U 基礎講座

「インド・チベットの歴史と密教」〈下〉 滝 沢 健 次

はじめに

1、仏教成立以前のインド  2、仏教の成立   3、密教の成立  以上前回

以下今回 

4、密教とは何か 5、曼陀羅とは何か (1)曼荼羅とは (2)胎蔵曼荼羅  (3)金剛界曼荼羅

6、後期仏教とタントライズム  7、チベット仏教 

8、ラダック・ザンスカール地方の歴史と仏教  9、ラダック地方の密教文化

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4、密教とは何か

4世紀以降になると、仏教教団はその儀礼の中に積極的にバラモン教やヒンドゥー教の儀礼を取り入れてゆき、またその根拠となる教典を生み出してゆきました。そのほとんどが現世利益的なものでしたが、民衆を引きつけてゆくためには現世利益的な呪法が不可欠だったのです。

ところが6世紀の終わりか7世紀の初め頃になると、これが少しずつ変化してきます。

仏教の儀礼を執行する目的が、現世利益だけでなく、精神的な安定を得て、正しい悟りを獲得することにも焦点が当てられることとなっていったのです。そして7世紀になって、さらに大きなうねりとして『大日経』『金剛頂経』が成立しました。この2つの教典には現世利益ではなくて、如何にしたら悟りが開けるのか、如何にしたら仏陀になることが出来るのかのいう問題が具体的に書かれたのです。これをもって本格的な密教の成立と考えられています。後の日本ではそれ以前の「雑密」に対比して、「純密」と呼ばれましたし、現在では「中期密教」という言い方もします。

この時期の中期密教教典は、従来の呪術的な儀礼や観法を、大乗仏教の思想によって意味付けを行って豊かな統一的世界観を完成させているところに大きな特徴がありました。

ここでは松長有慶の著書にしたがって密教の特徴を5点にわたって見て行きましょう。

第1は神秘主義であるということです。密教では理論でなくて、宗教的な体験を重視します。前に大乗仏教は「即身成仏」すなわち人は生きたまま現世において成仏できるとの

考えに到達したと申うしましたが、その根拠として密教では、自分自身の中に大宇宙を含んでおり、大宇宙の中に自分が含まれている、そして大宇宙と小宇宙との一体性を直観することが大切であるとされます。これは理論的に理解するのではなく、直観する以外ありません。これは「梵我一如」とか「煩悩即菩提」とかいう言葉で表されます。

また密教はなぜ秘密の「密」という言葉を使うのでしょうか。これは顕れた教えに対して秘密の教えという意味です。日本の空海は、秘密には二つの意味があると言っています。

1つは衆生の秘密(衆生の自秘)です。これはあらゆる所で隠されているものは全くないのに、衆生の主体的な条件が整わないために見るとこができず秘密になっていることを言います。いわば人間の自己の責任で秘密になっているということです。

もう1つは如来の秘密。仏が我々に隠して見せない秘密。我々の方がそれを正しく受け取り咀嚼する能力に欠けているとき、それは秘密とされます。

密教で言う秘密とは、いずれも仏が物惜しみをして悪意があって隠されているわけではなくて、こちらの側が能力に欠けるとき、それは秘密になっているのに過ぎないというのです。

空海の『秘蔵宝鑰』には「顕薬は塵を払い、真言は庫を開く」という文章があります。密教は外面的なことはさておき、ものごとの本質にまっすぐは入り込んでゆき、本来の姿をしっかりつかみ取る処に特徴があるということでしょう。秘密の庫の鍵を見つけだすためには、自己の目をおおっている鱗を取り去ることが最初に必要であり、そして徹底した自己改造が必要となります。そのために三密の行を行います。三密とは、身体は印契(いんげい)を結び、口には真言を唱え、心は三摩地(さんまじ)に住することですが、詳しくは後で述べます。

宇宙と自分の一体性を宗教的に体験をとおして身につけるということは、理論的に実現することは出来ません。これは直観の世界です。これを実現するものが瑜伽(ゆが)という方法です。瑜伽はサンスクリット語でyuga(ヨーガ)で、日本でもヨガと言われています。これは精神を一点に集中するという意味です。精神を集中して宇宙と自分の一体性を体験するということです。

