U 基礎講座
「インド・チベットの歴史と密教」〈上〉 滝 沢 健 次
1、仏教成立以前のインド
(1)インドへの民族移動 (2)インダス文明
(3)アーリア人のインド侵入 (4)バラモン教
2、仏教の成立
(1)十六大国時代・マガダ国 (2)仏陀のなやみ
(3)仏陀の悟り (4)仏陀の布教
(5)仏陀死後の仏教の発展 (6)大乗仏教
3、密教の成立
(1)インド社会の変化 (2)ヒンドゥー教の成
(3)密教の成立
以上今回
以下次回 4、密教の特徴 5、曼荼羅とは何か 6、ラダック・ザンスカール地方の密教文化とゴンパ(寺)
この小論は熊谷トレッキング同人の学習会で『インド・チベットの歴史と仏教・密教・チベット密教』と題して行った、2回のレポートに加筆したものです。
はじめに私たちがインド・チベットの歴史と密教に、とりわけチベットの歴史と密教になぜ関心を寄せるのかという点について話しましょう。私たちの同人がこの間トレッキングを目的として訪れているのは、北インド特にヒマーシャル・プラデッシュ州、ジャムカシミール州です。この地域は大ヒマラヤ山脈が西に行くに連れて北に大きく入り込んでいて、西はパキスタン、北は中国、東は中国・ネパールに接しています。このあたりは、インドといっても、民族的宗教的には非常に複雑で、イスラム系、チベット系住民が入り交じっています。そのためカシミール州ではイスラム系住民のインドからの独立問題が起きていて、治安が悪く、外国人は入りにくくなっています。
私たちがトレッキングの基地としているマナリの街と周辺地域は、チベット系住民が多いのです。この地域からもっと北の地方については、山脈を隔ててチベットつながっているわけですから、歴史的に古くからチベット系の人たちが住んでいました。また近代に入ってからも中国のチベット併合、ダライラマのインドへの亡命、中国の文化大革命などによる難民がインドに入って来ていますから、ますますチベット系の人たちが増えたというわけです。そしてこの人たちの言葉はチベット語を話し、チベット仏教を信仰しています。文化的には、チベット文化圏といって良いと思います。
今、チベット仏教と申しましたが、これは密教の一種で、かつては「ラマ教」という呼ばれ方をしました。ラマ教の「ラマ」は、「ダライラマ」の「ラマ」と同じで、仏教上の指導者、活き神、師匠という意味です。近代にチベットに入ったヨーロッパの探検家たちがチベットに根付いている仏教をこう呼んだのです。しかし、地元の人は誰も「ラマ教」などとは呼びませんし、多分に蔑視的なニュアンスがあるために、現在は多くの人が「チベット仏教」と呼んでいます。
このチベット仏教は密教の仲間ですから、日本の真言密教、天台密教と兄弟の関係にあります。この点でも非常に興味深いものがあります。
こんな事がありました。1993年5月、マナリ在住の森田千里さんとインド北部・キンノール地方出身のネギさんが京都・三十三間堂へ行かれた時、ネギさんがキンノールの神様がいると言ってある仏像を指したそうです。それが「緊那羅(きんなら)王」です。写真で見ると、胸の前に太鼓を抱えた怖そうな神様です。
また94年5月、私が上野の国立博物館で開催中の「法隆寺展」を見に行ったら、法隆寺に伝わる「緊那羅」の面が出展されていました。
広辞苑には「緊那羅」について次の記述があります。「仏教用語。(梵語 Kinnara 人非人、歌神と訳す)八部衆の一。美妙な音声で歌舞する天の楽神。その形は人に似るが、神、人、畜生のいずれとも言い難い。」
インド・キンノールの神が日本にいる、しかもその名は「緊那羅」、これはどういうことでしょうか。これはまさに日本に至った密教の伝来の歴史そのものの問題です。ここにはキンノールの神が仏教・密教に取り込まれて、インド→チベット→中国→日本と伝えられた密教の足跡を見ることが出来ます。私達がインド、チベットの歴史と密教について学習することは、古代以来のインドと日本のつながりを知ることであり、日本を知ることに通じます。
以上が私たちがインド・チベットの歴史と密教に関心を抱く主な理由です。
(1)インドへの民族移動
