナリ行きのセスナ機は、ヒマラヤの山間を飛んだ。ヒマラヤの奥地に行くまでに、多くの山を窓越しに見ることができる。その緑多い山の中にも人々は生活していた。山頂から段々畑は続き、家々が建っている。「何故こんな僻地で生活しているんだ?」と感じるくらい、急な斜面にも家は建ち、段々畑は作られている。ヒマラヤ山脈では、どこに行っても人は生活しているそうだ(4500m以上にはいないが)。奥に奥に行っても人間が住んでいる。「こんな厳しい生活をしてまでここに住んでいる必要がどこにあるんだ?」とある人が聞いた。すると、「そんなことはしらん。昔から祖先が住んでいるからさ」と、村人は答えるという。デリーの人の多さやヒマラヤの過酷な地でも住む人々を見てインドの人口の多さを実感した。
 ヒマラヤの空はどこまでも青かった。山々に神を感じた。今年の2月になくなった親父も、どれかの山にいるんじゃないかと思った。見たこともない大きなワシが優雅に飛び、新雪を抱いた山や雪渓がこの青空によく映え、昔みた日本の北アルプスを思い出した。川から天空に向かってとげとげしくそびえ立つ絶壁の山肌が見られた。妙義山、谷川岳、いや、行ったことのないアメリカのグランドキャニオンの映像と重なった。なんと、高低差1000mはある絶壁が何十kmと続くのだから。
 道路工事(舗装工事)をしている人たちがいた。30人ぐらいの人が作業している。火を燃やし、石を焼き、手で棒を使ってかき混ぜ、手で運び、火が弱まれば油を入れ、ローラー以外はみな手作業であった。あやしい煙の中、真っ黒になって作業をしていた。私服で作業し、女性はサリーを身につけ、手袋はせず、安全靴どころか穴があいている靴やビーチサンダルの人もいた。時々煙でむせて「ゲーゲー」吐いている作業員もいて、日本の3Kなど比べものにならないほどすさまじい作業風景。道路工事している人はネパールからの出稼ぎが多く、1日70ルピー(約200円)で住み込みで働いているそうだ。住み込みといっても山中でのテント暮らしのようだが。
ブルーポピーを見た。幻の花。ヒマラヤにしかない花。ヒマラヤの中でも限られた場所にしか咲かない花。多くの人を感動させるという花。この花を見るだけのために諸外国からこの場所に人が集まるという花。エーデルワイスもたくさん見られた。日本でもこの花は咲くが、珍しい花で、この花を見るために多くの人が山中をさまようという。うーむ、どうも僕には人々を魅了するブルーポピーやエーデルワイスの魅力をさほど感じない。歴史の勉強不足か、それとも豊かな感性が足りないからか・・・。
4500mの木が生えない荒涼とした大地を歩いた。誰ともすれ違わず何時間も歩いた。大自然。すごいところだと景色を見わたしてしまう。今回の旅行で一番の目的のチャンドラタール(月の湖)は、やはり目から鱗が落ちるほど美しかった。エメラルドグリーンの湖面に白い砂は、バリ島のヌサドゥアビーチを思い出した。それに加え、特徴あるヒマラヤの山々が周りにそびえ立ち、この景色を見ていると、とてつもなく大きな生き物や、また、映像や漫画の世界だけだと思っていた生き物が現れてきそうな気がした。プロキノザウルスが空から舞い降りて来るんじゃないかと思った。この大自然を記録に残しておこうと考えてた。山に入ったら、ノートにたくさんのことを書こうと思っていた。見たもの、あったこと、感じたこと、思い出したこと、未来のことなど。でも、いっさい書かなかった。というより、書けなかった。
 高山病になり、それどころではなかったのだ。4000m以上のトレッキングでは、登りがきつく、息が苦しかった。持久走の時のように、強制的に呼吸をしていた。4600mの地点で昼食をとり、横になってうとうとしようと思ったけどやめた。浅見先生が言ったように死ぬかと思ったからだ。こんな荒い呼吸でボーとしている状態で寝たら、そのままずっと目が覚めないのではないかと恐ろしくなってしまった。歩いているときはさほど感じなかったが、休むと頭が痛かった。われるようにがんがん痛かった。誰かが高山病は二日酔いの感覚に似ていると言ったのを思いだした。うまいことをいう。その通りである。「歩いていればいいじゃん」と思うかも知れないが、そうもいかない。休むと何もかもおっくうになり、ずっと休んでいたくなった。食欲もなくなった。インド料理をほとんど食べれなかった。インディカ米やインド式カリーがでると、見ただけで吐きそうになった。平地では何ともなかったのに。絶食二日目に日本米のレトルト食品を食べた。うまかった。山菜御飯とみそ汁と梅干しだけだったのに涙が出るほどうまかった。何て日本はいい国なんだと思い早く日本に帰りたくなった。
 一時期、山男にあこがれたことがある。親父の姿や、熊谷トレッキングの人たちと触れ合うことにより、「海もいいけど山の人生もいいなぁ」と、考えたことがあった。でも僕は、3000m以上の山に登るのも、テントに泊まるのもほとんど初めてだった。不安だらけの旅行でもあったのである。夜テントで寝袋にくるまって横になった。テントに風が当たる「バシッバチッ!」という音がうるさくてなかなか寝付けなく、念のためと用意しておいた耳栓も役にはたたない。あきらめて防寒着を着て外にでると、夜空が美しかった。人工の灯りはいっさいなく、自然の星や月の光がまぶしい。それに、瞬きしながら、寒さに震えながら吸ったたばこがうまかったなぁ。