第2点は、総合的な性格を持っているということです。

密教はその成立の過程で、インド以来のバラモン教やヒンズー教の宗教儀礼とか民俗宗教とか、あるいは日常生活の色々な規範というものをすっかり取り込んでいます。したがって極端な話、密教教典というものは医学もあるし、薬学もあるし、数学もあるし、我々がいわゆる科学だと思っているようなものが全部含まれている。あるいはその中に呪術的なものもかなり含まれているというわけです。曼荼羅の中には沢山の仏や菩薩がいますが、あのほとんどがインドの民間信仰の神様です。前に言いましたインド・キンノール地方の神様が、京都・三十三間堂にいるというのは、その故なのです。そういった包括的であり、包容的であります。

しかし包括的であると同時に雑然と取り込んでいるのではない、純化されているということが特徴です。包み込んだものを仏教思想によって意味づけている、思想化していると言っても良いと思います。

例えば密教では護摩という儀礼を行います。これはバラモン教の生け贄儀礼、動物を生け贄にして神に捧げる儀式から来ているわけですが、これを密教では護摩を焚くことによって人間の煩悩を焼き尽くすのだと説明します。同じように儀礼の仏具として五鈷・三鈷を使います。これらは元来古代インドの武器ですが、密教では五智・五仏を表すとか、三密を意味するとか意味付けをされています。

さらに曼荼羅の神々はみな古代インドの神を取り込んだものですが、密教では多くの神は大日如来の分身であるという風に説明されます。このようにして豊かなで統一的な世界を作っています。

第3は象徴的な性格を持っているということです。

仏教の教典に中でも絶対の真理、いわゆる悟りの境地というものはなかなか表現できないことです。前にも述べたことですが、仏陀が菩提樹の木の下で瞑想して悟りをひらいた時に、悟りの内容を他の人に伝えることに絶望したと言います。我々は日常用語として「言語道断」という言葉を使いますが、これはもともと仏教用語で、言葉の働きが絶えた、言葉では言い表せないという意味だそうです。

また前に大乗仏教は、歴史上の仏陀(色身または応身)の他に、真理そのものを仏陀と見る仏身(法身)を創り出したと申しました。7世紀に成立した『大日経』『金剛頂経』は宇宙の真理そのもの、永遠なる法を体現したものとして『大日如来』を創り出しました。大日如来は宇宙の真理そのものですから、有限性を超えていて特定の性格を持つものではなく、我々の認識を超えた存在です。

大乗仏教では法身は我々に何も語らない、という常識を持ってきました。しかし、空海は中国から帰った直後『弁顕密二教論』の中で、「果分可説」ということを言い出したのです。果分というのは絶対の世界、仏の世界のこと、「果分可説」とは絶対の世界は我々に説くことが出来るのだということです。ではどのように我々に説くのか。空海は『請来目録』の中で、「密蔵深玄にして翰墨にのせがたし」「さらに図画をかりて悟らざるに開示す」、密教は奥が深くて文字には表せない、しかし図画をかりてまだ悟っていない者に開示することが出来るのだ、と言っています。そしてその後に自分が中国から持って帰った仏具や曼荼羅のリストを並べています。空海はまさに仏具や曼荼羅をシンボルとして仏の世界を伝えることが出来るのだ、と言っているのです。

したがって密教は仏具や曼荼羅に大きな特徴を持ち、また儀礼も大切にします。儀礼の形、姿、動き、そういったものが何かを象徴的に表そうとしています。そして象徴を通じて何かを訴えかけて行くという方法であるわけです。

第4の特徴は救済の宗教であるということです。

密教というのは自力本願か他力本願かというと、自力でもあり他力でもあると言うことが出来ます。密教の成仏というのは即身成仏であり、即身成仏というのは今生きている世界で成仏できるという考え方です。その根拠は、自分自身の小宇宙そのものが大宇宙であるという考えに求められます。凡人である自分自身が見方を変えると仏であるということ、現実の体そのものを完成体、即ち仏であると見るということです。

即身成仏を達成するためには三密の行を行います。三密の行とは身(しん)・口(く)・意(い)のことです。これは身体は印契(いんげい)を結び、口には真言を唱える、心は三摩地(さんまじ)に住することだとされています。

印契はよく忍者がやるように手を様々に組むことを言い、これ自体が宇宙を表すとされます。お寺に行くと様々な仏、菩薩像がありますが、それらは姿形を異なるように手に結んでいる印契も違います。印契はサインのように見えて、本質的には宇宙精神のシンボルであって、それ自体が生命を持っています。これを結ぶことよって自分自身が仏であることを自覚するに至るのです。真言宗のお葬式に行ってよく見ていると、和尚さんは衣の袖で隠しながら印契を結んでいます。