インドは地球上で最も歴史の古い地域の1つで、その最初の頃の歴史は考古学的な遺跡も少ないし、まして文献もありませんから、主としてその言語の分析から歴史を解明しています。それはちょうど日本人はどこから来たのかを、言語や化石人骨の特徴から解明するのと同じ手法です。
インド亜大陸には最初にチベット・ビルマ系の言語グループが住み着いたと考えられています。彼らはインドの北部に住ついたと考えられます。
次にオーストロ=アジア系の言語グループが住みつきました。このグループは後に移動してきたグループに同化され、または山中に追いやられました。この系統とされるクメール民族の代表的文化とされるのはカンボジアのアンコール遺跡です。彼らの文化に特徴的なモチーフは種々の蛇の文様などで、これらのモチーフはその後の様々なインド・東南アジアの文化に引き継がれて、繰り返し現れています。
次にインドに現れたのが、ドラヴィダ系言語グループです。彼らは西アジア、地中海沿岸地方からインドに入ってきたと考えられます。ドラヴィダ系言語は今日も北インドのガンジス河の流域に残っています。ただし今のドラヴィダ人は南インドの集中しています。この事については後にインドの入ったと言われるアーリア人に押されて南インドに移動したとか、海路を直接南インドに入り定着したとか、いくつかの意見がありますがはっきりしません。とにかくこのあたりは未解明な部分が多いのです。このドラヴィダ系グループがインダス文明の担い手であったと考えられています。
次にインド亜大陸に住み着いたのは、インド=アーリア系グループです。彼らの進出は BC(紀元前)1000年頃ガンジス河の流域に進出して来たと考えられています。彼らはBC2000年紀(BC3000-2000年頃)にロシア南部にいて、BC2000年頃インド系とイラーン系に分裂し、移動を開始しました。移動を開始したと言っても1000年単位のことですから気候変動などに影響されて、より生活し易そうな土地に徐々に移り住んだと言うことでしょう。彼らはロシア南部からカスピ海北辺へ、そこから東部イラーンを経てアフガニスタンへ。そしてそこからインド・パンジャブ地方には入り、最後にガンジス流域へと進出しました。BC1000年頃と考えられています。そしてその地に農耕社会を出現させました。これにつれて、ドラヴィダ系は徐々に南部に移動したとの説があることは先に述べました。
アーリア人の最も重要な財産は牛であり、農産物としては大麦の栽培が中心であったようです。
(2)インダス文明
BC3000年頃、日本では縄文時代ですが、インド西部・インダス河の流域やその西方のパキスタンの丘陵地帯に青銅器をともなう農耕社会が出現しました。これがインダス文明と言われるものです。どうしてこの地方に文明が起きたのかというと、ここにある種の農耕文化が成立し、そうした先行文化におそらくは西方世界のなんらかの刺激、例えばメソポタミアの文明などの刺激が加わり、新たな青銅器を伴うインダス文明を出現させたと考えられます。
インダス文明は、BC2000年を中心にした数世紀、BC2500-1700年頃に栄えた都市文明中心の文化です。遺跡としては、今はパキスタン領でインダス河流域のモヘンジュダロ遺跡、上流のパンジャブ地方ハラッパー遺跡などが有名です。これらは1920年に発見されました。その後の発見としてデリーに近いガリバンガン、アーラムギーブル遺跡などが知られています。これらの遺跡の遺物はデリーの国立博物館で見ることが出来ます。
インダス文明は、南はキャンベイ湾岸まで及びましたが、しかしガンジス流域までは及ばなかったのです。この文明とメソポタミアの文明は主として海上を通じて交渉があったことが指摘されています。
このインダス文明の担い手としては、ドラヴィダ民族が考えられています。それはインダス文明の印章の文字などから想像されているのです。
インダス文明はBC1800-1700年頃滅亡してしまいます。原因は不明ですが、従来はアーリア人の侵入によって破壊されたとするものが有力でした。しかし現在ではインダス河の水位の変化、流路の変化が原因で都市が放棄されたとする意見もあります。