 テント暮らしでは、水道もなければトイレもない。大の方ももちろん大自然の中で行うことになる。僕は、いっさい紙を使わないでトイレを済ませた。誰でもそうだがウンコをすると安心する。日本にいる以上にここではウンコが健康のバロメーターになる。川の水でインド人のように、手と水を使ってきれいにした。始めは右手で洗っていたが、左手で洗うことを思い出し、次からは左手で肛門を洗った。手を川の水でよく洗い、まだぬれたままズボンをはく。次に手の臭いをかぐ。臭くない。まったく臭くなく、腹の中から異物が消えた爽快感はちょっとした幸せを感じる。この方法に一回で慣れた。そのことを福田隊長や浅見先生に伝えると驚かれた。「適応力早いねー」と。日本でするウンコは茶色なのに、インドでは黄色だった。適度の小川を捜しねらいを定め、大自然の中のトイレも気持ちがいいもんだなあと思ってしまう。断っておくが、日本ではふつうにトイレで用を足しています。「インドではまずウンコになれること」とお世話になった森田さんが言った。確かにその通りの国なのである。僕はインドを歩いて何千回ウンコを踏んだかわからないのだから。
山を歩きながらいろいろなことを考えた。桜木小2年2組の子どもたち、僕の教師像を振り返ってみたり、『なみのり(学級通信)』に載せる文を考えたり。また、日本の歌をつぶやいていると、福田隊長が、「日本の歌を聴きたくねぇ?」「はい」「さだまさしとか」「へぇ?」「ちょっとへん?」笑えた。それから家族のことや彼女のこと。日本にいる僕は、いつも何かしている。一分一秒を無駄にすまいとヤマアラシのように棘をつきだしてあわただしい暮らしをしている。棘を引っ込めているこんなにボーとしている時間が多くていいのか、ということも考えていた。何より、「早く帰りてぇー」ということを一番考えていたかな。
山羊や羊の群(多いときは三千頭)に幾度もあった。羊飼いはたいてい男二人で、小学校2年生くらいの子もいた。飴をわたすと喜んでもらってくれる。ふと、羊飼いたちは何を考えて生きているのだろうかと考えてしまう。電気も水道もない山に何ヶ月もいて、ただ山羊や羊たちを見守って歩き続けるだけの人生で。彼らは「あきる」という言葉を知っているのか。一ヶ月彼らと生活してみたら、僕はどう変わることができるのだろうか。 羊飼いの人が子羊を抱えている光景を目にした。大鷲などがねらっているから、夜も抱えて寝るそうだ。森田さんからネパールの山奥の羊飼いの犬の話を聞いた。雪ヒョウや熊がでる山では、土佐犬のようにがっしりとした犬が、獣におそわれても大丈夫なように分厚い鉄板の首輪をしているそうだ。その首輪が重すぎて、いつも頭をダラーンと垂らして真っ赤な目で上目遣いに人間をにらむという。いつかその犬を見てみたいと思う。
ヒマラヤにいて悟ったことがある。テントまでもう少しの地点。歩き疲れふらふらになりながら考えた。 
 『思い出とは、苦労して作るものである』
 待っていたら生まれない。自分で動き出すことにより思い出の数は増えていく。今回の旅行もいい思い出になりそうで。
 高学年を担任すると、4月のはじめに「思いでいっぱいの一年間にしたいです。」と言う子が必ずいる。では、口先だけでなく、辛いことにもたえ、逃げ出さず、がんばることができるのか、と言いたい。僕は一年間終わると、クラスの子全員に手紙をわたす。「思い出いっぱいの一年間をありがとう!」と。それは、がんばった自分自身への手紙かもしれない。
 マナリからデリーへの飛行機は結局飛ばなかった。朝8時から夕方6時まで空港内で待機した。何もすることなく、本を読んだりイギリス人やオーストラリア人やインド人と少しだけ会話したりして過ごした。飛ばないのなら飛ばないで早く決断してくれればいいのにー、と思いつつ、タクシーに乗り込む。タクシーは山間部の道を時速100kmでとばし、一か八かのかけのように車を追いこし続けた。車に乗ってて生きた心地がしないほどタクシー・ドライバーの運転は荒かった。そして、朝の4:30にデリーのホテルに無事?着く。「これもインドなのか」と思えばあきらめもつくが、大切な一日を棒に振ってしまったことはやはり悔しい。
 日本は豊かで住みやすい。水もうまいし食べ物もおいしい。インドに来ると、日本の豊かさを憎悪しながらも、その豊かさをありがたく思った。4000mの山では僕は走ることができなかった。酒を飲むことができなかった。満足に会話を楽しむこともできなかった。テレビをみたかった。仕事がしたくなった。パソコンをいじりたかった。日本のその豊かさをありがたく感じた。ひとたび、豊かさの恩恵に浸ったら、そこから抜け出すことができなくなることを実感してしまった。
 成田に着いて下山パーティー後、すぐSTD(公衆電話)に行き、彼女や家族に電話した。懐かしさと下山を喜んでくれる言葉とで、うれしくて声が震え、涙が出そうになった。
 
 帰国し一ヶ月、ヒマラヤに行って来たことを人に話すと、皆興味を持って「どうだった?」と聞いてくれる。僕は自慢げに、さぞベテランのようにヒマラヤの話しをしている。
 目を閉じれば、ヒマラヤの世界が広がってくる。仲間との会話も聞こえてくる。それは大切な思い出となって、いるのだろう。森田さんから、山のことをたくさん教えていただいた。森田さんの話はいつも楽しく、僕の好奇心を奮い立たせるものだった。いつか僕も、森田さんが話してくれた山々に行けるのではないかと思ってしまう。


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