印契が形として真理を凝縮したものであれば、音を集約したものが陀羅尼(だらに)あるいは真言です。我々がインド・ヒマラヤを旅すると、街角で老人たちが座り込んで日向ぼっこをしながら、マニ車を回して「オム マニ ベメ フム ‥‥」と唱えています。また京都の仁和寺に行きましたら、本堂の前に木札があってこのように書いてありました。「阿弥陀如来・真言 おん あみいた でいぜい からうん」と。これが真言です。

古代インドでは、真実の言葉は魔をよせつけない力を持ち、幸運をもたらすと信じられていました。古代の叙事詩にはたくさんの攘災の話が登場します。また日本でも『古事記』などには「言霊(ことだま)信仰」と呼ばれるものが見られます。言葉自体に不思議な威力が備わっているという信仰は、洋の東西にかかわらず古代の人々の間で持ち続けられてきたのでした。

真言には本来意味のあるものと、もともと意味を持たず風の音とか、鳥の鳴き声をそのまま取り入れたようなものなどがあります。本来はサンスクリット語で発音されたものが、音だけ中国の漢字に直され、それを日本の音で読むものだからまったくの呪文になってしまっています。しかし「顕薬は塵を払い、真言は庫を開く」と言った空海の言葉の通り、口に真言を唱えることは、即身成仏を遂げるためには大切なことなのです。

次は、心は三摩地に住すということです。三摩地とは、三昧とも言います。「読書三昧」と言うときの三昧で、精神を集中するということです。そのために瑜伽(ゆが)を行います。瑜伽とはyoga(ヨーガ)のことです。

こうして三密の行は行われます。これが行われると仏の方からの加持力(かじりき)が加わってきて、そうして成仏が完成するのです。

第5の特徴は現実重視の宗教であるということです。

密教というものは本質的に現実世界そのものが理想世界であると考えます。大乗仏教は煩悩即菩提と言いましたが、密教はこれを極端に突き詰めてゆきました。そして小宇宙そのものが大宇宙であって、大宇宙そのものが小宇宙であるとする。浄土というものは西方極楽世界にあるものではなくて、現実の世界そのものが浄土なのです。

大乗仏教というものは俗を離れてはいけない、むしろ現実に生きている人たちそのものを救い出さないといけないと教えました。基本的には俗を断ち切って非俗の世界に生きながら、もう一度俗に帰って来なければいけない。利他行ということも言います。密教はこれを強調するのです。

密教教典『大日経』に「方便を究境(くきょう)とする」という言葉があります。方便とは現実世界における活動ということ、現実世界に働きかけることが究極の目的だ、密教の理想だ、と言っているのです また即事亦真(そくじにしん)ということも言っています。したがって歴史的にも密教の僧たちは社会事業へ挺身してきました。空海は四国・万濃池を建設したと言われていますし、鎌倉時代の叡尊、忍性なども社会事業に活躍しました。

以上、密教の特徴を5点にわたって述べました。

5、曼荼羅とは何か

(1)曼荼羅とは‥‥‥

7世紀に成立した『大日経』『金剛頂経』は曼荼羅を創り出したところにもう1つの思想的意義がありました。

曼荼羅には4種のものがあります。第1が「大曼荼羅」です。これは形を持った曼荼羅、仏や菩薩などが集合したもので、我々が普通言う曼荼羅がこれです。2番目が「三摩耶曼荼羅」。五鈷、三鈷の仏具などシンボルによる曼荼羅です。第3が法曼荼羅。梵字で書いた曼荼羅で、文字の持つ奥底の意味をつかみだした時の曼荼羅とされます。第4が褐磨曼荼羅。これは動くもの、立体的なものによる曼荼羅です。そよぐ風、小川のせせらぎ、瞬く星、月など森羅万象、宇宙そのものが曼荼羅です。

ここで曼荼羅の意味を考えるのは、主として第1の「大曼荼羅」中心に考えましょう。曼荼羅とは何か。曼荼羅というのは、サンスクリット語の「マンダラ」の音写です。「マンダ」という言葉はもともと本質とか飾りという意味、「ラ」とは「‥‥‥をもつもの」という意味ですから、マンダラは本質、仏の悟りの本質を表すということになります。