インドには古来、地母神信仰がみられます。生命の豊じょう、宗教的沐浴の風習、樹木信仰などで、これはアーリア人にはないし、後の「ヴェーダ」にも有りません。これらは古くインダス文明に素朴な像を見ることが出来るのです。インダス文明は現代インド文化の中に生きていると言っても良いと思います。
(3)アーリア人のインド侵入
前にも言った通りBC1000年頃、アーリア人はガンジス河の上流域に到達し定着します。彼らはここで部族を単位として社会を構成し、牧畜農耕を行い、領域国家を建設しました。主として牛、羊、馬の牧畜をして、農耕では大麦の生産をしました。牛がもっと大切な財産でした。
そしてこの間アーリア人の間では、部族の闘争が行われ、指導者として祭司としてのバラモン達の指導的地位が高まり、カースト制の原形が成立していったと考えられています。彼らの生活の規範であり、神話的歌謡である「リグ=ヴェーダ」の成立はBC1200-1000年頃です。バラモンの指導、カースト制度、「ヴェーダ」を基本とする生活は、宗教的にはバラモン教と呼ばれます。これ以後 BC6C.の仏教、ジャイナ教成立まで約600年間を「ヴェーダ時代」呼んでいます。
森田千里さんの講演(八木橋・「手づくりのヒマラヤ旅行」第三集 所収)では、北インド・キンノール地方の「おみこし教」はヴェーダ以前からキンノール地方のあったものと思われる、と述べています。またその他にもインドの地方には「ヴェーダ」以前からの文化と考えられる物があります。そうだとするなら、アーリア人の侵入以前の物、オーストロ=アジア系またはドラヴィダ系のものと考えられます。BC1000年よりも古い起源をもつ祭が今に生きているという事です。つくづくインドは広いということを感じます。
アーリア人はそれ以前から住んでいた人々を征服し、隷属民にしていきました。そうしてバラモン達の指導、カースト制、「ヴェーダ」に基づくバラモン教社会、インドの初期の社会文化が生まれて行ったのです。BC800年頃には、鉄器の使用も行われ、周辺地域への開発が進められて行きました。
(4)バラモン教
バラモン教は、生活の規範でもある「ヴェーダ」をすべて天の啓示によるものと解して絶対視し、永遠の存在として尊重しました。BC500年頃までに成立しました。
そしてブラーフマナを最高階級とするカースト制度(4姓)を厳守し、祭祀を中心に、農村社会に堅い基盤を築いたのです。その哲学分野では「ウパニシャド」の梵我一如の説が有名です。これは宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と、人間の本質であるアートマン(我)との探求が深められ、ついに一致するということを説きました。この考え方はバラモン教からすれば非常に進歩的な思想であったと言えます。
バラモン教は後に俗信や伝誦を交えてヒンズー教となりました。また仏教やジャイナ教もバラモン教の中からバラモン教を批判的に継承しつつ成立して行くのです。
また輪廻という発想も広く行われました。これは車が回転してとどまることがないように、生ける物は次の世に向けて無限に生死を繰り返すというものです。これもウパニシャド哲学において、盛んに論じられましたが、共通に見られる特徴は善因善果、悪因悪果の応報説に基づいていました。この発想は仏教にも引き継がれて、日本人の心の深層に今も生きていると言っても良いでしょう。
(1)十六大国時代・マガダ国
アーリア人達はガンジス川上流地域に領域国家を建設し、徐々に周辺への開発を進めます。その結果、BC7-6C.にはガンジス中流域にまで進出し、ここに農耕村落が成立しました。そして BC6C.、ガンジス中流域に「十六大国」と呼ばれる諸国が成立しました。これは北はクル、ガンダーラからデカン高原までの諸国を言います。旧クル国の領域こそが私たちのトレッキングする地域です。
このガンジス川中流域は、上流地域のアーリア人文化の中心地から見ると、新天地であり、ヴェーダ文化の辺境でありました。そしてそれ故に新しい社会文化を要求する素地を持っていたのです。ここにバラモン教を批判して新たな宗教が成立する素地があったのです。
BC6C.-5C.の時期、これら「十六大国」の呼ばれる諸国が興隆します。そしてそこの文化は、反バラモンの色彩を持っていました。バラモン教の行う生け贄儀式の殺生を批判し、不殺生を主張します。この様な状況の中で、ジャイナ教、仏教が成立して行ったのです。