曼荼羅は当初、壇、道場、本質を備えたもの、丸い形をしたものなどの意味を持っていました。原初的な形は土でこしらえた壇で、天上にいる神が司祭の祈願に応えて降臨する場所だったのです。このようなバラモン教、ヒンズー教の儀礼が、5世紀頃には仏教にも取り入れられました。7世紀半ばまでには整備された土壇の作法が、密教の中で完成しています。『大日経』などにはその形で出てきます。それが壁に書かれ、紙に書かれて、今私たちが東寺やラダックでみる曼荼羅となったのです。

曼荼羅はインド世界では失われてしまいましたが、チベット系の曼荼羅はインドの原型に忠実であると考えられています。それは古代インド人が考えた世界の断面図であり、単なる諸仏の集合図ではなく、大宇宙の象徴的な表現であると見なされています。仏やその持物などがある一つの論理をもって配置せられた聖なる空間であり、それぞれが宇宙の全体あるいは一部を象徴したシンボルの配置図になっているのです。

(2)胎蔵曼荼羅

胎蔵曼荼羅は、正式名を大悲胎蔵生曼荼羅(だいひたいぞうしょうまんだら)といいます。母親が胎児をいつくしみ育てるように、仏が大悲によって衆生の苦しみを救う精神を絵にしたとされます。また仏の慈悲によって、人間が本来持っている菩提心の種子を目覚めさせ、育て、花咲かせ、悟りという実を結ばせるその課程を描いたのが、胎蔵曼荼羅であるとも言われます。

その構造は、真中に大日如来、周辺に大乗仏教の中で人々の信仰されていた仏、菩薩が多数取り入れられ、最も外側の枠には、星宿神、ヒンズー神などまで400もの仏、菩薩、諸天が描かれています。宇宙の森羅万象ことごとく包含するという意味から、胎蔵曼荼羅は極大の世界と考えることも出来ます。

(3)金剛界曼荼羅

金剛界曼荼羅とは、ダイアモンド(金剛)のように永遠に壊れることのない堅固な悟りを本体とする曼荼羅という意味です。この曼荼羅は9のセクションに分かれているために、九会曼荼羅とも言われます。九会のうち中央に位置する成身会(じょうじんえ)が、この曼荼羅の中心をなします。

金剛界曼荼羅は胎蔵曼荼羅で包摂された400余りの仏、菩薩、明王、諸天などを、大日如来を取り囲む四仏を中心に三十七尊の密教独自の仏、菩薩に集約し、整理している所に特徴があります。三十七尊は、何らかの意味で宇宙を象徴するものですが、全体を小さなスペースに集約しており、主体的な側面を象徴しています。

6、後期密教とタントライズム

密教は7世紀に『大日経』『金剛頂経』を成立させ、曼荼羅を生み出して、本格的密教へと成長しましたが、8世紀以後はヒンドゥー教の影響を強く受けて変質していきました。

この時期の密教を後期密教と呼んでいます。

ヒンドゥー教の聖典にタントラがあります。タントラは思想・哲学を説くものではなく、修業のための実践の道、修業のしかたを明らかにしたものです。後期密教はこのタントラの影響を示し始めます。

ヒンドゥー教のタントラ主義は、徹底して自己の本源にかえろうとするあまり、さまざまな非倫理的、反道徳的な行為を悟りの道としてすすめました。神秘主義的宗教は自己と絶対的な存在との一体化をめざしますから、いっさいの社会的規範はかえって束縛となる。脱社会を願う行者には、反倫理的、反社会的な行為はすべて許されるということになります。日本の「オーム真理教」の組織的犯罪を見てもわかるでしょう。

タントラ主義者は「五摩事」という儀式をしました。五摩事とは酒、魚、肉、煎った穀物、性交の5つのものを用いた儀式です。それが悟りへの道として示されるのです。このタントラの影響を受けた密教は、人間の排泄物を飲食したり、墓場で修業したり、女性の行者と交わるなど、通常社会では顰蹙を買う行為を修業として実践しました。このような後期密教のことを左道密教と呼ぶ場合もあります。

このような傾向はヒンドゥー教であれ、仏教であれ、ジャイナ教であれ、中世のインド社会では盛んに行われたのです。現在もカジュラホなどの寺院彫刻は性的な表現で有名で、これに対して俗な解釈が行われていますが、これらはタントラ主義的ヒンドゥー教の表現として解することが出来ます。このタントラ主義は、その後中国にもまた日本にも伝わったようですが、定着することは出来ませんでした。チベットにも後伝期に伝えられています。

このようにしてインドの密教は変質し、次第にヒンドゥー教に呑み込まれてしまいました。現在のインドでは80%がヒンドゥー教徒で、仏教徒は北インドのチベット文化圏にチベット系住民の信仰として残っているに過ぎません。そしてここが我々が訪問する地なのです。

7、チベット仏教

チベットは現在は中国に併合されていますが、もともと独立国です。また本来のチベットの範囲も現在よりもだいぶ広くて、今の北西インドまで含んでいました。

チベットに統一国家が形成されたのは遅くて、7世紀のことでした。その頃はインド仏教の中では密教が非常に優勢であったために、チベットは密教を素直に受け入れたのでした。7世紀に仏教を受け入れたチベットでは、9世紀中頃、崇仏派と排仏派とが激しく争いました。こういうことは国家形成期にはよくあることで、日本でも5世紀に崇仏派(大王家・蘇我氏など)と排仏派(物部氏など)とは争います。日本では崇仏派が勝利して中国的な律令制に一歩近づくのですが、チベットでは排仏派が勝利しました。その結果チベット中心部では激しい廃物運動が起きて、寺院は壊され、多くの仏教者たちは西に東に逃げ延びなければならなかったのです。この時に仏教者の一部が避難した一地方が、当時の西チベット、現在の北インドのヒマーチャルプラデッシュ州やその周辺だったのです。この地方は大ヒマラヤ山脈の奥地ですから、その後他民族からの大きな侵略を受けることなく、密教の信仰を守り続けてきたのです。高野山大学の松長有慶をして「密教文化のタイムカプセル」と言わしめた所以です。

その後11世紀の終わり頃になって、西チベットに非常に優れたエーシェーウーという王が出ました。王は仏教再興のために特にエリートを21人を選んで、インドやカシミールに送り出しました。インドには当時ナーランダという立派な大学があったし、カシミールも昔から大乗仏教が盛んに行われていたのです。そしてその学生たちが西チベットに帰ってきて、新しい仏教を伝え、仏教復興ののろしが上げられました。ここで復興した仏教はその後チベット中央部にも広まって行きました。ですからチベット仏教復興の発祥の地は西チベットであり、そのお陰で11世紀以降中央チベットでも仏教が力を盛り返していったのです。

8、ラダック・ザンスカールの歴史と仏教

さて、96年夏私たちのグループは、北インドのラダック・ザンスカール地方のトレッキングを試みました。この地方について少し詳しく見てみましょう。

前にも言った通り、チベットが中国の自治区になり、その一部がインド領に分割される以前、この地方はチベットの最西端に位置し、完全なるチベット文化圏に属していました。中国とインドの国境紛争により、チベット本国と完全に切り離された現在も、チベット文化と仏教を保ち続けているために「小チベット」と呼ばれています。

7世紀チベットに伝わった密教は、その後ますますの興隆をみますが、9世紀に入ってランダルマという王によって徹底的な破仏にあいます。首都にいた高僧たちは難を逃れてチベットの東西に散りました。高度が一番低い土地でも3500Mを超すラダックやグゲといった西チベットに、高僧がやってきたのはその事件によるのです。つまり辺境のラダックには、チベットの中心であるラサに仏教破壊の運動がおきたことによって、逆に高度なチベット仏教が伝わったという歴史の皮肉を持っています。

ラダックに王制が始まったのは10世紀の終わり頃のことです。ニマゴンという王が勢力を持っていましたが、その王には3人の息子がおり、長男にはラダックを、次男にはグゲ(中国領)、3男にはザンスカールとラホール、スピティ地方を与えたと言われています。その後いく代か王が立ちましたが大きな勢力を持つことは出来ませんでした。

11世紀になって、チベット仏教の興隆はこのラダックを中心としたに西チベットから興りました。これは当時の王によって実現するわけですが、とくにこの立役者となったのは、西チベット出身のローツァワ・リンチェンサンポという僧でありました。ローツァワとはチベット語で「翻訳官」と訳される通り、彼は生涯多くの密教教典と論部をチベット語に翻訳し布教につとめ、西チベットに108の寺を建てたと伝えられます。ラダック・ザンスカール地方の各地に彼が創建した仏教寺院とその痕跡が残っていて、今も見ることが出来ます。