BC5C.以後 BC2C.までの時期、正統的なバラモン・ヒンディー教思想と異端的な仏教・ジャイナ教その他の思想の間の抗争が行われます。そしてインドでは最終的にはバラモン・ヒンズー教の勝利で終ります。仏教はインドでは劣勢となって、他の地域、南はスリランカや東南アジア、インドシナ、北はチベット、中国、日本伝えられ、発展して行くことになります。
一方バラモン教の方でも、ジャイナ教、仏教の不殺生の思想を取入れ、自らの徳目として行きました。これがインドのベジタリアンの起源です。
(2)仏陀のなやみ
上に述べたような時代状況の中で、仏教は成立しました。
仏教の創始者は、仏陀と呼ばれます。仏陀とは、古代インドの言葉、実は今も少数の人たちには使われていてインドの公用語の一つですが、サンスクリット(梵語)で「ブッダハ」と言って、賢者、悟りを開いた人、覚者という意味です。従ってブッダハは複数いても良いのです。しかしここでは、仏教を創始したゴータマ・ブッダハを仏陀と言いましょう。
ブッダの本名は、ゴータマ・シッダルタといい、BC6C.の後半に生まれました。今のネパール南部にいたシャカ族の王子でした。仏陀のことを「お釈迦様」と呼んだり「釈尊」と呼ぶのはそこから来ています。仏陀の生涯は、あまり正確には判らなくて様々な伝説に包まれていますから、これからの話しも、多分に伝説に依っています。
仏陀はどんな悩みを抱いたのでしょうか。彼の人柄について、次のような点が指摘されます。第一に、仏陀生後7日目に母マーヤー夫人は死亡してしまいました。そのため仏陀は幼少の頃から人生の無常、悲しさを深く心に刻み、世の中の矛盾に深い関心を示す子どもとして成長したようです。
第二に、仏陀は非常に感受性が高く優しい人格で、自然界の残酷な弱肉強食の現実と人間界の苦の姿を見て、憂い沈み哀れみの情をもつ青年に成長しました。
父親の王は、深い愁いに沈む王子を見て、王子が出家してしまうことをおそれて、街に出て貧しい者、怪我をした者、病気の者を見ないようにしむけますが、神は術を使って、王子に貧しい者、怪我をした者、病気の者を見させたと言います。そして王子は次のように悩みます。
「人は誰でも老いて醜くなって行く、自分も同じように老いるという不安があるのに安閑としていられようか。病気に苦しむ人を見て、どうして心楽しんでおられようか。
死ぬことが生きているものすべてが行き着く先なのに、人々は平気な顔をして生きている。みんなのんびりと生活しているのは何故だろう」と。
仏陀はその後、家族を捨てて出家して、厳しい修業生活に入ります。その中心は、生死の問題を解決して、心のやすらぎを求めたい、死後の生まれ変わりが永遠に続くという輪廻の輪から抜け出して、解脱を求めたい、というものであった様です。
同じく修業するバラモン僧たちは、輪廻の枠の中で、来世は裕福な人に生まれ変わることを目的にして修業をしていました。仏陀はそのような人たちに次のように言って、訣別しています。「あなた方は天界に生まれ変わろうと考えておられるが、私はむしろ様々な苦しみや迷いから解放されるために再び生まれることのない様にと願っているのです。」
結局仏陀の求めたものは、永遠の輪廻からの脱却、即ち解脱であったようです。それはまた不死の状態になる涅槃の境地に入ることでした。
(3)仏陀の悟り
ついに仏陀は悟りを開くことに到達します。悟りの内容は、曰く言いがたい深遠なものであるわけで簡単には叙述出来ません。ここでは『ブッダ物語』(中村元著、岩波ジュニアー新書)から引用しておきます。
「王子は瞑想による正しい智慧で深い洞察を重ねていった。そしてついに無明があるから人間を人間たらしめている活動が生まれ、老い、死ぬという苦しみがおこるのだと知るに至った。さらに無明のせいで人間が連続して生まれたり死んだりする種子(たね)が出来ることを知った。無明をなくすれば人間の苦しみのすべてが解決されることを知った。
無明とは物事の真実の姿に気づかない事。即ちすべてのことはいつも同じ状態にない(無常)、固定的でない(無我)ということに気づかないことである。
すべてのものの真実の姿を見通おすと、如何なるものも、目に見えない無数の原因や条件(因縁)に基礎付けられて成立している。孤立した固定的なものは存在しない。生き物や人間たちも他から無数の恩恵を受けて、互いに依りあって成立している(縁起)。目に見える限られた自分の存在だけを固執し主張するのは浅はかである。突き詰めるとこういうことが分かった。」
「八正道即ち正見、正思、正語、正業(しょうごう)、正命(正しい生活)、正精進、
正念(正しい自覚)、正定(しょうじょう 正しい瞑想)、これこそが真実の安らぎである涅槃(ニルヴァーナ)に導く道である。」
(4)仏陀の布教
悟りを開いた仏陀は、それを他の人に伝えることに絶望したと言います。仏陀が瞑想から立ち上がって別の木の下に座ると、次のような思いが突然心の中に浮かび上がりました。
「私が悟ったこの真理は、深遠で悟り難く、しかも難解である。また静まり、絶妙で、思考の域を超え、微妙であるから、賢者のみが知りうる境涯である。ところがこの世の人たちは我執(自我の根源)にこだわり、我執を楽しみ、我執にふけって、我執の赴くままに行動している。我執のみを追い求めている人々には、私の悟った縁起の道理は理解しがたいだろう。」
仏陀はこの様に考えて、悟りを楽しんだまま、ここで死んでしまおうという気持ちに傾き、自分が悟った真理を人々に説法しようとはしなかったのです。
すると古代のインドの最高神である梵天が仏陀の心の思いを知って、心配して言いました。「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅してしまう。」梵天は仏陀の前に現れて、合唱して言いました。
「尊い方よ、どうか教えをお説き下さい。この世には、生まれつき汚れの少ない人びとがおります。この様な人々は教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を悟る者となりましょう。」しかし仏陀は、人びとのために真理を説くことを断わります。梵天はまた頼んだが、仏陀は断わりました。仏陀は三度目に頼まれたときに、人々に説法しようという決意を固めたのです。
最初の説教は、ベナレス(ヴァーラーナーシー)で5人の修行者に対して行われました。こうして仏陀は、その後各地で教えを説き、様々な奇跡を行い信者を増やします。この仏陀の言行は後にまとめられて、初期の経典となりました。
仏陀はクシナーラで死亡しました。そしてこの地に住むマッラ族が埋葬したと伝えられています。マッラ族は従僕たちに命じて、クシナーラにある香、花輪、楽器のすべてを集めさせ、さらに500組もの布を集めて仏陀の遺体のある沙羅樹林に赴きました。そこで舞踊、歌謡、音楽、花輪、香料を持って尊師の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養し、天幕を張り、多くの布の囲いを作り、その日を過ごしました。第2日から第6日に至るまで毎日同じ儀式を行った。
仏陀の死亡後第7日になって遺体の葬送を行い、火葬にふしました。この時仏陀の死亡を聞いて八つの部族が彼の遺骨をよこせと要求して来ました。この争いが起きたときに、ドーナというバラモン僧が裁定し、遺骨を八つに分けることで妥協が成立しました。
1898年、インド北辺のピプラーワーというところでイギリス人の地主が自分の所有地にある古墳を発掘したところ、遺骨を納めた壷が発見されて、それには紀元前数世紀の文字で「シャカ」の遺骨である旨が銘刻されていました。これは歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの真実の遺骨を含むものであると考えられています。
この遺骨は、カルカッタのインド国立博物館に保管されました。私たちが1993年8月、デリーの国立博物館で見た「仏陀の骨」は、これの一部だったと思われます。その後一部が仏教国であるタイの王室に譲り渡されました。タイに譲られた遺骨は、その一部が明治33年日本の仏教徒に分与されました。現在では名古屋市千種区の覚王山日泰寺に納められているそうです。仏陀の骨が日本にあるというのは、なかなか興味深いことだと思います。