15世紀頃、この地方はデ王とタクパ王によって支配されました。デ王は熱心な仏教徒であり、ラダックの中心地、レー周辺に多くの寺院と仏塔を建造したと伝えられます。

デ王の長男、ロードチョクデン王の代になると、ラダック王国はますます繁栄して勢力圏を拡大して、グゲの領主達も盛んに貢ぎ物を持ってやって来たらしいのです。

次の王であるラチョンバガン王はタクパ王の孫で、ラダック王国の第二王朝であるナムギャル王朝の創始者となります。この王の2人の息子であるラワンナムギャルとタシナムギャルは王位継承の争いを起こし、弟のタシナムギャルが兄を追放して王位を継ぎました。

この王の治世にトルコ民族が侵入します。1500年頃のことです。王はトルコ軍を撃退してかろうじて王国を守りましたが、次の王、ツェワンナムギャルの弟、ジャムヤンナムギャルの時代には西方からやってきたイスラム軍に敗れ、王国は一時崩壊の危機に立たされました。しかし王はイスラム教化したバルチスタンの姫君であるギャル・カトゥンを王妃に迎えることで危機を乗り越えました。

パキスタンの支配者であるアルミール王の目的は、自分の姫をギャムヤンナムギャルと結婚させることで、ラダック地方をイスラム教化する事でありましたが、皮肉なことに2人のあいだに生まれたセンゲーナムギャル王は、ラダックの歴史の中でも、最も仏教に熱心な王に成長し、国も繁栄しました。ヘミス・ゴンパ(寺)やバスゴー・ゴンパの弥勒堂が建てられたのもその頃のことであり、レーの中心にある9層の王宮を建てたのもこの王でした。16世紀から17世紀にかけてのことです。

現在ラダック・ザンスカール地方の仏教寺院に、早い時期のリンチェンサンポ様式のお堂と、その後のナムギャル様式のお堂が併存しているのは、このような歴史の反映であると言えます。

さてその後、17世紀のチベット本国に、ダライラマ5世を中心とするゲールック派という仏教宗派の政権が出来ると、仏教の新旧両派による争いが起こり、その争いの中にラダック王家も巻き込まれてしまいます。17世紀末、デーレクナムギャル王の時、チベット本国を経由してきたチベット・モンゴル連合軍に、ラダック軍は敗れてしまいました。王はカシミールのムガール王国に応援を頼むと、イスラム教に改宗しろと迫られ、それを断るとチベットから圧力をかけられる矛盾の中で何とか王国保ち、19世紀始めまでラダックのナムギャル王朝は続きます。

しかしその後ラダック王国は、シク教徒であるドーグラ族のグラブ・シンというインド人に侵略され、その闘いに敗れて1830年に独立王国の地位を失いました。しかしその国王はその後も事実上の藩主としての地位を失わず、1947年のインド独立までは、日本の4分の1もある広大な領地を保持していたのです。ラダック最後の国王クンザン・ナムギャルは、1974年まで生存していました。女王は今も健在とのことです。

中国・インドの国境紛争が起こると、文化的・歴史的には完全にチベットに属しているにも関わらず、ラダック・ザンスカール地方はインドに切り取られ、1975年まで外国人の入域は禁止されていたのです。

しかし険しい地理的条件とその閉鎖のお陰で、仏教の発祥地であるインド中央部、中国やチベットで消滅してしまった絢爛たる仏教文化が、このヒマラヤ奥の辺境の地に奇跡的に残されることとなったのです。それは仏教と密教の発展史のタイムカプセルのような意味を持つと言われています。

ラダック地方の中心地レーには、ゴーストタウンのように宮殿が寂しく建っていますが、カルギルからトラックで2日の、さらに山奥にあるザンスカール地方には、現在でもナムギャル王朝の末裔が代々家を継いでいます。ザンラに住むナムギャルディ王とパダンに住むタシ・ナムギャル王です。2人は現在、庄屋のような役を担っているようですが、村の人たちは、2人を「キング」として大切に扱っているそうです。人口5ー600人の村の王様はまるでおとぎの国の王のようです。