(5)仏陀死後の仏教の発展
仏陀滅後の教団は発展して行きますが、100年あまりたって、教団の発展と共に、教団は下のような二派に分かれました。
A.上座部 この派は、現状是認的、戒律重視で、仏陀の教えに形式通り従ってゆこうとする長老たちのグループでした。この立場が南方に拡大していき、後に小乗仏教と言われます。現在はタイ、ビルマ、スリランカなどで行われています。
B.大衆部(だいしゅうぶ) この派は、進歩的な立場で、仏陀の教えを形よりも内容を重視し、其の精神をくんで生かしていこうという傾向が強かったのです。自分の悟りと共に、生きとし生けるものの救済を願うという特徴がありました。これが大乗仏教につながって行きます。大乗仏教は北方仏教とも言われ、日本、朝鮮半島、台湾、モンゴル、チベット、中国、ベトナムなどで行われています。
こうして、BC3C.までにインドの仏教は全土に浸透して行きます。
(6)大乗仏教
初期の仏教では、悟りをえて涅槃に入った仏陀・釈尊のイメージがあまりに偉大だったため、自分たちが仏陀になるということは予想もできないことでした。せいぜい仏陀が歩んだ道を自分たちも歩み、大衆から尊敬されるにふさわしい聖者たる阿羅漢になることが目標とされたのです。
しかし大乗仏教の教典では、すべてのものは本来仏陀となる性格をもともと備えていると説いて、仏陀となることが仏道を修する者の最終目標として掲げられました。誰でも仏陀となれる、つまり成仏できると宣言したところに、大乗仏教の特色があると言って良いのです。
成仏への道は、六波羅密を日常生活の中で実践することとされました。六波羅密とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵の6種の実践項目のことです。
しかし、これらを完全にやり遂げることは、仏陀ならぬ普通の人は絶望的にならざるを得ない。今生での達成が難しければ、来世でということになるなります。ところが大乗から発展した密教では、成仏を来世を待たず今生で得ることが出来ると強く主張しました。
もう1つ大乗仏教では発展がありました。大乗では、歴史上現れた仏陀である釈尊と、またそれとは別に真理そのものを仏陀と見なす様になります。大乗仏教はこの様に二種類の仏身を作り出したのです。
歴史上の仏陀を色身(しきしん)あるいは応身(おうじん)と呼び、真理そのものを仏陀と見る、この様な仏の身体を、法身(ほっしん)と称して両者を区別しました。これらの色身、法身の二種の仏身に、報身(ほうじん)を加えて、大乗仏教では三身論をとることもあります。報身とは過去世界の誓願に報われて、人々の救済に現れる仏とか菩薩を指します。四十八種の誓願の結果、この世に出現した阿弥陀如来がその代表的な仏です。
応身である仏陀には説法があります。それに対して法身は真理を仏身に見立てたものですから、それ自身が説法をすることはない、ということが常識です。大乗仏教も伝統的にそう考えていた。ところが後に日本の空海は大胆にも、法身にも説法があり、このことが顕教に対する密教の特色の一つであるとしました。
では法身は我々にどう語りかけるのか。空海によれば、何時でも、どこでも、法身は声無き声でもって、我々に語りかけてくる。ところがそれが見えず、聞こえないのは我々の方で、それを見たり聞いたりする能力がまだ養われていないからだと言うのです。
この様に仏陀に関する考えも発展していきますが、これと平行して、教典の形も変わってきます。古い教典は、「我かくの如く聞けり。」といって始まり、仏陀がどこの山の上で、人々に対してこの様に教えた、という形をとっています。しかし次第に、仏陀が天上の宮殿で仏達に対してこの様に教えた、というように、設定が空想的で内容も抽象的になって来るのです。言い換えると、仏教はゴータマ・ブッダの具体的な教えから抽象的で理論的な宗教に脱皮したとも言えると思います。
この様な変化の末、7世紀のインドで密教が成立してきます。
(1)インド社会の変化
仏教の成立がBC.5C.、密教の成立がAD(紀元後)7C.ですからこの間は1200年ほどの永い時間が経っています。日本では縄文後期から飛鳥時代・「大化改新」頃までの間です。この間インド社会も大きく変化しました。