9、ラダック地方の密教文化

以上見てきたように、ラダック・ザンスカール地方は「密教文化のタイムカプセル」と評価されている地域ですが、ここに注目した高野山大学の松長有慶らは、この地域の仏教文化の調査を計画します。そして、外国人が入れるようになった直後、1977年からのことです。この調査には毎日新聞の記者・佐藤健も同行し、後で報告を出しています。そして同じ頃、インド在住の我らが森田千里さんもこの地域に入ったのです。

統一国家が創られたのはもっと遅いのですが、スピティ・ラホール・ラダックは古来「グゲ3国」といわれ、カシミール方面からシルクロードの質の高い文化が伝わり、インド本国からも文化が伝えられた地域でした。その点では中央チベットよりも古い文化蓄積があるわけです。

松長らの報告によれば、この地方の仏教寺院には2つの様式があります。

第1は前期の11〜13世紀の古い小さなお堂です。松長は「リンチェンサンポ様式」と呼んでいます。この寺院の特徴は、平地にあること、カシミール・中央アジアの美術の影響があることです。密教のチベット的特徴は出ていないで、忿怒尊は見られません。寺の堂の内面に曼荼羅が描かれ、行者が一人でヨーガをして瞑想のためのお堂であると考えられます。

これらのお堂は古いだけに、それだけ本格的なインド密教がストレートに入り込んでおり、それがよく残された様式と言えます。リンチェンサンポはラダック・ザンスカール地方に合計108もの立派な寺を建立したと言われています。

第2は後期の15世紀以後の堂です。これはナムギャル王朝以後の建設のものです。「ナムギャル様式」と呼ばれています。この様式の特徴は、比較的大きな堂であること、チベットや中国の密教の影響が強いことです。大きな堂は僧たちの修業の場であり、生活の場であったようです。50人以上、多いときには300人の僧がいたと思われます。堂の壁には曼荼羅として忿怒尊や男女合体図などが描かれています。

ラダック地方のの曼荼羅の特徴は、胎蔵曼荼羅は極めて少なく、金剛界曼荼羅が中心であるということです。曼荼羅は堂の壁や天井一面に描かれ、仏像が立体的に配置されることも多いのです。。

後期密教の影響を受けたものは、日本のものとは違う曼荼羅も多く、別の種類のものが10種も見られます。日本の曼荼羅は9のセクションがセットになっていますが、ラダックのものは一つづつ独立しています。また、中心仏も大日如来ではなくて別の仏が中心になっている場合が多いのです。その場合には結んでいる印契や色などで判断せざるを得ませんから、素人には難しいと思われます。

ラダックの古い寺院の壁画は中央アジアの影響を強く受けています。昔からカシミールやシルクロードの文化はまず西から入って来ていたからです。レーの郊外のアルチ寺の壁画もまさに中央アジア的香りを漂わせています。ネパール中心部のものは土族臭さのようなものを感じさせまずが、ラダックのものはもっと中央アジア的、ヨーロッパ的なものを感じさせます。

〈参考書籍〉

1、歴史に関するもの

@『生活の世界史5 インドの顔』 辛島昇著 河出書房新社

A『中央アジア史』 江上波夫著 山川出版社

B『岩波講座 世界歴史3,6,13 』 岩波書店

@はインドの原始古代から現代までを扱って、わかりやすい本です。

2、仏教に関するもの

C『ブッダ物語』 中村元ほか 岩波ジュニア新書

D『密教』 松長有慶著 岩波新書

E『密教とはなにか 宇宙と人間』松長有慶 中公文庫

F『般若心経・金剛般若経』 中村元ほか訳 岩波文庫

Cは中学・高校生向きですからわかりやすく書かれています。Dも密教とは何かを分 かりやすく解説しています。Eは講演の記録です。

3、ラダック・ザンスカール地方に関するもの

G『マンダラ探検』 佐藤健 中公文庫

H「天空の王国・ザンスカール」『神秘のインド大紀行』 NHK取材班 NHK出版協会

I『ラダック 密教の旅』滝雄一・佐藤健 校正出版社

J「ラダック地方におけるリンチェンサンポの遺跡の調査報告」松長有慶

『密教文化』129号 高野山大学

Gは松長らの調査に同行した佐藤健の報告です。佐藤は熊高の卒業生で、同校百周年 には来て面白い講演をしました。Jは松長らの調査報告論文です。ザンスカールの寺 院の実測図などがあり興味深いものです。