BC317年頃には、「十六大国」のうち「マガダ国」は強大な「コーサラ国」を破って、ガンジス中流域を中心として北インドを統一し強大化しました。北インドから南はマイソール北部まで支配しました。日本では弥生時代が始まった時期です。
BC327年には、マケドニアの王、アレクサンダー大王がパンジャブに侵入します。これによって、ギリシャ文化がインドに入り込み、仏像が作られる素地をつくることになりました。
チャンドラグプタ=マウリヤの孫のアショーカ王はインド半島の南端を除くインド全域、アフガニスタンのカンダハール地方までをふくむ大帝国を建設しました。マウリア帝国はアショーカ王の死後衰えて、BC2C.頃シュンガ朝によって滅ぼされました。
一方仏教はBC4-2C.既に西域に伝わったようです。次いで、紀元(AD)2C.頃には、大乗仏教はシルクロードに沿って、中央アジア、中国に広がったと考えられています。聖域の遊牧民はもともとシャーマニスティックな呪術信仰でしたが、大乗仏教を信仰していったのです。
AD2C.インド西北部に中央アジアからクシャーナ族が侵入、クシャーナ王朝を作ります。この帝国のカニシカ王は仏教を篤く信仰したことで知られます。同じ頃ガンダーラやマツゥーラ地方で仏像が作られました。
(2)ヒンドゥー教の成立
AD4C.クシャーナ朝滅亡後、北インドのマガダ地方から興ったグプタ朝が統一しました。グプタ朝ではバラモン教の復興に力が注がれて、サンスクリット文学が花開きました。またこの時代に、バラモン文化がインド土着の文化と深く結びついて、新しいヒンドゥー教として展開され始めました。ヒンドゥー教の文化は初めて花開いたのはこのグプタ朝の時代のことです。この王朝は5C.まで続きました。
このBC1C.からAD5C.までの600年間は古代インドの1つの転換点といえる重要な時期であったと言えます。それは次のような重要な文化的な変化があったからです。
第1にヒンドゥー教の「マヌ法典」が成立したのもこの時期のことです。第2にグプタ朝の彫刻にヴィシュヌ神、シヴァ神、リンガ(男根)の形が現れました。第3にヴェーダ時代のアーリア的バラモン文化が次第に土着の文化と深く結び付いて新しいヒンドゥー教として展開され始めました。第4に新しく発展してきたヒンドゥー教の文化の華が最初に開いたのがグプタ朝であったことです。サンスクリット文学が花開き、バラモンを頂点とするカースト制社会が定着しました。また第5に社会の統一的枠組が出来上がる他方で、社会の裏では文化の地方化、多様化が着々と進行していたのです。
(3)密教の成立
4C.以降になると仏教教団は、積極的にバラモン教やヒンドゥー教の儀礼・呪法を採用し、土着的な神々を取り込み、行によって様々な災難から逃れる功徳を強調しました。またその根拠となる教典を作り出します。仏前に香や花を供え、礼拝するという簡単なものから、悪魔を聖域から放逐する結界の法、護摩壇をもうける作法、仏を供養する儀礼、仏を観想する法、請雨とか止雨の法、さらには医療に関する呪術的な儀礼などが、次第に密教教典の中に姿をあらわします。これらは現世利益的なものがほとんどです。民衆を仏教に引きつけるためには現世利益的な呪法が不可欠であったのです。後に日本の仏教者は、これらの密教的な大乗仏教を、7C.以降の本格的な密教(純密)と区別して「雑密(ぞうみつ)」と呼んでいます。
ところがこの様なインド密教の流れも6C.の終わりから7C.の初め頃になると、少しずつ変化します。密教の儀礼を執行する目的が、現世利益だけでなく、精神的な安定を得て、正しい悟りを獲得することにも焦点が当てられる事となったのです。
そして7C.になって、さらに大きなうねりとして「大日経」「金剛頂経」が成立しました。これを以って本格的な密教が成立したと考えられています。これらの本格的密教教典は、従来の呪術的な儀礼や観法を、大乗仏教の思想によって意味付けを行っているところに特徴がありました。それ以前のものと対比して後の日本では「純密」と呼ばれました。また6C.以前の密教を前期密教、7C.の密教を中期密教、8C.以降の密教を後期密教と呼ぶこともあります。